細川忠興の四男 細川立孝書状一通 上林三入宛肥後国宇土藩祖行孝の実父
上林三入とは御物茶師八人の内の一人、旧姓藤村だがゆるされて上林を名乗った。
参考:江戸時代の宇治茶師
細川立允に対する音信にたいしての礼状である。こういう交流があったことを示す貴重な書状である。
細川忠興の四男 細川立孝書状一通 上林三入宛肥後国宇土藩祖行孝の実父
上林三入とは御物茶師八人の内の一人、旧姓藤村だがゆるされて上林を名乗った。
参考:江戸時代の宇治茶師
細川立允に対する音信にたいしての礼状である。こういう交流があったことを示す貴重な書状である。
この言葉は、熊本出身の詩人である伊藤比呂美さんがその著書「切腹考」の中で使われている。
項立ての言葉だが、ご自分がすまわれた家周辺のことを紹介されている。
その家はどこにあったのか、ヒントは二つあるがこれだけでは判然としない。
「愛染院の前を通り、旧三号線を突っ切って、裁判所の脇の急な坂を下って細道に入る。それから道はどんどん低くなり、くねくねとたどり下って、下り着いたあたりに、わたしの家がある。」
「この家の真ん前を坪井川が流れる。」
ここに出てくる坂道が「観音坂」か「中坂」なのかも良くわからない。
しかしながら、「どの坂もお城に向かう」というのは、さすがに詩人の表現だと感心してしまう。
現在もタモリさんが副会長かどうかは知見を持たないが日本坂道学会というものがある。(もっとも会員は二人だけという話も聞く)
これとは別に坂学会(旧・坂学会)というものがあるが、随分以前その事務局から当方にメールが入り、熊本城周辺の坂道に精しい F氏を紹介してほしいとの依頼であった。
F氏はかって熊本史談会の会員であられたが、様々な資料を読破し、現地を踏査して『熊本城下の坂』 (私家版・2013年9月発行)を物にされた。
F氏にご連絡して了解を得た上ご紹介した。そのサイト「熊本県の坂リスト」には、まさに氏の調査の結果の殆どで網羅されている。
「どの坂もお城に向かう」の出てくるその坂を調べるために、久しぶりにこのサイトを開いてみた。
ただ残念ながら、地図へのリンクや説明などがないため、単なるリストに終わっている。
ところで伊藤さんは、この本の題名にあるように「切腹」について一冊の本に仕立てられた。
その第一項はまさしく「切腹考」で、実際切腹する人を見たと仰る。それも熊本人だそうで、わざわざ死に装束で現れて腹に刀を突きたてたという。さすがに引き回すことはなかったが・・自らがお医者さんでご自分で手当てを去れとそうだ。
顔色は一瞬に青ざめ、血が噴き出し死臭を感じたそうだが、読んでいるうちに背筋に悪寒が走るような話だった。
「どの坂もお城に向かう」でも、切腹にまつわる話につながっていて、氏の尋常ならざる「切腹愛」に付き合わなければならない。
「切腹はエロス」であり、「侍の死生観」をたどって行って、たどり着いたところが森鴎外だとされる。
私は今、その森鴎外の全集を読んでいるのだ。鴎外を呼んでいるうちに氏の「切腹考」を思い出し、もう読むことは無かろうと思ったこの本を引っ張り出した。
実は以前伊藤さんからメールをいただいたことがある。その時はいたずらだと思った。
そして最後に「切腹考」を書いているから、読んでほしいというような言葉で締められていたように思う。
しばらくして、たしかにこの本が発刊され、あのメールはやはり伊藤さんからのメールだったのだと思った。
■伊藤比呂美著「切腹考」
残念ながらそのメールが残っていないが、この本の一刷が2017年2月だから2016年あたりのことか、5年ほど前の話である。
「歌仙幽齋」 歌歴(八)
慶長十五年八月廿日、偶然にも藤原定家の正忌の日に、幽齋は京都三條車屋町の館
で薨去した。七十七歳。九月十三日、小倉城外にて豪華無比の葬典が執行せられ、遺
骨は分つて彼地と京都とに斂めた。小倉の墓所は泰勝寺であつたが、後に其寺を肥後
國飽託郡黒髪村に移して改葬した。法號は泰勝院殿徹宗玄旨大居士。京都の墓所は細
川満元の再興せし南禪寺塔頭天授庵に在り。堂前より墓地に入り、道に從つて南行十
數間、つきあたりに生垣を繞らし、北面して木門を備ふる一域あり。これ細川家の塋
にて、幽齋の墓は其東南隅に位せる小廟舎内に五輪石塔を置く。
幽齋の居住に就いても略述する。誕生した所は、細川系圖には「洛陽鹿谷」とし、
但、按於洛陽東山麓岡崎、三淵晴員別墅誕生、後蓋移住鹿谷と附記す。永禄六年忠興
が京一條館にて生れたが、一條の何町か不明である。細川兩家記に、永録十一年足利
義昭が將軍に拝せられて入洛した當時、藤孝の館に滞留すとあり、それは一條館のこ
とであつたろう。天正時代、洛西長岡を領邑ととして勝龍寺城に館した。次で、丹後
入部の節は少時宮津城にゐたこともあつたらしいが、おちついたのは田邊城である。
關ヶ原役後、忠興小倉に移封せられて以後は、彼地と京都とを往來し、京都にては吉
田に閑居して、その家を随神菴とも風車軒とも名づけた。
仰ぐなり先づ天地の神まつる吉田の里に春を迎へて
