先日の史談会例会では「T家家事録」をご紹介した。その中に明治8年6月末の大水害の模様が記されていた。
同六月十二日ゟ雨ふり續十四日昼
十二時白川は丈以上ニ
八半時一丈以上洪水成■傳光寺前迄洪水来り
爰元床際迄七半過シキミ迄引晩四ツ半過
庭水引細工六丁目家内取片付方々江
除去大野村之内二軒家流白川溺いきい死一人
十五日明午橋中カ一間通計クエコミ
見物通懸り七人計流込候内三人死ニ
川尻甲佐川は丈八尺近年之大洪水ニ
付記置候事
ここに「シキミ」とある。文章の流れからこれが「敷居」であることは容易に判断できる。
書き間違いかと思っていたのだが、そうではなく「シキミ=敷居」であることが後で調べて判った。
これは建築の専門家としてはなんともお恥ずかしい限りである。
門構えに或と書いて閾である。知らなかったなーと思いながら「建築大辞典」をひもといてみると以下のようにあった。
1、門柱の間にあって門戸または通り口の下に横たわる角材、門柱の足固めのために固定されたものと、内外の区画を付けるための取り外しできるもの(蹴放し)とがある。
2、出入口の下端に横たわる無目の敷居
3、戸や障子などをたてるための溝つきの敷居、この場合は閾の転音の敷居が用いられるのが普通。
T家は商家である。店の戸を立て付けるために(1)の状態の横木があり、この高さまで水が引いたということであろう。
鬼瓦が落ちてさびしい天守の屋根に、数本の雑草が丈を延ばしていている姿は何とも悲しい。
加藤神社境内から撮影・・・
土曜日午後熊本城周辺を散策、被害状況をカメラに収めた。
PCに取り込んでみると画面がはっきりしない。地震の際、本や資料の山の中で行方不明になり、数日後発見したのだが、そのせいかどうかは判らないがレンズに曇りが出たらしい。
デジカメの小さなレンズは手入れのしようもない。
これでは使い物にならず買い替えだな~・・・・・電器量販店でものぞきに行きましょう。
(ここ数年使わなくなったフイルムカメラは収納していた箱ごと落下、液晶部分がダメになってしまった。8㎜カメラはまだチェックしていないがどうかしら・・・・)
数日前「肥後国衆一揆」を読もうと思って見つけるが、なかなか出てこない。まだ中身を確認していない三個ばかりの段ボール箱があるから多分このなかにあるのだろうと思うのだが、これをひっぱり出すためにいろいろ動かさねばならず断念した。
それというのもヤフオクを眺めていたら上記の出品を発見、無事落札したからだ。
見つけ出すよりもう一冊手に入れる方がらくちんというのもいささか情けない話だが、少々くたびれ加減の爺様にはこれが正解である。
あと二三日の我慢だし、段ボールを開ける気色にはまったくならない。
東京在住の畏友・近世史家・赤穂義士研究家の佐藤誠氏から「隣人第29号」を御恵贈をたまわった。厚く御礼を御申し上げる。
ひょんな事でご厚誼いただくようになって、随分年月を重ねてきた。その間たびたびこの「同人誌」をお送りいただいている。
今回は「赤穂義士の介錯人・波賀清太夫とその周辺」である。21頁にわたる論考は詳細を究め、何時もながらのお仕事ぶりに頭が下がる。
同じ「赤穂義士の介錯人」の米良氏のご子孫・近藤健氏が著された、「肥後藩三百石・米良家」も佐藤氏が共著者として尽力された。
いささかのお手伝いをしたが、早いものでもう五年が経過したが、相もかわらぬご厚情をいただきながらのお付き合いは73爺には過ぎたるものである。
今晩はゆっくり精読させていただく。
今日の史談会例会の会場は熊本市民会館、行幸橋をわたるともう熊本城内である。
なんとか資料もととのって無事例会も完了、館内の食堂で昼食後一人熊本場内を散策する。
行幸橋手前から馬具櫓石垣のくずれを撮影、橋を渡り湧々座の賑わいの中を二の丸の駐車場へ進む。
西大手門の石垣のくずれが遠望できる。二の丸広場からあちこちの写真を撮影、監物台植物園の前で左折、埋門の所へ出て左折、百閒櫓や二の丸門あたりの石垣のはげしい崩れを確認し、刑部邸周辺を眺めて引き返す。
ふたたび監物台植物園方面に引返し、西大手門跡をへて加藤神社へ進む。神前に進み二礼二拍一礼で参拝、ちょうど神前結婚式の真っ最中で柏手は少々抑え気味で行った。ここから天守・二の天守の惨状に息をのみながら写真撮影、棒庵坂の急勾配に足を取られる思いで下る。
そこから右手に櫓群を見ながら厩橋まで下りてお城一周を終える。約一時間ふくらはぎが張ってきて少々危険状態・・・・
寄り道もせずバスをつかって帰宅。熱中症にはならずとも汗びっしょり、シャワーを終えてゆっくりくつろいでいると、両足の指にこむらがえり。
何とも言えない痛さに悶絶状態。床に座り込んで指が内側に引っ張られるのを何とか押さえ込んで、現在はつま先歩きしている。
たかだか一時間の歩きでこんな状態、情けない話である。しかし熊本城の悲惨な状況を目の当たりに確認することが出来た。
全国の有志の皆様から地震のお見舞いを頂いたが、皆様にご承諾いただき熊本城復興の為に寄付をしようと考えている。
悲惨な状態の熊本城だが、多くの観光客の姿があり、ひとえにその惨状に驚いて居られた。熊本県人は「涙が出るなー」と声をそろえておられる。
