津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■部分御舊記・軍事部八(10)於有馬之城一番乗・二番乗其外勝たる手柄之衆書付 他

2021-11-13 06:59:30 | 史料

      於有馬之城一番乗・二番乗其外勝たる手柄之衆書付

   有馬城本丸一番乗
益田弥右衛門  城中ニ而鑓付高名仕候并嫡岡本伝十郎ニ火を縣させ申候

   同 二番乗
都合太兵衛   塀之内ニ而組討仕頸弐ッ取申候内壱ッハ鉄炮にて前廉ニ討留候もの本丸一番頸
後藤権左衛門  城中にて頸弐ッ討捕申候
池永源大夫   城中にて鑓疵負申候
河喜多九大夫  城中にて敵弐人討取申候
早水市郎兵衛  城中にて頸取候

   四郎頸討取
陳 佐左衛門  別ニ論無御座候

   四郎大家ニ火箭射付申者
吉田十右衛門  別ニ論無御座候

   本丸一番入之旗
長岡佐渡守   昇頭 馬乗・西垣太衛門
           同 ・田中三郎右衛門

   以上
   寛永拾五年      筑紫大膳亮
      五月三日    寺尾左助
              寺本八左衛門
              須佐美権丞
              永吉長兵衛
              奥田権左衛門
              平野九郎右衛門
        長岡佐渡守殿
        有吉頼母佐殿


      ■松倉長門守殿牢人之覚
   
             川尻町ニ居申候
                由利孫右衛門
             右同所ニ居申候
                小川伊織
             玉名郡梅田村ニ居申候
                高橋猪右衛門
             御代官河野助右ヱ門縁者ニ而御座候付助右ヱ門所ニ居申候
                山口三大夫
             新美八左衛門を頼居申候
                奥野源左衛門
             飯田何右衛門親類ニ而御座候則何右衛門所ニ居申候
                鴨野左藤太
        右六人ハ少知をも取居申たるものゝ由申候

             山鹿郡竹林村ニ居申候
                辻田加兵衛
             河尻町ニ居申候
                岡田七左衛門
             熊本町ニ居申候
                今村平蔵
             右同所ニ居申候
                大嶋吉左衛門
             右同所ニ居申候
                市川平兵衛
               高橋町ニ居申候
                  作蔵
               熊本町ニ居申候
                  市郎兵衛
        右七人ハ切米取之由申候
    右十三人之者御国を奉頼罷越申由ニ御座候

             菊池郡隈府町ニ居申候
                平田権左衛門
             玉名郡滑石村ニ居申候
                熊田忠左衛門      

             右同所ニ居申候
                横山清左衛門
             右同所ニ居申候
                太田権左衛門
             右同所ニ居申候
                山本藤左衛門
             右同所ニ居申候
                山本宗雪
             右同所ニ居申候
                伊地知権丞
             玉名郡府本村ニ居申候
                柴田蔵人
             津田左兵衛縁者にて御座候則左兵衛所ニ居申候
                堀池茂右衛門
             玉名郡府本村ニ居申候
                森山宇右衛門
   右拾人は他国江可参由申候
右相改書上申候間御次而之刻可被差上候以上
   寛永拾五年
      六月十日    沖津作大夫判
        坂崎内膳殿


      ■今度穿鑿仕次第
一、証人之立様御家中之ものまて証人ニ相立申候事
一、廿七日之働御座候而廿は知日にも働申候衆ハ御帳ニのせ申候 廿八日之働斗ハ御帳ニのせ不申候事
  付塀者又ハ突伏或高名斗仕ものともハ御帳ニ書入不申候
一、御帳面ニ不書出る内ニもさのミ不違衆数多御座候得共 或他国衆・牢人証拠ニ又ハ少完之違御座候付書のせ不申候事
    以上
  七月五日         清田石見守判
               志水新丞判
               小笠原備前守判
               長岡式部少輔判
               長岡右馬助判
               有吉頼母佐判
               長岡佐渡守判
        坂崎内膳正殿

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■川田順著・細川幽齋「歌仙幽齋」 歌歴(四)

2021-11-12 15:56:50 | 書籍・読書

      「歌仙幽齋」 歌歴(四)

 天正十四年に幽齋は詠歌大概抄を著した。次で同十五年秀吉の島津氏征伐に随行し
て九州道の記を書き、同十四年小田原征伐にも參戰して東國陣道之記を著した。共に
簡單なる紀行文で、多數の和歌と少數の發句をまじへてゐるが、殊に九州紀行中の和
歌にはすぐれた作多く、歌人としての幽齋の頂點ではなかろう乎と思考する。彼れ時
に五十四歳の男盛りであつた。

 この頃から幽齋の文名一世を壓し、堂上に、武家に、彼の教を聽く者夥しきに至つ
た。その主要なる人々としては、八條宮智仁親王の如き高貴を首とし、公家にては中
院通勝・烏丸光廣・三條西實條等あり、武將には島津義久あり、新納忠元の如き達者
さへ詠草を送つて合點を乞うた。豐臣秀吉は明らかに門人とはいひ難きも、衆妙集を
撿するに、彼と幽齋と屢々和歌の應酬あり。又、松永貞徳・佐方宗佐の如きも、彼に
師事した。末松宗賢の幽齋尊翁御葬禮記の中に「かみは雲の上より下は田舎に至る迄
も、はる/\と心づくしの波を分、歌、連歌の點、色紙短冊の所望、禮法書札、亂舞
太鼓の傳授、御門前馬の立あへる隙もなし」とある通りだ。

