津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■甲斐青泙「託麻原戦之図」

2025-01-19 07:42:22 | ご挨拶

 「平成肥後国誌」の編著者・高田泰史先生から、先生の「肥後武将の源流」という著書をご恵贈給わったことがある。
すごい乱丁の本で、数ページ印刷が飛んでいて白紙のみとなっている。
先生は該当ページをこぴーされて、ハサミで切ってこれを糊付けされた。残部がないからとそんな本を頂戴したのである。
もう10数年以上前のことだが、そんな本だからこそ私には貴重この上ない財産になっている。
後に熊本史談会の若い友人・N君が古書籍店に在りましたからといって、本来の体裁の本を手に入れてくれたから、私はこの本を二冊所蔵している。

 表紙には甲斐青泙の勇ましい「託麻原戦之図」が利用されている。
この絵そのものを高田家で所蔵しておられたようだ。高田先生が亡くなられた後、N君は膨大な遺品の整理をかって出て、高田家のご遺族の力に成った。
その後この絵は古書籍店に売り払われたようで、それをN君が見つだし、なんとそれを購入したのである。
昨日の史談会にN君がこれを持ち込んで、会場でお披露目した。良成親王・菊池氏 VS 今川了俊の戦が繰り広げられた「託麻ヶ原」は、まさに私が住んでいる地域であるから、少々の感慨もある。

                                             

 N君が高田先生の最後の弟子を自認して共にすごした数年間は濃密なもので、今は先生の遺蹟の顕彰を一人黙々と続けている。
「託麻原戦之図」も、とても人の手にわたるのは耐えられないことであったのだろう。
共に高田先生の薫陶を受けた者として、彼の積極的な行動に感じ入っている。感謝。

      

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■文字散策4-「齋」と「齊」

2025-01-18 07:34:51 | オークション

 歴史のことなど深い知見もないままに始めた我がサイト、当初の頃はこの「齋」と「齊」の字の区別もままならず、お叱りのご指摘を受けたことも懐かしい思い出である。
「齋=斎」は「忌み」であるが、細川家における藤孝公の「幽齋」、忠興公の「三齋」の「齋」は 、「心身を清めて 神に仕ること。」と考える。
幽齋公の残された文書で「幽齋」と記名されたものは多く無く思われ「玄旨」が多いように思うが・・
さて、現在ヤフオクで三斎公の著名と花押の「断簡」が出品されている。つまり、ある文書からこの部分を切り取ったものである。
「模写」とあるのは、案文であることをうかがわせるが、それにしても内容が失われて痛々しい。

【模写】委託HK◇時代 細川三斎書状花押断簡(未装)(掛軸 掛物 茶掛 表具 揮毫 手紙 消息 花押 武将 大名 細川忠興 茶の湯 利休七哲 )


                  


「齊(斉)」の字は、細川家の10代・11代・12代の三代が、将軍家齊から御名を頂戴して齊茲・齊樹・齊護を名乗った。
一斉とか斉唱などの言葉から察せられるように、「凹凸がなく等しく揃っている。調っている。」の意である。

                                                            

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■熊本史談会1月例会の御案内

2025-01-17 07:21:17 | ご挨拶
                    記

期日:令和7年1月18日(第三・土曜日)午前9時45分~11時45分 
場所:熊本市電交通局電停前・ウェルパルくまもと(熊本保健所入居ビル)1階「アイポート」
講題:肥後の歴史・第1回「肥後の恐竜時代~縄文・弥生・古墳・飛鳥時代」
講演:当会会員・中川敏孝氏
 
一般参加自由:
    連絡不要、但し当日参加費 500円(資料代を含む)を申し受けます。
    お問い合わせ 090-9494‐3190 
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■「藪入り」という習慣

2025-01-16 08:15:02 | ご挨拶

 近世から近代にかけて「藪入り」という習慣があった。商家などで住み込みで働く人たちが、年に二回、一月十六日とお盆の十六日に「暇」を貰うというものである。
終戦後、日曜日が定休日と定められるに至り、次第にこの習慣は廃れていった。
古く江戸中期の俳人・太祇の句に  やぶ入の寝るやひとりの親の側  とあるように、年端もいかぬ奉公人たちは、年に二度のこの日には、遠い道のりを我が家を目指して馳せ帰り、親兄弟たちとの楽しいわずかの時間を過ごした。