これは、慶長六年正月の詠である。薨去は三條車屋町で、烏丸通よりも少しく東に
當る。
幽齋の風采如何。大徳寺高桐院藏の肖像によれば、眉長く、眼もきれ長にて、口も
と尋常、殊にふくよかな双頬がよろしい。勇敢の武將といはんよりも、大人君子の如
くに描かれてゐる。尤も、老後の面影ではある。天授庵藏の肖像も、おなじく丸坊主
の老躰ではあるが、この方は顔の表情が梢鋭く、きかぬ氣の人に見える。脇差を挟
み、右手に團扇を持つた座像である。慶長十七年(幽齋薨後二年)に描かれ、崇傳が
「讃」を作つたのは、すなはち此の畫である。讃の一節に曰く、團扇在手、掃除人間
蒸熱、利刀挟腰、截斷煩惱縛纏。
■佐渡・頼母申上書物
覚
松野縫殿助
明石源左衛門
鎌田源大夫
柏木少九郎
小林半大夫
山本三蔵
此者とも働之様子委敷御帳ニ御座候仕上候御帳之内ニ而ハ右之者共ハ少ハよきやうニ奉存候
矢野吉丞
此者之儀二ノ丸にてハ小屋之内ニ居申者と鑓を合候 本丸石垣下ニ前後つきて居申候 其後乗込申明ル廿八日茂本丸にて又鑓を
合敵壱人仕留申候 其上今度御陳中被仰付候御大工方之儀殊外精を出シ埒を明申候間別ニ書付指上申候已上
七月十日 長岡佐渡守判
有吉頼母佐判
坂崎内膳殿
■御請之覚
一、志水新丞儀本丸塀ニ著手をも負申候得共物頭衆ニ加様之衆いまた御座候間 御前江被 召出之儀ハ如何可有御座候哉と奉存候事
一、有吉舎人佐儀頼母佐存候ハ証人ニ罷成候ものハ討死仕候 田中又助召仕候小姓なとを証人ニ相立申儀ハ如何奉存候間此度 御前へ
不被 召出様ニと奉存候通頼母佐申上候事
一、白井兵助儀与之ものを少々召連本丸之出丸内之石垣下ニ著申かせき申候通右ニ書上申候 其上今度嶋原・天草ニ而御船手之儀万事
つかへ不申様ニ埒を明申儀二御座候間被召出可然様ニ奉存候事
已上
八月十六日 長岡監物判
有吉頼母佐判
長岡佐渡守判
坂崎内膳正殿
■覚
一、長岡右馬助
一、二月廿七日有馬二ノ丸にてなた長刀をかまへ居申候敵を二鑓にて仕留申候 鑓を引取申候時小屋之内ゟやり二而私ほうさきを
突申候 彼者を私若党仕留申由二候事
一、小笠原備前守
一、二月廿七日有馬本丸二著ならしより乳通り上のびあがり塀の破目御座候所ゟ敵と互ニ鑓にてからち合申候内ニ石にて打落され
申候由ニ候事
一、清田石見守
一、二月廿七日有馬本丸之出丸石垣ニ著申候処ニ御鉄砲ども追々参候間右之所を二三間立退御鉄砲之下知を仕うたせ申候内ニ
鉄炮手負申ニ付而引取申候由ニ候事
一、平野弥次右衛門
一、二月廿七日有馬本丸水ノ手石垣へ著矢手・鑓手二ヶ所負申其より引取申候事
一、三淵内匠頭
一、二月廿七日二ノ丸にて敵居候所へ懸り合処を鉄炮手負引取申候由ニ候事
一、氏家志厂守
一、二月廿七日有馬本丸水手之石垣ニ著居申候由ニ候事
一、庄林隼人佐
一、二月廿七日有馬本丸之出丸へ乗込申候由ニ候事
一、新美八左衛門
一、二月廿七日有馬本丸之出丸へ乗込申候由ニ候事
以上
八月廿四日 有吉頼母佐判
長岡佐渡守判
坂崎内膳正殿
■白井兵助手前吟味仕候覚書 長岡佐渡守
有吉頼母佐
覚
一、白井兵助二月廿質日有馬城乗之刻兵助組之御船頭・御加子共ニ百廿七人召連罷出候得とも二ノ丸より本丸之間にて多分おくれ申候
出丸之詰之丸江兵介著申所江は兵助共ニ十一人之外ハ参不申候 出丸之次之石垣迄ハ参候 御船頭・御加子も御座候 夫よりおく詰ノ丸
ヘハ右十一人著申候 御船印ニ角取紙をつけ兵助持せ申候所ニ詰之丸ニ而御船印ニ城内より火をかけきり折申候 此証人合申候
廿七日の手負・死人拾八人御座候 今度之御陳ニ付而兵助組之手負・死人有馬海手之御番船ニ居申候ものゝ内又ハ天草ニ一揆おこり
申候刻御使は舟ニのり参候御加子之内右之手負・死人前後四十七人御座候事
一、廿七日之夜雨ふり申ニ付而とまを取ニ御加子を遣申候得ハ其御加子罷帰兵介ニ申候ハ入江三丞兵助を被尋候と申候間則引取三丞を
尋申夜明時分ニ尋相申候処ニ御船手をかため居申候へと御意之由三丞申候間御船頭・御加子をあつめ御船手かため廿八日落著迄
相詰居申候事
一、出丸之詰之丸へ著申ものとも
白井兵助上下二人
御船頭
手嶋茂大夫
佐川少兵衛
高見善兵衛
渡辺七郎左ヱ門
御船頭久間平兵衛せがれ
久間傳藏
御やとひの御船頭
竹田忠左衛門
松田七郎兵衛
御加子
少三郎
佐右衛門
右兵助手前之様子吟味仕書付上ヶ申候 今度天草・嶋原へ御人数渡り申候儀二付而も万事手つかへ不申候様ニ精を出し残所も無御座候以上
七月廿二日 長岡佐渡守判
有吉頼母佐判
坂崎内膳殿
以前このブログで■公式記録・百石取りの家計をご紹介したことがある。
うろ覚えだが、この出典資料には200石取りとか500石取りなども併記してあったように思う。
私の悪い癖で出典を記していないから、それらをここでご紹介できないのが残念の極みだが、この資料に依ると100石取りでも3石8升の赤字だとしていが、たしか200石取りで何とかトントンとあったように記憶する。