 慶長五年秋、關原役直前、幽齋田邊に籠城中、死期近きを知り、和歌秘訣の書を悉
く皇弟八條宮智仁親王に獻ぜんことを請うた。親王は幽齋救出の議を奏せられると、
畏くも、後陽成天皇には、幽齋の死によつて「達道の國材」を喪ひ、歌道の廢れんこ
とを惜ませ給ひて、親王に仰せて和を講ずべしとあり。その叡慮のほど傳達せられる
と、幽齋決然として、「和を請ひて開城するは武士の本意にあらず、よつて只今のう
ちに獻ずべし」と奉答して、古今相傳の箱に證明の狀を附し、並に二十一代集、源氏
物語極秘などを、禁中、親王、及び烏丸光廣其他に獻呈すべく使者に渡した。又、三
條西實條、すなはち恩師の孫に對しても古今傳授を行なつたが、世にこれを「返し傳
授」といふ。かかるうちに再び畏き叡慮あつて、石田勢包圍を解き、幽齋は城を去つ
た。これは、細部は書籍により區々であるが、不朽の史談として傳へられてゐる。翌
慶長六年、彼は智仁親王にも古今傳授をお傳へ申上げた。これより先、天正十六年に
も中院通勝に對して此の傳授をなし、後、慶長八年には烏丸光廣へも秘訣口傳を授け
たのであつた。

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■後水尾院と小説「花と火の帝」

2021-11-12 12:56:19 | 書籍・読書

 寛永三年の後水尾院の伏見行幸のことを調べようと思うが、ウィキペディアをみても「行幸絵図」などはあるが、肝心の行幸の詳細などには全く触れられていない。
 寛永三年二条城行幸. 〔上・中巻〕の中巻の末尾部分に細川越中守の記載が見える。
熊倉功夫著の文庫本「後水尾院」を持っていたなと思い探すが見つからない。地震後長く幾箱も開かずの段ボール箱があったのだが、さすがにこれは開けてしまって押し入れの中や本棚にお出ましをいただいた。
捨てたか?そうこうしているうちに、後水尾院を主人公とした小説、隆慶一郎の「花と火の帝」(日本経済新聞社・1990年版)上下巻二冊が顔を出したので、少々読んでいるうちにすっかり虜になってしまった。
最初の5~60頁の内に後水尾院の意をうけた八瀬童子の「岩兵衛」が、細川幽齋の田邊城の開城に係わっていることが記されていて、続けて読まざるを得なくなってしまった。
奇想天外な発想による小説で、いかにも小説の世界の快刀乱麻の展開だが、將軍秀忠の娘・和子の入内や柳生をつかっての徳川方の院周辺の女御を排除する悲惨な情景にはしばしばうんざりさせられる。
院の鬱々たる思いに主人公「岩介」が寄り添っている。隆氏の筆力にはただただ敬服するのみである。
「伏見行幸」については下巻の後半部に徳川実記を引用しさらりと書いてあるだけである。

数日、この小説に付き合ってから、本来の伏見行幸の史料収集に取り掛かろうと思っている。

    

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■部分御舊記・軍事部八(9)有馬働御帳之内抽書

2021-11-12 06:48:17 | 書籍・読書

      有馬働御帳之内抽書(全)

本丸石垣之名根ニ著申段ニ御座候
一、津田六郎右衛門
   二月廿七日本丸水ノ手口見付之石垣ニ著一番ニ石垣を乗越須戸構へ著敵一人突申候 証人木造兵助にて御座候
   証人口紛無御座候已上

本丸働之段ニ御座候
一、藤掛蔵人
   二月廿七日本丸江乗込敵一人討捕申印ハ西川権四郎ニ見せ申候 証人権四郎口首ハ見届申候以上

三ノ丸之段ニ御座候
一、入江八郎兵衛
   永良弥角   御中小姓
   入江八郎兵衛
   小林助大夫  御中小姓
   佐田長三郎
   二月廿七日三ノ丸ノ一番乗私共四人にて御座候 御仕寄当番にて罷居候処ニ鍋島殿手二ノ丸四半ノしなゑの差物乗込
申躰ニ見へ
   申砌誰共不存三ノ丸乗込候へと申声仕候間則此四人之ものとも一度ニ乗込申候 私共之外ハ三ノ丸一番乗ハ無御座候以上

本丸塀著之段ニ御座候
一、入江八良兵衛
   二月廿七日本丸塀ニ著申候 塀の破ゟニ鑓つかれ引取申候 証人佐田長三郎 証人之口紛む御座候已上

本丸働之段ニ御座候
一、加藤安大夫
   二月廿七日本丸へ乗込敵壱人馬上筒にて討留申候 証人早水忠兵衛にて御座候已上

二ノ丸ニ而頸取之段ニ御座候
一、乃美新八
   二月廿七日本丸大手口十間ほと口の土手をたてニ取居申敵一人つきたおし申候 証人有吉頼母佐内渡辺伝左衛門
   証人之口相違無御座候已上