私が生きているうちに復旧・復興が終わるかどうか・・・・100歳まで生きねばならないか。
史談会史料全11枚を作成完了、コピー20部作成して一息ついたが、少々手抜きがある。
先にも書いたが何とも読めない文字があり、伏字だらけの資料となった。奈良文化財研究所・東京大学史料編纂所の「解析:木簡・くずし字解読システム」を駆使してもかなわなかった。
完約できず残念の極みである。前後の文章から類推しても何とも分からない。勉強不足をつくずく感じている。
さてこれから文章の背景にある町名やお寺、又「神風連騒動」に関する勉強をしなければならないが、まずはほっとしてこのブログを認めている。
数日かかりっきりで疲れました、コーヒーでも飲んで一休みします・・・・・
20日の史談会例会にとりあげる「T家家事録」の読み下しが遅々として進まない。
実はある方を講師としてお招きする予定にしていたが、急きょ先様の都合で一か月先延ばしとなった。
それではと以前からお預かりしていた「T家家事録」を取り上げようと、その旨を案内状に記した案内状を発してしまった。
明治六年のT家の商売はじめに関することから、七年の台風、八年の大水害、そして九年の神風連の暴動までが今回分、原文五枚、ところどころ文字が読めずイライラが募る。
今日を含めあと三日、コピーして資料20部も準備しなければならないから実質あと二日しかない。
やれることは徹夜でもしてやる「追込み型」の私だが、文字が読めないのはどうしようもない。暑さのせいもあるが、最近なんとも根気が無くなってしまった。
徹夜もいやだな~と大いに弱気になっている。さてどうする・・・・
ウイキペディアの貴重な資料をいたずらで書き直している暇人がいる。どうしてこの様なことになったのか・・・・
土曜日の史談会を前にして「関ヶ原」にかかわる予習をしておこうと「関ヶ原の戦い」を眺めていたら、目次や両軍の武将の名前その他相当量のふざけた書き換えが行われているのを発見した。これは少々深刻な被害である。この項を立ち上げられた編者のお手を煩わせなければならないことである。
ウイキペディアになんとか連絡をしようと思うが、年寄りにはどうしたらよいのかその術をしらない。
皆様で方法をご存知の方はどうぞ連絡方をぜひお願いします。
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8月17日朝に確認しましたところ、正常に復帰しておりました。感謝申し上げます。
デジタル資料で「細川家記」を読みたいというお問い合わせをいただいた。
■藤孝・忠興・忠利公代は「綿考輯録」(但し光尚公については掲載がありません)
国立国会図書館デジタルアーカイブス http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2568410/1
ここに全62巻が収められています。左上の「目次・巻号」をクリックしたのち選択して下さい。
藤孝 1巻~8巻
忠興 9巻~29巻
忠利 30巻~62巻
■綱利公以降「細川家記続編」 (再掲)
東大史料編纂所データベース検索 http://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/
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所蔵史料目録データベース |
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熊本藩年表稿の貞享二年(1685)八月の項を見ると、いろんな人たちが処分を受けている。
■8月10日 沢村宇右衛門・有吉清助・伊藤一平らが立花飛騨守関札ノ内に止宿したため閉門
知行は蔵納同前とし今月より当前扶持方支給
■8月18日 前川与三兵衛(沢村宇右衛門元組)、谷与三左衛門・田中次太夫(續弾右衛門触組)
右江戸にて不行跡、知行召上扶持方下さる
坂井十兵衛・続五左衛門・門司源兵衛(松下清兵衛組)
右三人江戸にて不行跡、暇
里杢之助(有吉清助組)常々の行跡叶わず知行召上当前扶持方
続三四郎(横山藤右衛門組)常々不行跡、暇
これらの出典は「御花畑御奉行所日記」である。事件の全貌を知るためにこの奉行所日記を是非読んでみたいと思っている。
オリンピック開催中とあっても甲子園は熱気に包まれているようだ。
春ベスト4になった熊本の強豪・秀岳館高校、夏も出場し一回戦を突破した。
しかしながらどうも本気で応援する気にならない。それというのもベンチ入り18名がすべて野球留学の他県人ばかりだからだ。
勝利のインタビュも大阪なまりがあって違和感がある。「地震の被災者に勇気を・・」などと言われてもな~
学校経営者は校名が知れ渡って鼻高々なのだろうが・・・・・学校経営の戦略として名監督とその弟子たちを引き込んだわけだ。
監督がいる限りはよいとして、もし熊本を離れることになればどうなるのか、もっと地道な活動が必要ではないのか。
OBの松中信彦氏あたりに協力していただいて、地元密着型のチームは作れないのだろうか。
私の考えは青臭い書生論だろうか?