しかしこれは、臨時的な支出を伴っていない。例年思いがけない出費があって、たとえば幕府からの普請の要請だとか、江戸屋敷の火事・熊本府内の火事その他自然災害などにおける、急なる出費などを要する事が発生すると、強制的に徴収されることになる。払いが出来ないと年四割の利子が加算され、蔵米から強制的に徴収される。
そうであれば、1,000~2,000石も頂戴する高級家臣はさぞ優雅であろうと思われるが、それがそうもいかぬから不思議なことである。
これもさきにご紹介した2,000石取りのS家の貴重な三年分の「借金返済計画」が存在する。
・赤字が発生した年は、1,257石余の収入がある。しかしながら支出の累計が1,972石余に及び715石余の赤字である。
その内訳は(1)年4割利息の借米が840石、(2)拠出金が223石余、(3)江戸借金288石、(4)元和7年暮の御袖判による借金562石余(5)米の大阪までの運賃59石余である。
・そして翌年(寛永三年)には黒字にするというのである。
収入は前年同様の1,257石である。前年借金の大幅な返済が完了しているため、支出は前年の残米を大阪で処分しての返済
(運賃とも)+拠出金80石で差し引き356石余の黒字である。
・翌々年になると知行収入に加え前年の余剰米を貸し付け(年利4割=499石)が+され計1,756石。支出は拠出金160石+借銀・借米659石余=819石余 差し引き937石の黒字とするとしている。
果たしてこの計画通りに事が運んだかどうかは定かではないが、この通りだとすればこの脅威的改善は、年4割という貸し付けからくる利益に依っている。
この高利の金を借らざるを得ない家禄の低い武士や扶持米取りが多く存在していたのである。
我が家の先祖は200石だから、500石だから関係なかろうと思っておられるかもしれないが、このような金を借りて拠出金を拂い、汲々の生活をされていたかもしれない。
そろそろ我が「メダカ」さんの冬支度を準備しようかと思っている。
まだ水温は下がっておらず、メダカの活動も落ちてはいないように思える。
しかし、どんどん気温の方が下がってくるから、ケースの外廻りに断熱対策を施さなければならない。
毎日餌を与える時健康状態などを観察しているが、皆おおいに元気に動き回っている。
昨年から今年にかけては成魚が11匹ほどだったが、産卵期には9匹ほど生まれて同じボリュームのなかで泳ぎ回っている。
少々水量を増してやらないと、大きいものでは30ミリ、小さいものは10ミリほどしかない個体が入り混じって泳いでいるから「うじゃうじゃ」という感じで大いに「密」な状態である。
人間もメダカもこのご時世密は避けねばならない。
閑な爺様の時間つぶしにはもってこいの、朝と夕方のお世話仕事である。
「歌仙幽齋」 歌歴(七)
終りに、彼の歌風及び歌論を検討しよう。
「幽齋の歌風は近體に終始し、殊に二條流なり」と結論するのであるが、それは餘
りに明白なことで、縷述する迄もない。彼は二條流の祖なる俊成・定家を斯道の聖と
仰ぎ、降つては新勅撰集以下の十三代集を精讀し、遡つては、俊成等の宗とした古今
集を勉強したけれども、萬葉集の古體には關心すること甚淺かつた。古今集を十編讀
んで、萬葉集を一編讀んだといふ程度であつた。連歌及び發句には、當年の流行に漏
れず、彼も興味を持ち、その影響の片鱗とも思はれる言葉づかひが、稀ながら彼の和
歌に認め得ることを特記してよからう。幽齋の近體には、新古今集にいささかの宗祇
宗長流もまじつてゐる。それから、世間では、當年の歌人といへば幽齋と長嘯とを並
べて云ふ常識があるけれども、兩者は人間としても歌人としても大分相異なつてゐる
のである。この事に就いては、小著の戰國時代和歌集昭和十八年刊の中に論じて置いたの
で左に轉録する。
幽齋・長嘯は桃山時代より江戸初期に亘る時期の代表的歌人なれば、二人を比較
して論評すること最便なるべし。先づ二人の人物を考ふるに、到底同日の談にあら
ざるほど幽齋がすぐれたり。武將としての閲歴はいふ迄もなき事ながら、幽齋は室
町將軍のために盡したる若年の頃より田邊籠城の老齢に至るまで、百戰往來の勇者
なりき。長嘯(勝俊)は武門に生れ秀吉の近親にてありながら、戰功の一も語るべ
きものなし。關原役直前に於ける彼の態度の如きは、境遇とは言へ、むしろ陋とす
べし。故に予、長嘯を好まず。藝能の才分より考ふるに。幽齋は刀剣の鑑定に於い
ては優に本阿彌の資格を有し、茶道に於いても、歌舞音曲に於いても、有識禮式の
古實につきても、料理の包丁をとりても、容易ならざる玄人にして、多藝多能、驚
くに堪へたり。長嘯は歌道以外に聞ゆるところ無し。次に本論に入り、和歌史上の
位相を比べんに、幽齋は初め二條流の三條西實枝に就き學びしも、後には同派の柱
石となり、斯道廢れんとせし戰國時代に在りて能く文運を維持したりき。長嘯は後
れて生れ、戰國時代と關係甚薄きも、清新の歌を創めて江戸時代の魁をなじぬ。兩
者甲乙無しと謂ふべきか。歌風を比較するに、幽齋は端然として傳統に據るを常と
し、秀歌の數に入るべきものを不少遺したるが、長嘯は往々にして新奇を好み、誹