一、財津市兵衛
   御帳二ハ見へ不申候

御側御弓・御鉄砲頭之御帳ニ御座候
一、高見権右衛門
  一、私儀御弓之衆不残召連三ノ丸ノ内より御先へ御供仕奥田権左衛門組と一所ニ参居申候 二ノ丸へ御押込被成候時御先へ參
    本丸近所へ参越候て御差物を見付不申いかゝ可仕と見合申候内 湯浅角兵衛組共ニ御小々姓衆も参躰見申ニ付て何も御先へ
    被遣候 偏ニ存御詫無御座内御先へ参候段何とも可申上様無御座迷惑ニ奉存候
       一、本丸石垣海手より拾五間ほと水の手口ノ方石垣下まで御弓之衆拾壱人供ニ召連上矢を討せ居申候内ニ御弓之衆六人手負申
    候を相組之もの引のけ残る三人ニ罷成候ゆへ上矢のかせきハ手うすく罷成候間責而自身なりとも何とそ仕乗込可申と存
    石垣際へ著則石垣之上へ上り居申内ニ差物を切おられ其後石にて打落され五六間下にて立上り又石垣へ著 佐分利千蔵・
    水間久馬親と一所に居申候ていきをつき居申内ニ引取候へと御使ニ付小篠角大夫と一所ニ引取御本陣へ参居候而明ル廿八
    日落城迄相詰居申候
  一、上矢を爲討候段ハ貫角右衛門・小篠角大夫見可申候 石垣之上ニ而之儀ハ川村伊右衛門・藤本勘助・坂井七郎右衛門見可申候
    以上

御鉄炮衆并御馬廻と御座候御帳ニ御座候
一、矢野勘右衛門    (     豊後府内の目付    )
  一、十二月廿日ニ私儀松平仁三郎様・牧伝蔵様・林丹波様御供仕罷出候へとも摠乗無御座右三人御引被成候間私共も引申候以上
  一、正月朔日ニ私共義ハ右三人之御上使ニ付有馬玄番様御持口へ掛り申候処ニ玄番様御人数不残被立候処ニ松山権兵衛・横山助進
    私三人入違 捨り申たる竹把を取一ッ完立候ニ付次第/\ニ仕出シ鉄炮を打申候 然処ニ権兵衛・平馬ハ御上使之御座所へ御見
    廻ニ参候 助進・私儀ハ跡ニ罷居候所私共わきを二・三拾人ほとにて掛申躰ニ御座候ニ付 則助進・私両人竹葉把をかけ出シ
    塀ニ著候処ニ鑓にてからち合候所を石にて打倒され又ふミ上りからち合候へとも同勢つゝき不申候事難成ニ付五六間下之
    岸まて何も一度ニ引取罷居候へとも 其後掛り申ものも無御座候ニ付寺尾左助居申処へ参 伝蔵様・丹波様被召寄唯今塀ニ著
            働之段近比成働之由被仰伝蔵様御菓子をまいりかけ候て被下候 其以後も伊豆守様御小屋場ニ参罷在候処ニ伝蔵様・丹波様・
    飛騨様・十藏様御同道ニ而伊豆様御小屋場にて私を被成御覧丹波様・伝蔵様御両人にて何も様之御前ニ私を被召出 元日之
    
    私仕方御物証被成何も様御褒美之御言葉ニ預候 其外私朔日之様子寺尾左助見届可申候間御尋可被成候已上

本丸石垣之根著之段ニ御座候
一、矢野勘右衛門
   二月廿七日本丸石垣下ニ著松山兵左衛門一所ニ居申候 石垣半分ニ上り鑓にて突合申候 証人口相違無御座候以上

牢人衆・他国衆証拠ニ被立候御帳ニ御座候
一、竹原少大夫
   二月廿七日有馬本丸石垣ニ上り塀裏ニ付鑓を二三度合突落され申候 証人谷主膳組ニ入牢人各務四兵衛 右之四兵衛証拠を取替シ
   置申候已上

牢人衆・他国衆証拠ニ被立候御帳ニ御座候
一、金守形右衛門
  一、二月廿七日有馬本丸塀裏ニ著申候所ニ敵大勢見へ申候条私十文字にて塀越ニ三度うち込申候 谷主膳与ニ入牢人石橋宇兵衛
    弟石橋久兵衛証人にて御座候
  一、其後塀破目より敵鑓にて私具足之左わきを突申候 夫より三間ほと海手之角之方ニ参候ヘハ鉄炮にて私口より耳之わきへうち
    ぬかれ引取申候已上

本丸塀著之段ニ御座候
一、明石源左衛門
   二月廿七日本丸石垣きわニはやく著申候 証人小崎与次兵衛 則塀越ニ鑓にてせり合鑓の柄きられ申候 両度乗掛り候へとも石
   にて打落され申候 其後本丸ニ乗明ル廿は知日ニ松木のわきにて一人鑓つけ討捕申候 猿木何右衛門・小崎与次兵衛本丸にてハ
   門池二郎兵衛・難波善右衛門慥に見届証人相違無御座候已上   

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■11月11日11時11分11秒をねらって

2021-11-11 11:11:15 | 徒然

 今日も約5㌔の朝散歩をしてきました。
時間にして約1時間、爺様の足取りは右によれ左によれていますが、まだこのくらいのスピードで歩いています。
マスクを掛けていることを良いことに、時折ぶつぶつしゃべったりしていますから、通りがかりの人が怪訝そうに見て通り過ぎたりされます。
最近は少し朝夕の気温が下がりましたから、ウインドブレーカーを羽織って出かけますが、これも途中ではぬいで腰に巻くほどで、汗をうっすらとかくほどです。
逆流性食道炎も完全ではありませんが快方に向かい、気分も晴れやかになりつつあります。

内容のない話で申し訳ありませんが、これは11月11日11時11分11秒を狙っての事です。11秒の方は外れるかもしれませんが・・・

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■熊本史談会11月例会のご案内

2021-11-11 07:10:02 | 熊本史談会

 水前寺成趣園のサイトにあるように、水前寺成趣園は細川綱利公が作庭され、本年で350年を迎えるという。
清冽な湧き水の池を中心に東海道五十三次を模した回遊式庭園である。

これを記念して種々の催しが予定されている。
その期を一にして、熊本史談会でも、熊本県文化協会名誉会長で公益財団・永青文庫常務理事の吉村良治氏を講師にお迎えして、次のような次第で11月例会を催す。
多くの皆様のご参会をお待ち申し上げる。


                                                                              記

                                        日時:令和3年11月20日(土曜日)
                                                              AM10:00~11:30(90分)
                                        場所:熊本市民会館・第6会議室
           演題:水前寺成趣園創立から 350年の記念にあたり
                 「細川文化と水前寺成趣園」
           講師:熊本県文化協会名誉会長、(財)永青文庫常務理事  吉丸良治氏

           一般参加自由:
                      参加費300円を申し受けます。
              資料準備のため事前にご連絡をお願いします。電話(  090‐9494‐3190 眞藤) 
                                              尚、開会前に当会会合を催しますため、入場は9:50頃からと致します。
                                              又、当日はコロナ対策の為マスク着用ならびにご記名をお願いいたします。


   

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■川田順著・細川幽齋「歌仙幽齋」 歌歴(三)

2021-11-11 06:39:29 | 先祖附

    「歌仙幽齋」 歌歴(三)

 藤孝が實枝に入門して歌歴を踏み出したのは、よほど若い頃からのことと想像出來
るが衆妙集を披いても、青年時代作と年月の明示してある歌は一首も見當らぬ。或書
に云。永禄五年佐々木承禎、義秀と相爭ひ、殆ど干戈に及ばんとす。藤孝、將軍の内
命をうけて近江に下り、之を調和す。その時

 氷りゐし津田の入江もうちとけて國もゆたかに春風ぞふく

と詠みて與ふ。承禎大に喜び、駿馬一頭を贈る。藤孝、將軍の内命を全うして歸京
す。云々。永禄五年といへば藤孝廿九歳であつた。又、或書に云。永禄十年八月足利
義昭が江州甲賀の奥より出て琵琶湖を渡りて若狭へ落去せんとせし時、随行せし藤孝
が義昭の落魄江湖暗結愁云々の詩に和して、

 よるべなき身となりぬれば汐ならぬ海の面にもうきめみるかな

と詠ず、云々。乍併、信長記や續應仁後記にはこの歌「從者」詠とのみして、藤孝と
は明示していない。さて、右の「氷りゐし」「よるべなき」共に傳説敵のもので疑問
の餘地がある。衆妙集所収の歌に就いて述べよう。家集春部「はやくのことなりし、
奈良にまかりて、三條亞相實澄めしぐせられ、手向山ちかき藤樹庵にて當座有りし
に、春旅といふ題をさぐりて」と詞書し、

 いざ櫻花のぬさをや手向山紅葉にあける神の心に

といふ一首あり、「はやくのことなりし」とことわつてあり、又實澄(實枝に同じ)
は天正七年薨ゆゑ、この歌の出來たのは、藤孝壮年の頃、或はもつと若かつた頃とい
ふことがわかる。次に作年月の推定し得るもので最も早いのは、「月の比越後の國主
上杉なにがしにつかはしける」と詞書せる一首、

 白妙の月は秋の夜かくばかり越路の山の雪もありきや

 これは上杉謙信宛のもので、謙信は天正六年三月歿ゆゑ、贈歌はそれより以前と
いふことになる。次は「播州御陣の時、所々見物のついでに、明石の浦にて夜のふく
るまで月を見て」と詞書した一首、

 明石潟かたぶく月も行く舟もあかね眺めに島隠れつつ

といふのである。これは天正六年の夏、四十五歳の時と筆者が一應推定した迄で、確
實のことは究め難い。それから、天正八年、同九年、幽齋玄旨と改名してから同十五
年、同十六年、同十八年と漸く作年月の明白な歌が現れて來るのである。

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■於・熊本博物館「熊本の能文化・能楽伝承」

2021-11-10 12:56:11 | 展覧会

熊本市立熊本博物館で「熊本の能文化ー能楽伝承」が開催されます。肥後金春流・中村家の多くの能楽資料その他永青文庫・松井家史料など熊本に於ける能楽関係の一級資料が展示されます。
右中央の文書は伊達政宗が中村家に宛てたもので、有名な「鶺鴒の花押」が記された貴重な書状であり、その他多くの大名が中村家でお能の教えを受けていたことを物語っています。
このような資料が一堂に会することは早々にはないと思われます。是非ともこの機会を逃さず展観されますようお勧めいたします。

                   熊本市立・熊本博物館からのお知らせ

       

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■部分御舊記・軍事部八(9)寛永拾五年二月廿七日 肥前國於有馬原城働之御帳(二)