諧に堕せんとする傾向のものを詠みぬ。幽齋にも諧譃あれども、その諧譃は最初よ
り狂歌のつもりにて詠みしものにて、長嘯が眞面目なる歌の中に誹諧味を混じたる
とは根本を異にす。さればこそ後に難擧白集の如きもの現出せしなれ。小澤蘆庵が
長嘯の墓を鞭ちし傳説さへあり。又、長嘯の歌の一長所としては、洛東靈山、後、
家集の亞流とさへ見ゆることあり。その情は常にほそぼそとしてこまやかなり。幽
齋は意力の人、長嘯は感情の人。
幽齋の歌論と穪すべきものは少々傳へられてゐるけれども、獨創卓見は多くない。
これに就いては別の章(遺著)にて述べようとおもふ。
維新の新人議員が指摘した「わずか一日で100万円」を疑問視した話がメディアで取り上げられて、この行末は波紋を呼びそうな気配がある。
この新人議員・小野泰輔氏は先の熊本県の副知事だったから熊本人には記憶に新しい人である。
比例での当選ながらこのような「新人」感覚が汚されていない初々しさを大事にして頑張っていただきたいものだ。
維新の反応は早く、全議員のこの100万円を党費として特別に徴収して、しかるべきところに寄付をするとしている。
今のところ他党からは発言が聞こえてこないが、厄介なことを言い出したものだと、苦い顔をしている党も多いことだろう。
このことは下手な扱いをすると来年の参議院議員選挙に大きく影響をしてくるのではないか。
今度の選挙は結果としては予想を裏切る結果になったが、メディアの調査能力のいい加減さが露呈してしまった。
共産党を含む野党の統一候補問題も、選挙結果からすると拒否反応の方が大きかったことを物語っている。
10万円給付問題も「自と公」の持たれあいからくる副産物だが、多くの国民が違和感をもった。
本来であれば、コロナで困窮する家庭に給付が行われるべきものだった。
これらの結果に国民はある方向性を感じ始めているのではないだろうか。
選挙の次の場面での投票行動に、新たな思いをするのではないか。勢力図が崩れていくような気がしてならない。
追記‐15:00
自民党の茂木幹事長が自民党も返還すると言い出した。立民は党首のい選挙をひかえているから対応に遅れるのだろうが、早い方がいいぞ。国民や共産、公明、維新はどうする・・・急がないと遅きに失するぞ。失うものは大きい。
■二月廿八日本丸にて働之衆
一、安井喜平次
一二月廿八日有馬本丸にて敵数多居申所へ参鑓を合せ壱人突伏申候 証人合申候
相果申候
一、近藤新五左衛門
一、二月廿八日有馬本丸にて鑓を合壱人討捕申候 証人合申候
相果申候
一、国友十左衛門
一、二月廿は知日有馬本丸松之木壱本御座候所にて鑓を合突たをし申候
一、同日同丸松ノ木より先へ参又鑓を合せ突倒シ申候 右之証人合申候
一、野田源四郎
一、弐月廿八日有馬本丸にて鑓を合せ打捨ニ仕候 証人合申候
一、臼杵万五郎 付札 可相尋事
一、二月廿八日有馬本丸にて敵七人ぬき出懸り申候を壱人鑓を合仕留申候 証人合申候
御暇被置申候
一、寺尾孫丞
一、二月廿八日朝有馬本丸柵を破敵大勢鑓・長刀持居申候を鑓を合せ大勢を突たて壱人突留申候 証人合申候
相果申候
一、臼杵少大夫
一、二月廿八日有馬本丸にて敵七人かゝり申候を則一人鑓を合仕留申候 証人合申候
御暇被遣候
一、下条長三郎
一、二月廿八日有馬にて敵壱人鑓にて突留申候
一、同日右之所より先にて敵と鑓を合壱人突留申候 右之証人何も合申候
弥右ヱ門事
一、桑木浅右衛門
一、二月廿八日有馬本丸にて敵と鑓を仕突留申候 証人あわせ申候
一、花分次右衛門
一、二月廿八日有馬本丸にて敵鑓を持はたらき申候もの一人突ふせ申候 証人合申候
相果申候
一、湯浅次郎大夫
一、二月廿八日有馬本丸にて敵四人突ふせ申候 鑓を茂合せ申候 証人合申候
一、入江伝右衛門
一、二月廿八日有馬本丸松の木之所にて鑓にて戦ひ突伏申候 証人合申候
一、同廿七日之働ハ牢人証人にて御座候付別帳ニ仕差上申候
相果申候
一、藤本猪左衛門
一、二月廿七日有馬本丸にて柵を罷出敵あまた居申所にて鑓を合手負引取申候 証人合申候
八郎右ヱ門事
一、佐藤少三郎
一、二月廿八日有馬本丸にて敵を鑓仕申候 又弓にても矢かすを射申射たをし申候 証人合申候
御暇被遣候
一、村上清大夫
一、二月廿八日有馬本丸にて敵七人縣申を壱人仕留申候 証人合申候
与三右ヱ門事
一、吉富五左衛門
一、二月廿八日有馬本丸にて鑓をあわせ弐人仕留申候 証人合申候
一、片岡半丞
一、二月廿八日有馬本丸にて敵壱人突留申候 其後又敵参人なた長刀・鑓にて突出申候を鑓にて一人仕留申候 証人合申候
相果申候
一、野田佐衛門
一、二月廿八日有馬本丸にて鑓を合敵弐人仕留申候 証人合申候
相果申候
一、山田次郎介
一、二月廿八日本丸にて敵壱人脇差なけ打ニ仕候を鑓ニ而仕留申候 証人合申候
一、廿八日之働両度之内一度ハ牢人証人にて御座候付別帳ニ仕差上申候
鶴崎ニ被召置候御船頭相果申候
一、東 次介
一、二月廿八日有馬本丸松ノ木下にて敵と鑓にてからち合壱人突ふせ申候 証人合申候
鶴崎ニ被召置候御船頭