2021-11-10 09:38:43 | 先祖附

      寛永拾五年二月廿七日 肥前國於有馬原城働之御帳(二)

一、下村五兵衛
  一、二月廿七日有馬本丸犬走之上両度上り両度なから鑓にてからち合申候 御下知にて引取申候 証人合申候

一、広瀬木工
  一、二月廿七日有馬本丸石垣へ著犬走へ上り申候所を内より鑓にて右之かたさきを突石垣下へ突おとされ申候 御下知にて引取申候
    証人合申候

相果申候
一、樹下右衛門
  一、二月廿七日有馬本丸石垣ニ著犬走ニ上り塀ニ著申候而鑓にて突落され申候 又上り申所をつきおとされ手負申ニ付小屋へ引取申候
    証人合申候

乱気ニ罷成候
一、町熊之助
  一、二月廿七日本丸犬走へ上り塀裏に著申所を矢さまより私胸をつき申候 其鑓を私取申候 其後石手負申候 夫より本丸へ乗こミ申候
  一、廿八日本丸柵の内へはいり鑓をなけつきニ仕又しゆりけんうち申候もの弐人つきとめ申候 其後手負申候而痛申ニ付而引取申候
    証人合申候

一、鎌田源大夫
  一、弐月廿七日有馬本丸石垣へ少上り鑓を合私鑓を切おられ申候 石にても打レ申候 夫より本丸へ乗込申候
  一、廿八日本丸にて鑓をなげつきニ仕又しゅりけんうち申もの両人つきとめ申候 証人合申候

御暇被遣候
一、竹内次郎大夫
  一、二月廿七日有馬本丸犬走へ上り塀之破御座候所にて鑓にてからち合申候 其後石垣之原へ上り鑓を城内へつき入申候所ニ
              鑓のしほくひを敵とらへ申候ニ付引合申候 夫より本丸へ乗込申候 手負申候ニ付退申候 証人合申候

一、福田次郎右衛門
  一、二月廿七日有馬本丸水之手須戸際へ上り申候刻鉄炮にてほがみの下を打ぬき申候得共 其手ニかまい不申石垣ニ著申候を
    又右之肩先ニ鉄炮当り申ニ付引取申候 証人合申候

相果申候
一、小林半三郎
  一、二月廿七日有馬本丸塀下ニ著申候 石を打鑓・長刀振廻り申もの見へ申候而鑓をつき入申と仕所私鑓をきり申候 此の以前
    石垣へ上り候所を二度打落され申候 証人合申候

一、上田忠蔵
  一、二月廿七日有馬本丸犬走ニ上り申所を石にて打落候 其後両度右之乗口へ上り申処を打落され申候 石垣際を前後はなれ不申
    本丸へ乗込申候 夜ニ入引取与頭之傍江参手負申候通与頭ニ理り引取申候 証人合申候

相果申候
一、服部九右衛門
  一、二月廿七日有馬二丸にて鑓を合申候ヘハ敵引申候を追縣鑓を合申候
  一、同日本丸へ乗込敵突テ出味方なたれ申候所踏留居申候 証人合申候

相果申候
一、河喜多八郎
  一、二月廿七日有馬本丸石垣ニ著犬走ニ乗上り申候処石にて打落され申候 又乗上り申所を石にて打落され申所ニ何も引取候へとの
    御使にて引取申候 証人合申候

一、生嶋平左衛門
  一、二月廿七日有馬本丸石垣も塀も崩候所へ著申候 其後乗込小屋より敵三人出申候を壱人仕留申候 其後寺本八左衛門を敵つき申候
    所を脇より其敵の鑓私取申候 証人合申候

団丞事
一、樹下山三郎
  一、二月に十七日有馬本丸犬走ニ上り居申石にて打落され申候 又塀下へ著申候処を又石にて打落され又塀下ニ著其後御下知にて
    引取申候 証人合申候

相果申候
一、山本三蔵
  一、二月廿質日城乗之刻被仰付候楯板持せ参本丸石垣下ニ著 其後乗込本丸にて両度敵二鑓を合せ高名仕候 証人合申候

武右ヱ門事
一、清成八十郎
  一、二月廿質日有馬本丸犬走ニ上り居申処ニ鑓にてつきおとされ申候 又犬走江上り申候処又脇之下を鑓にてつかれ痛申候ニ付
    二十八日二ハ不罷出候 証人合申候

相果申候
一、岡本四郎太郎
  一、二月廿質日有馬本丸犬走へ上り居敵鑓ニ而つき申処を鑓をうはい候へとも石垣ゟころひ落申候 私親源次手負申ニ付十四五間
    ほとかけ退又石垣際へつき申候 証人合申候

一、野瀬角大夫
  一、二月廿七日有馬本丸石垣ニ著さまより鑓を合申候
  一、廿八日本丸にて長刀を持かゝり申候処仕留申候 又同所にて小屋之内敵鑓を持働申候所仕留申候 証人合申候

一、井上新丞
  一、二月廿七日有馬本丸石垣ニ著居乗込城内にて長刀持申敵ニ鑓を合鑓付申候
  一、同日脇差を持居申ものを鑓付申候
  一、廿八日前後与頭ニ付居申候 証人合申候