一、藤田清兵衛 付札知れ不申候
一、二月廿八日有馬本丸にて敵壱人突ふせ其鑓を引取内ニ又敵二三人出向候を則其鑓にて一人突伏申候 証人合申候
鶴崎ニ居申候御船頭松村久兵衛預之御加子 付札
一、御加子 仁藏 在不申候
一、二月廿七日有馬二ノ丸にて敵小屋より出なた長刀ニ而懸り私股を切申候 則其敵を刀にて仕留申候 証人鶴崎ニ居申候医者
道意と申もの加〃見善左衛門有馬へ罷越候ニ付而同道仕罷越城乗之刻右之通慥ニ見届申候由証文御座候
右之働之衆
人数合五拾人也
寛永十五年 有吉頼母佐
七月廿二日 長岡佐渡守
坂崎内膳正殿
「歌仙幽齋」 歌歴(六)
愚按によれば幽齋の幽玄主義は、二條家の歌學を勉教し、傳統氏した故といふ一事
のみに基づくのではなかつたらしい。和歌以外の方面からの因縁に於いても、彼は幽
玄を理念とするに至つたらうと愚考する。久松博士が前掲の著書の他の章に於いて論
究せられた通り、鎌倉武家時代以降には、幽玄は「道」となり「宗教的境地」とまで
發展して來たのであつた。耕雲・世阿彌・正徹・禪竹・心敬・宗祇と貫いて來た此の
理念は、武士の道念の中に影響し、滲透するに至つた。武將の幽齋は道念としての幽
玄をおのづから懐いてゐるにちがいない。又、能樂亂舞に堪能なりし彼は、この餘技
の感化からも、幽玄と不可分にならざるを得なかつた。
幽齋は勿論單なる傳統維持者にあらずして、身後に影響を及ぼし感化を遣し、和歌
史上の一存在ともなつたのである。智仁親王・通勝・光廣・實條などの人々が其門に
出て、慶長以降の斯界を左右した。さればこそ、佐々木信綱博士著近世和歌史の如き
も、「細川幽齋及その門流」の章を以つて巻首に置いた。要するに、元禄享保に至つて
地下の革新歌人ら蹶起するまでは、幽齋が和歌界を率ゐたのであつた。彼は身後の壽
命も長かつたのである。
木下長嘯の「玄旨法印をいためることば」といふ一文が芙蓉拾葉集に収めてある。
餘り上手ならぬ擬古文をだら/\と長く書き、花多くして實少なく、甚だ讀みづらい
が、幽齋と竝び穪せられた歌人の文なので、左に一端を抄録する。
「さりとも今一度の對面は給はりて、おぼつかなくいぶかしき事のうたがひは、
はるるばかりねんじわびながら、深谷の埋木となりて、人しれぬ栖にかさけちぬれ
ば、松の柱の竹の垣はうき世隔つるふしとか、外に窓の月影さし入、よな/\は、
もとつ人を思ひ出て、軒端の草のしのぶかた/\おほくて、つひにやみにしぞか
し。」「さてもおのれ、いつばかりにや、ふな君が七もじあまりをつらねて、みせ奉
りし事のありしに、心ざしやさしとて、よろしきよし、たすけのたまへりしを、そ
ののちあまたたびになりにければ、こまやかなることなど、したためおかれし一ま
き、今みいでたるに、有りしながらの俤さへそひて、長き形見の筆の跡、海より深き
惠は、おきどころなく、いつわするべしともおぼえ給へらぬを、言葉いやしとて空
しくやみなんは、かへりて理りを知らぬ物なるべし。たどる/\も、そぞろごとを
だにかきつがんと、ねんずめれど、こがねをのりものにすらん人のほかおもけれ
ば、うちまどへる心地して、いよ/\みだりがはしく、そのすじとなき、とりのあ
とどもになむ。」
■有馬城乗之刻働之衆重而改出申帳
一、柘植源右衛門
一、二月廿七日有馬本丸石垣ニ著石垣を上り申候処を鑓にて突石にて打落され申候 又上り可申と仕候処を引取候へとの御使ニ付而
引取申候 証人合申候
一、的場勘助
一、二月廿七日有馬本丸水ノ口升形ニ著申候所升形ニ敵四五人出候間鑓を入かせき申候 証人合申候
一、上田久兵衛
一、二月廿七日有馬本丸塀大破の下石垣著鑓にてからち合私鑓切おられ申候 其後引取与頭所ニ罷居申候 証人合申候
市郎左衛門弟
一、財津少介
一、二月廿七日有馬本丸石垣之上にて鑓を合せ申候所を脇より長刀にて鑓を切おられ申候 向之敵私を突申候所其鑓を私取申候
其後石垣之上より打落され申候 其後乗込候へとも手負申候所痛申ニ付引取申候 証人合申候
一、越生儀兵衛
一、二月廿七日有馬本丸石垣を上り塀越ニ鑓にて突相石手負申候 証人合申候
一、熊谷忠右衛門
一、二月廿質日有馬本丸塀ニ著申候内より鑓を突出し申候を私も鑓にてからち合申候 私鑓を切おられ申候付持替之鑓にてかせき
石にてうたれ手負申ニ付而小屋江引取申候 証人合申候
相果申候
一、小林半左衛門
一、二月廿七日有馬本丸石垣塀裏ニ著塀越ニ鑓にて突相申候 鑓手負石にて打落され申候 証人合申候
相果申候
一、永良孫兵衛
一、二月廿七日有馬本丸石垣を乗上り申候所ニ鑓ニ而突候 眼ニ血入見分かたく働不罷成付而引取申候 証人合申候
平左ヱ門事
一、関 安丞
一、二月廿七日有馬本丸石垣下ニ著塀越ニ突相申候 証人合申候
相果申候
一、岡本源次
一、二月廿七日有馬本丸石垣塀の手犬走ニ著鑓を合鑓手・長刀手三ケ所負引取申候 証人合申候
御暇被遣候
一、樹下九郎太郎
一、二月廿七日有馬本丸石垣犬走ニ上り塀の破より鑓を入申候 証人合申候
一、永井安大夫
一、二月廿七日有馬本丸石垣ニ著乗上り申候処石ニうたれ息きれ申ニ付蓮池まで引取水をたへ又石垣江著申候