梶右ヱ門事
一、中川長吉
  一、二月廿七日敵本丸へ引取不申内ニ参本丸石垣下之坂中にて敵一人鑓付鉄炮手申候 証人合申候

御切米取相果申候
一、矢野吉丞
  一、二月廿七日有馬二丸にて小屋之口にて敵ハ内より鑓にて私は小屋之外より鑓にて突合仕留申候 其後本丸石垣へ上り前後著居申候
  一、廿八日本丸にて鑓を合敵一人つき伏申候 証人合申候

御切米取
一、郡 安左衛門
  一、二月廿七日有馬本丸犬走へ上り塀之破ゟ鑓を合鑓にてつきおとされ申候 石にても度々打落され申候 其後又上り可申と仕候処ニ
    小笠原備前被申候ハ手負申候間引取候へと被差留ニ付而引取申候 証人合申候

歩御使番切米取
一、野々村藤大夫
  一、二月廿七日有馬本丸塀之破口にて鑓を合其後本丸にても鑓にてかち合突たをし申候 証人合申候

相果申候
一、渡辺平左衛門
  一、私儀鶴崎ニかち奉行被仰付居申候 今度御陳ニ付私事石火矢・大筒打申候間御供仕度由御家老衆・御奉行衆へ御理申上候ヘハ
    御吟味之上被遣則石火矢・大筒打申候
  一、二月廿七日城乗之刻有馬原之城二丸にて敵十四五人ほと居申処へ参合なた長刀にてかゝり申敵三人鑓にて仕留申候 証人合申候

御切米取
一、財満次左衛門
  一、二月廿七日有馬二丸にて敵十二三人かたまり居申処へ參かゝり私ハ杖にてなた長刀持申敵其長刀つへにて打落しとり候て
    其長刀にて弐人仕留申候 夫より本丸へ乗込申候 証人合申候

相果申候
一、藤本勘介
  一、二月廿七日有馬城乗之刻小笠原備前与之昇奉行仕候 昇之もの参りかね候を備前与小姓ニ昇を持せ勘介手綱を引本丸犬走ニ著申候
    其時石にて数度打れ痛申ニ付御人数乗込夫申内ニ引取申候 証人合申候

一、柏木少九郎
  一、二月廿七日有馬本丸石垣八分程暫こたへ居申其後乗込本丸にて高名仕候
  一、廿八日本丸にて鑓を合高名仕候 証人合申候

一、小林半大夫
  一、二月廿七日有馬本丸石垣半分ほとニ暫こたへ居申其後乗込申候
  一、廿八日本丸にて刀・脇差・長刀にて働申敵一両人鑓付申候

 右之働之衆人数四拾六人
右之衆働之儀面々差出ニ御座候証拠人之書物を受取合相違無御座候間書付上申候以上
  寛永十五年七月五日     清田石見守
                志水新丞
                小笠原備前守
                長岡右馬介
                有吉頼母佐
                長岡佐渡守
       坂崎内膳正殿

 

 

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■快方にむかっているようです・・

2021-11-10 07:36:54 | 徒然

  みぞおちのあたりに痛みを感じて二週間以上がたつ。
市販の薬を飲みだして今日でちょうど10日、一日に30錠飲んでいたから300錠飲んだことになる。
漢方由来の薬でようやく効き目が出てきたのか、四六時中不愉快さが伴う痛みが完全ではないが、少々和らいできた。
本当に有難いという感じがする。1,200錠入りの大きなビンが1/4程減ったが、こりずに飲み続けて平癒に持っていきたい。
「逆流性食道炎」という病気は、胃の入り口の括約筋の動きが鈍くなることによるらしい。
そうなると私のような年齢になると長い付き合いになるようだ。
括約筋の動きを促するためには、横隔膜を動かすのがよく、そのためには腹式呼吸が良いのだそうだが、いつも腹式呼吸をしているわけにはいかない。
この大きなビンの薬は手放せないものになりそうだ。
朝から胸の痛みで目を覚ましたりしていたが、なんとなく朝寝坊しそうな気配である。

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■川田順著・細川幽齋「歌仙幽齋」 歌歴(二)

2021-11-10 06:38:51 | 先祖附

      「歌仙幽齋」 歌歴(二)

 彼が初めて和歌の道に志したことに就いては、太田道灌の場合に酷似した、面白い
挿話が傳へられてゐる。若年の頃、或る戰場にて敵を追ひかけたが、追ひ得ずして引
返さうとすると、從兵の一人が馬の口をおさへ、「今少し追ひかけ給へ。
 君はなほ遠くは行かじわが袖の涙のいまだ冷えも果てねば
といふ古歌あり。敵の乗捨てたる馬の鞍を撫でて見るになほ温かく候」と諫めた、藤
孝その諫言に依りて遂に敵を討取り、これより和歌に志す云々。

 藤孝が師と仰いだのは、三條西公條の子にして、有名なる實隆には孫に當るところ
の、三光院實枝(實澄ともいふ)であつた。實枝に詠草を送つた武人は多く、毛利元
就なども其一人であつた。三條西實澄卿聞書なるもの一巻が世に傳へられてゐるが、
その巻末に「干戈を枕ながらも文道を捨てぬを武勇と申し候に候へばいかやうの障礙
候とも、一部を遂げられ候べき御覺悟、銀山鐵壁の如く御座候へかし」と記してあ
る。藤孝は、良師を擇んだと云へるだらう。