其後手痛申ニ付引取申候 証人合申候
八右衛門事
一、元田伝次
一、二月廿七日有馬本丸二丸にて鑓を持申候敵突ふせ申候 首ハ討捨と図書被申ニ付捨申候 其後本丸須戸口升形ニ図書と同前ニ著
鉄炮手負申其後四ッ時ニ小屋へ罷帰申候 証人合申候
一、上村甚五左衛門
一、二月廿七日有馬本丸石垣大手ノ出丸にて敵大勢ノ内ゟなた長刀を持申敵ふりかけ懸り申候をからち合仕留申候
其所間四五間ほと置右之股を鉄炮にて打れ引取申候 証人合申候
相果申候
一、岩佐源吾
一、二月廿七日有馬本丸須戸口より四五間ほど下ニ而左ノ股を鉄炮にてうたれ申候へとも痛ミ不申候ニ付其ゟ塀ノ手二著申候所
又右之かいなニ鉄炮手負申候 証人合申候
相果申候
一、釘本十左衛門
一、二月廿七日有馬二丸ニ而鑓を持居申敵一人突伏申候
一、同日本丸石垣ニ上り申候所を石にてうたれ石垣根に著居申候へとも痛申ニ付与頭主膳ニ理り小屋へ罷帰候 証人合申候
相果申候
一、伊藤左内
一、二月廿七日有馬二丸にて鑓を持向候敵と鑓を合せ突伏召仕候もの二首を取せ其頭本丸須戸口二三間下にて西郡要人ニ見せ捨申候
要人申分首ハ見申候鑓合候所ハ見不申候
一、本丸水ノ手見付之石垣ニ乗申候所石にて打落され申候 又上り申候時石垣ノ上にて鉄炮ニうたれ申候付引取申候
証人合申候
相果申候
一、川村伊右衛門
一、二月廿七日有馬本丸北ノ方塀裏ニ著申候 さまより敵鑓を突出シ申候 此方よりも鑓にてたゝかい申候 証人合申候
右之所に著居候衆之内ニ而ハ伊右ヱ門はやく乗込申候
相果申候
一、市村一郎兵衛
一、二月廿七日有馬三ノ丸浜手より鑓を合せ敵一人討捕申候 其後本丸石垣ニ著申候 右之証人合申候
一、高見少五郎
一、二月廿七日有馬本丸石垣塀越からち合申候 其後本丸乗込敵四五十人居申石をうちかけ石手負申候 其後 証人合申候
七ッ時まて罷居候得とも石手痛候ニ付一所ニ居候衆理り小屋罷帰申候 右之証人何も合申候
相果申候
一、阿部五大夫
一、二月廿七日有馬本丸石垣半分ほと乗上り塀ノ破より塀越に鑓を合申候
一、同廿八日之朝本丸松ノ木下ニて敵一人突たおし申候 右之証人合申候
一、弓削五郎兵衛
一、二月廿七日有馬二ノ丸にて敵一人鑓仕候
一、同日本丸海手之塀際ニつき塀越ニ鑓にてからち合申候 証人五人之一人合せ申候
一、廿八日夜明ニ本末松ノ木の所にて敵一人鑓にて突留申候 証人合申候
相果申候
一、原田十次郎
一、二月廿七日有馬本丸石垣七八分目程ニ上り内より鑓にて突申を伐私稼申候
一、廿八日本丸松ノ木御座候所にて刀・脇差・しゆりけん打申ものを三人仕留申候 其後手負引取申候 証人合申候
一、寺本久太郎
一、二月廿七日有馬本丸にて敵一人なた長刀にて懸り申候を突伏申候 証人合申候
一、同日両度之働之内一度ハ他国証人にて御座候ニ付別帳ニ仕書上申候
一、武藤長兵衛
一、二月廿七日本丸塀の破口石垣ならし石ニ手をかけ両度上り可申と仕候所を両度なから石にてうち落され候 証人合申候
一、廿八日本丸にて鑓をなけ突ニ仕候敵一人突伏申候 証人合申候
一、同日働両度之内一度ハ他国証人にて御座候ニ付別帳書付上申候
一、野田小三郎
一、二月廿質日本丸石垣ならし際まて上り候へとも石にて打落され申候 証人合申候
一、同日之働両度之内一度ハ牢人証人にて御座候ニ付別帳ニ仕差上申候
杣奉行
一、村川作右衛門
一、二月廿質日有馬本丸海手之方塀手二著申候 私著申右之方四度なだれ申候へとも四度ともニふみ留居申候処石にてつらを打ハられ
申ニ付和田伝兵衛せひ引取候へと申ニ付引取申候 証人合申候
銀子堀
一、篠原清兵衛
一、二月廿七日有馬二ノ丸塀を越敵一人縣申候を鑓ニ而仕留申候 証人合申候
一、同日之働両度ノ内一度又ハ廿八日働ハ他国証人にて御座候ニ付別帳ニ仕差上申候
「 御大工棟梁善蔵聞書控」というものがある。熊本城の普請に係わったと思われる大工の棟梁の善蔵から善三郎なる人物が聞き取った控えかと思われる。
原本は残されていないようで、近代にいたった書き写されたような資料が残されている。
それゆえ一級資料としての扱いは受けていないが、その内容の確かさから本物であろうと思われる。
実はそのコピーを持っているのだが、これがまた行方知れずである。(どこかにある事は間違いない)
幸い全文読み下しをしていて、その内容はUSBにおとしていて健在である。
これを覗いてみようと思ったのは、「下津棒庵」について調べているさなかふと思い出したからである。
加藤清正に召し出されたというが、お公家さん(久我氏)出身で鹿苑寺(相国寺派・金閣寺)の僧であった人物だ。
熊本城の建築に大いに活躍していることが、この善蔵の記録からもそのことが伺える。
該当する部分をご紹介するが、慶長・元和・寛永期の熊本弁で書かれており、熊本人でも難解でスラスラ読むことは難しく、これも大変興味深いものである。
加藤家は元和二年ころには家中が二つに割れ、元和四年にはこの棒庵が幕府に目安を上げるに至った。牛方・馬方の争いである。
訴訟合戦は泥沼状態になり秀忠の裁断は棒庵の目安に沿う形で、馬方(加藤右馬允派)の勝利となった。
加藤家家臣団は再編される。加藤家没落の予兆と棒庵の複雑な心中を見る思いがする。
そしてまた、棟梁・善蔵にとっても加藤家の没落は深い悲しみの事件であったろう。
清正公の仰せ 俺は 家来の衆 安土
ここのお城のでくる前だったか 御先々代様のおほせによっておらあ下津さんけらいのしゆうと 大阪とあづち表にいくことになった
お公家さんの末
それは熊本の城下をおたてになるためだった。下津さんなもとはなんでも京のおくげさんのすへ辺のお方げな、なにこと
居られたのを
であっちのお寺におんなはったつば御先々代さまが
(一行空白) (金閣寺の僧)
このお方はなか/\もちこみの子かい方であったか ぼんさんであったのを 御先々代様がぜひともというてさそふて京からこっちにつれてお出でになったときいておった
御納戸のこと(財政) 出来る
御なんどのこつは一さいこの方にまかせきりであったとかで、ここに御城下のでけるやうになったつは この人のすゝめなはったことがもとだったつげな
どうしてもこうしでも 場所がせまいから 出来始め
そも/\府中じゃどうしてんこうしてん ばしょがせまけんこつちにうつしになったが それから古町に町がでけはじめた次第で、この一方にはお城をおこさにやならんちゅうふうになってきたと きひておった
場所を
そこでおしろのはし□をき□□□□に 御先々代様は御国入のずうっと後 かねてあっちこっちとおひまのとき御巡見になった 小西行長
はじめは杉島に目をつけなはったが 摂津守の方とあってざんねんながら とりやめになんなはったばい おれはそのころあとからおともいたしまわったが、どどのさいごのばしよが 茶うす山だった
お城かたつとすれば主しやどうしん町もこれにでけんといかんけん さてさうなってくっとお城の立てかたのぎんみときた
かうなってくるとまづお城のつくりかたのみかたたい、あづちと大阪などのお城のくみあわせのみつもりをせにやならん
私 あなたの父さん
お殿様からその申付がわっちにあったけん わるがへんとっつあんをつれてたひ立した
よその
高麗の御陣のときにやずいぶんとくるし目にあうたてばってん、このよそんお城をいくつもみてまわったことも 一とおり
あなたのお父さん
のなんぎくろうしやなかったぞ 図引きや主がへのとっつあんがさしたが、さてもどってきてからいよ/\ 茶うす山の図引となったときや 岩野の御武家で宗久隆さんがこの役になんなはったばい
飯田覚兵衛・森本儀太夫
町家の方は下津さんが図引きの役、お城の図引のでけ上った后で それを御先々代様がいひ田、もり本さん達とちへを出しあはせて長んか間ギんみをしなはったこっをおぼへておる。
おしろが茶うす山手にきまってから 山の地ならしときたばい、こるが大事であって、その次ぎにや材木と石のせんぎ こるがぎようさんほねがおれた
瓦焼き 飯田山
このほかにかはらやきは江戸ヨリ下しになって いひだ山のしたでやかせになった。
分は 阿蘇・菊池 金峰権現山
ざいもくのぶんな あそきくち、茶うす山、きんほごんげん山の方からも きり出しになり 石は六かう山、きおん山と
津浦(熊本市北区津浦)
おかみだけ、つのうらあたりからもとりよせなはったばい
「歌仙幽齋」 歌歴(五)
さて、この古今傳授なるものは、二條家の正統を學んだ東常縁に始まり、文明三年
の頃宗祇に授けられ、宗祇より三流に分かれて傳はつた。三條西實隆に傳はつたもの
が、二條家の當流で、幽齋の受けたのは、それであつた。肖柏に傳へられたるを境傳
授といひ、肖柏より宗二に授けたるを奈良傳授といふ。その内容といへば、古今集全
部の口授と、特に秘密とせられたる三木三島などの解釋であつて、後世の學究より觀
れば殆ど無價値に等しきものである。されば本居宣長の如きも、常縁を痛罵して、
「後世を誤る奸賊、此の常縁に極まれり」とさへ言つた。かやうのものを尊重し維持
した幽齋に對しても、後代の批難はあらうと思ふが、それは、當年の時勢、寰境と相 寰の宀冠の下に八とある
俟つて論ずべきものだ。三條西に就き、二條流歌學を勉強して歌人となつた彼として
は、内容は兎も角、師匠の家の歴史として尊重せられて來たものを抛棄するに忍びな
かつたのであらう。按ふに彼は、古今傳授を歴史とし、儀式として保持したに止ま
り、それが彼の作歌や歌論の上に影響したことは、毫もなかつたのである。
幽齋の和歌及び歌論を檢討するに當つては、幽玄の理念と彼との關係を是非穿鑿せ
ねばならぬ。みづから幽齋玄旨と稱した彼である。二條流なる以上は、定家、及び其
父の俊成を宗とするが必然で、然る上は、自分が出來ても出來なくても、幽玄を和歌
の最高理念とすることになる。幽齋と幽玄との關係に就いては、久松潜一博士の日本
文學評論史、總論歌論篇の中に要を盡くした卓見がきされてゐるので、それを少しく
抜抄させて戴く。
「細川幽齋の見解は從來の歌論の集成にある。幽齋聞書を見ても二冊の中に四十項
目に分れて居るが、大體奥義抄や八雲御抄によつて扱はれて居る問題に對して先人の