 前述「君はなほ」云々の如き傳説は別として、藤孝の歌歴は實枝に入門した時に始
まると観るべきだが、さて、その入門の年月が判然としない。元龜三年十二月に彼は
實枝より古今傳授を受けた時に三十九歳。當時この傳授を承けることは歌人最高の名
譽と考へられたものだ。而かも二條・冷泉・飛鳥井等の家柄の人にあらずして一介の
武人(元龜の頃藤孝は足利義昭の臣で、城主でもなかつた)なる藤孝がこの名譽を獲
たといふことは、彼すでに久しく實枝の下に學び、力量すぐれてゐたといふ事を證す
るに十分であらう。尋で天正四年、四十三歳の時、再び傳授を受けた。古今傳授とい
ふものは、古今集秘訣、三代集極秘、何々、何々、といふやうに内容が分れてゐたの
で、時を異にし、別々に授かつたといふことであらう。

 翌天正五年、上杉謙信へ藤孝から和歌口傳一巻を贈つた由、某書に記してあるが、
これ勿論古今傳授をしたのではなく、定家又は為家の歌學書の類を何か一巻贈呈した
のであらう。この事は、藤孝の歌名漸く遠國まで聞えるに至つたことを證する。謙信
は近衛稙家に歌を學んだことあり、斯界に關心を持つていた。天正七年正月廿四日、
藤孝の師の實枝が六十九歳で薨去した。(實枝の嗣公國が天正十五年に亡くなったの
で、幽齋は遺子實隆を田邊城に引き取つて教育したと常山紀談にしるす。)

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■BF8★古文書・智海院(熊本藩主)様・寛文元年没・殉死者子孫・弐百御忌御法会・万延元年・ 必要経費等・藩★

2021-11-09 11:00:36 | オークション

           BF8★古文書・智海院(熊本藩主)様・寛文元年没・殉死者子孫・弐百御忌御法会・万延元年・ 必要経費等・藩★

    

 説明書では大変良く内容が説明されており、智海院に殉死した方々の200回忌に関することが記されているとする。
表題では「智海院」を熊本藩主としてあるが、残念ながらこれは間違いで「熊本藩家老=八代城主」の松井興長の事である。
興長は寛文元年に死去しているが9人の家来が殉死した。寛文3年には武家諸法度により殉死が禁止されているから、細川藩内では最後のことであった。
其子孫が9家、200回忌にあたり一堂に会し、回忌を催した軽費を書き上げて、9分割し負担分を計算したものと思われる。
大変珍しい、貴重な資料である。

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■部分御舊記・軍事部八(8)寛永拾五年二月廿七日 肥前國於有馬原城働之御帳(一)

2021-11-09 08:23:00 | 史料

     寛永拾五年二月廿七日 
           肥前國於有馬原城働之御帳(一)

付札以下同
九郎兵衛事
一、長岡八郎左衛門
  一、二月廿七日有馬原之城二丸にて鑓を合高名仕候 夫ゟ本丸石垣下江参摠並ニ乗込右馬助手負ニ付右馬助与少々引廻
    廿七日之夜本丸ニ相詰暁に引取頼母佐備へ參申候 明ル廿八日にも頼母佐与同前ニ本丸ニ相詰申候 証人合申候

亀右衛門事
一、松野縫殿助
  一、二月廿七日有馬之城二丸にて敵突伏高名仕候
  一、同日又二丸中程にて鑓にて突倒首取申候
  一、本丸石垣ニ著塀越ニ鑓にてせり合一人突倒申候 其時右之手ニ少鑓手負申候 証人合申候

松野善右衛門与
一、吉弘四郎大夫                    府内目付牧野伝蔵成純
  一、二月廿七日有馬原之城二丸にて鑓合一人突倒申候 此段牧伝蔵様御覧ニ付嘉悦平馬を以無御失念候哉と御尋申上候ヘハ
    不被成御失念由平馬書付有之

一、明石源左衛門
  一、二月廿七日有馬本丸石垣ニ著塀越ニ貴利支丹とかゝち合申候而壱人突申候 塀へ乗縣申候所石にて打落され申候 源左衛門
    著申候所石稠敷打申候ゆへいつれもなたれ申候へとも源左衛門残居申候本丸へ參候儀ハ御下知にて参り申候
  一、明ル廿八日本丸松之木御座候所にてかせき敵一人鑓付申候 証人合申候

一、續 平右衛門
  一、二月廿七日有馬本丸犬走ニ著鑓にてからち合申候 御下知にて引取申候 証人合申候
  一、石かきへ乗鑓を入申事三度なり

御暇被遣候
一、松山兵左衛門
  一、二月廿七日有馬本丸犬走ニ著敵と鑓をからち合申私鑓おれ申候 其後敵鑓を突出申候所を取申候ヘハ手之内きれ申候
  一、同日本丸へ乗込鑓にてつきやをし首弐つ取申候 証人合申候