説をあげて、多少の私見をあげているのである。さうして比較的短い中に雑多の問題
がよくまとめられて居る所に幽齋の綜合的傾向は見られる。」「中世の幽玄論のやうな
内容としての静寂感といふ如き點にふれる所が殆どなく、むしろ形式論としての餘情
論であり調論となつて居るのである。これは近世の香川景樹の調の如きも中世の餘情
主義と通ずる所がありながら、その餘情の内容に於て古今的な優雅感となつたのと同
様である。これは中世の幽玄論の形式的方面のみが理解されたと見られるのである。
この傾向の先驅を幽齋に見るのであつて、宗祇等ではなほ中世の幽玄論を基調として
ゐたのが幽齋に至つて幽玄論の形式的方向のみを見ることによつて、平安時代の古今
集を重んじたのもそのためである。かくて幽齋が中世の象徴的手法をみとめながら、
なほ古今敵な調を主張した所に。景樹へ進んでゆく點がみられるのである。しかし幽
齋に於ては景樹ほどの積極的な主張は勿論見られず、ただ平安時代から中世にかけて
の歌論の粋をを集めたといふべきであり、近世への過渡的意味しかないと思ふ。」
先に■後水尾院と小説「花と火の帝」で書いた熊倉功夫氏の「後水尾天皇」を、押し入れの棚の奥深いところからお出まし戴いた。
付箋やら栞やらが挟んであって、以前精読したことがうかがえるが、とんと忘れてしまっている。
どうも後水尾帝の「伏見行幸」は詳細が分かりにくいのか、ウイキペディアでも取り上げていないし、寛永文化の研究の第一人者である熊倉功夫氏のこの著においても上辺をさらうようにしか取り上げられていない。
徳川実記あたりを読まなければいけないか?
後水尾帝に嫁いだのが徳川秀忠の女・和子いわゆる東福門院である。小説「花と火の帝」では、帝の御子をはらんだ女御を柳生が襲い殺害するという無残な描写に眉を顰めるが、和子はそんな徳川のやり方に反発している。
東福門院和子の化粧量は一万石という膨大なものであったというが、和子は父・秀忠のそのようなやり方に抗するように大いに金を使ったという。
その最大たるものが「衣裳」であった。東福門院を含む「衣裳好み」が三人いて、今一人は遠山久太夫と離縁した「虎」という女性で三万両を有していたという。そして今一人が細川三齊の愛娘・烏丸宣賢の簾中萬姫(化粧料千石)である。
「三所にて、京中の小袖模様もなにも、いろ/\仕り候」と記録が残されている。
私が敬愛してやまない、「京都ぎらい」の著者・井上章一先生(国際日本文化研究センター所長)は「祇園は坊主でもっている」といわれるし、京都の寺院は江戸時代の平安によってもたらされ、普請にしろ種々の仏像制作にしろ、いろいろな工芸や織物など、幕府の保護や大名や大商家などによってもたらされた。
京都の西陣などの織物の発展には上記お三方「三所」の大いなる浪費が一役を買っていたことによる。
この時代ならではのことであり、京都のこれらの繁栄も江戸時代の終焉により大方が衰退していった。
「天皇はんはお江戸に行ってしまはって、いつに成ったら御帰りになりますのやろ」と長閑なことだが、京都の今の繁栄は、江戸時代の残影である。
わが細川藩の萬姫様も、京都の為に尽力された。(めでたし/\)
江戸期 『 切支丹宗門の儀 長岡監物殿へ 』 熊本藩士 古文書
中根家に於いては典助を名乗る人物が2人おられるが、これは年代からして10代の典助に関する切支丹宗門改めに関する「覚」であろうとおもわれる。中根家では3代室が転び切支丹の奥田権左衛門の家系であり、それから7代経過しており、類族改めの範疇(6代以内)からは外れている。
この時期の「公儀仰出」により提出された「覚」であろう。
■ 中根丈右衛門 (南東26-1)
小助
1、市左衛門 御鉄炮頭衆 千石
2、平兵衛・一正 (1)御添頭 三百石
(2)御鉄炮頭衆 千石 (真源院様御代御侍名附)
(3)千石 (真源院様御代御侍免撫帳)
(4)沢村宇右衛門組・三拾挺(頭) 千石 (寛文四年六月・御侍帳)
妙応院(綱利)代~ 鉄炮五十挺頭
~延宝三年二月(病死)番頭
3、次兵衛・正春 御物奉行 小兵衛組・千石 (御侍帳・元禄五年比カ)・・治兵衛
室:奥田権左衛門(初代)女・きち (転切支丹奥田権左衛門・系図)
4、小助・正康
5、平兵衛・正箇、正時(初・勘弥)
(1)御留主居御番頭 宝暦五亥十一月十一日当役
(2)千石 御留守居大組附御留守組出田組御番方五番 屋敷・高麗門
寛延元年十一月(物奉行)~宝暦五年十一月 中小姓頭
宝暦五年十一月~明和元年十一月 留守居番頭
明和元年十一月~天明元年九月 番頭
明和二年九月~明和三年九月 鶴崎番頭
安永五年九月~安永六年十月 鶴崎番頭
6、平右衛門
7、平兵衛 寛政元年三月(大組附)~寛政十二年八月 八代番頭
寛政十二年八月~享和元年十月 留守居番頭
8、典助(平兵衛) 御鉄炮三拾挺副頭・鈴木彦兵衛副頭 長岡組・千石
9、才八(平兵衛)
10、典助 旧知千石
11、次左衛門
12、丈右衛門 大組附 千石
参考:中根氏の歴史