病死仕候
一、竹内八兵衛
  一、二月廿七日有馬原之城二丸にて鑓を合高名仕候 其時鑓手負申候 二丸より引取申候 証人合申候

病死仕候
一、香山与助
  一、二月廿七日有馬原之城二丸にて鑓を合突伏申候 其後鉄炮手負引取申候 証人合申候

一、服部武右衛門
  一、二月廿七日有馬原之城二丸にて鑓を合一人打捕申候 証人合申候

病死仕候
一、山内三大夫
  一、二月廿七日有馬原之城二丸にて鑓を合壱人突たをし申候 其時鑓手三ケ所鉄炮手壱ケ所負申候而引取申候 証人合申候

一、荒木彦大夫
  一、二月廿七日有馬原之城二丸にて鑓を合高名仕候 夫より与頭ニ追付与頭一所に罷居申候 証人合申候

一、小崎次郎左衛門
  一、二月廿七日有馬原之城二丸にて鑓を合高名仕候 夫より本丸石垣下ニ著申候 証人合申候

一、寺尾求馬
  一、二月廿七日有馬原之城二丸にて鑓を合高名仕候 夫より与頭一所に本丸へ著鉄炮手負引取申候 証人合申候

相果申候
一、松山次郎大夫
  一、二月廿七日有馬原之城二丸にて鑓を合突倒し申候 鑓手負申ニ付二丸より引取申候 証人合申候

相果申候
一、小崎与次兵衛
  一、二月廿七日有馬本丸犬走へ上り貴利支丹と鑓ニ而突合申候所を内より鑓にて突落され又犬走江上候所をり 証人合申候

一、岡部庄之助 
  一、二月廿七日有馬本丸石垣ニ著鑓にてからち合私鑓を切おられ石にて打落され 其後又石垣際へ付申候 其所を石を打申候ニ付而なたれ候へとも残居申候
    御下知にて引取申御本陳へ參申候 証人合申候

相果申候
一、猿木何右衛門
  一、二月廿七日有馬本丸犬走へ上り塀ぐいに取付塀裏にて鑓にて突合申候 内より鑓にて突落され石にても打落され申候 御下知にて御本陳へ參申候
   
 証人合申候

相果申候
一、矢野勘右衛門
  一、二月廿七日有馬本丸石垣半分ほと上り内より鑓突出シ申所を私も鑓にて突申候ヘハ私鑓を切折申候 其後何も同前に乗込申候 証人合申候

相果申候
一、柳瀬茂左衛門
  一、二月廿七日有馬本丸石垣犬走の上にて塀の破より敵鑓を突出シ申所を私も鑓にてからち合申候 手負申ニ付而引取申候 証人二三度かち合申所見届候

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■川田順著・細川幽齋「歌仙幽齋」 歌歴(一)

2021-11-09 06:50:57 | 先祖附

      「歌仙幽齋」 歌歴(一)

 細川幽齋は天文三年四月廿二日、三淵伊賀守晴員(入道宗勲)の第二子として洛東
鹿谷に生れ、同七年、細川播磨守元常の養嗣子となる。細川氏は清和源氏、足利義康
の孫義實の子義季を祖とし、代々三河國細川に住して地名を族穪とした。室町時代に
入つて、幕府の重臣に列したが、頼春の次子頼有の家は元常に至つて嗣子なく、將軍
義晴の命によつて、三淵藤孝を容れて繼がしめたのである。元常は天文二十三年六月
十六日卒去、時に藤孝廿一歳であつた。

 幽齋の實家三淵氏をしらべる。細川刑部少輔元有に男二人あり、長を元常といひ、
次を晴員といふ。晴員出でて三淵氏を繼ぐ。三淵氏は清和源氏、山城國三淵邑より起
り祖先は足利尊氏の落胤とも、義満の庶子ともいひ傳ふ。三淵加賀守晴恒に子なかり
しため、細川晴員を迎へて嗣とす。それが三淵伊賀守入道宗勲である。その次子藤孝
が出でて元常の養子となつたのだから、藤孝は伯父の家を繼いだことになる。晴員は
元龜元年三月一日、七十一歳にて卒去し、藤孝時に三十七歳。

 母はいかなる人かといふに、養母すなはち細川元常室は清林院とのみ、身分不明。
實母すなはち晴員室は船橋大外記清原宣賢女、天正十三年八月十日逝、藤孝五十二歳
の時である。船橋家は清原氏の族にて、世々明經博士、大外記であつた。

 以上は細川系圖の記すところに據つたのだが、藤孝の血筋に就いては面白い異説が
鹽尻に載つてゐる。それによると、彼は將軍義晴の四男だといふ。義晴に義輝・周崇
・義昭・藤孝といふ子供達あり、藤孝の母は舟橋義賢(宣賢の誤なるべし)の女で、
義晴の愛妾であつたが、後に、藤孝を連れて三淵晴員に嫁したと云。
 かやうに調べてみると、藤孝の父方には、八幡太郎の古はさて措き、祖先以來歌人
又は文人として顕れた人が多かつたが、母方船橋家は清原氏で、世々明經博士・大
外記であつたゆゑ、學問の血脈が幾分かでも傳はつてゐたものと考へられる。 

 

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■【真作】喜聞◆『細川光貞(細川光尚) 長文書状』 

2021-11-08 07:10:10 | オークション

             【真作】喜聞◆『細川光貞(細川光尚) 長文書状』

   細川肥後守光貞(後・光尚)が、細川家家臣・加賀山主馬に宛てた書状である。
まだ精読していないが、永井日向守とありこれが永井直清と考えられ、日向守に叙任されたのが寛永9年11月18日であるとされることから、その時期から光貞が光尚に名乗りを替える寛永18年の間の書状である。
人様の手に落ちてしまう品物だが、誠に勝手ながら古文書の勉強の史料にさせていただくことをお許しいただきたい。
凄く興味がわいていて、何とか読み下しをしたいと思っている。

                         

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