          裏戸よりつとかけ込みて藪入す   山上荷亭


中には身寄りが無かったり、家が遠く帰郷ができない人もあり寂しい思いをした人も多かったろう。

          身寄りなき藪入町を歩きけり  雪鳥

 私が現役時代身を置いた設計業界も月100時間ほどの残業はざらで、そんな時期は日曜出勤も当たり前であった。
今考えるとよくやったなと思うが、「24時間働けますか」などというコマーシャルが流れるほどだったから、今日週休三日などという大企業が表われると、大いに驚かされる。
一方では近所のスーパーのように「年中無休・24時間営業」などという、消費者にとってはありがたいが、「休日は取られていますか」と少々心配になる。
「藪入り」案外どこかで生きながらえているのかもしれない。

           

          

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■東照宮遺訓

2025-01-15 20:09:13 | ご挨拶

      人の一生は重荷を負いて遠き道をゆくが如し。
      いそぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。
      こころに望みおこらば、困窮したる時を思ひ出すべし。
      堪忍は無事長久の基。いかりは敵とおもへ。
      勝つことばかりを知りてまくる事をしらざれば、害其の身にいたる。
      おのれを責めてひとをせむるな。及ばざるは過ぎたるよりまされり。  
         慶長八年正月十五日  家康

 この有名な家康の遺訓も、現在では異議が唱えられるなど少々価値を損なっているように思える。
しかしながら、そのことを承知のうえで読んでみても、中々含蓄のある言葉ではある。いちいち御尤もと私は思う。

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■小倉城

2025-01-15 07:17:18 | ご挨拶

                

 忠興が豊前小倉を拝領して入国したのは寛永五年(1600)の年末の事だが、中津の城に入城している。
忠利が嫡子と決まると、忠利を中津城主となして忠興は小倉を居城とする。
その小倉城の築城に着手したのが、寛永七年(1602)の今日だとされる。毛利(森)勝信によって既存の城に手が加えられ、これに忠興が更に手を加えて縄張りをなし大天守を築城した。

   慶長七年小倉を御居城ニ可被成と被思召、正月十五日鍬初被仰付候、廿六七日之比、小倉ニ御越被成御縄張被仰付、御家中ニも
   丁場の割被仰付、其後も度々御出被成候

 完成まで七年かかったといわれるこの城は、その当時は珍しい四層よりも上の層(五層)が大きい唐づくりといわれる城である。
現在の天守は豪壮華麗な姿を見せる天守だが、築城当時は唐破風などはなく「唐造り(南蛮造)」という扁平な表情であったようだ。
縄張りは「海城」と呼ばれるように、海堀に堅固に守られているが、これは忠興の前任地・宮津城の縄張りに相通づるものが見て取れる。
忠興が隠居すると、入れ替わりに嫡子・忠利が入城し、三斎と称した忠興はかって居城とした中津城へ入っている。

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■細川内膳家・四代・忠孝隠居の記録

2025-01-14 09:29:25 | ご挨拶

 細川家関係において歴史上奇妙とも思える事件がいろいろ存在するが、これは中々その真実迄到達できないのが常である。
細川内膳家の四代・忠孝は、享保三年(1718)~元文四年(1738)迄の21年間「押籠」にあったという記録がある。
「押籠」とはただならぬ事件だと思われるが、先述の如く詳細については判らない。
今日「一月十四日」をブログ内検索を懸けたところ、内膳家の家譜にたどり着いた。
これは忠孝が41・2歳の頃の話であるが、自らは隠居し、息忠英(時習館惣教)に家督した記録である。

今日の日附の記録が次のようにあった。文中忠重とあるが、忠孝の事である。
「宝永五年三月到仕、隠居料千石、号愚隱、元文四年五月十七日歿(63)、洞厳院休軒愚隱日請、室・長岡左門興知女」

       一宝永五年(1708)正月十四日旅御家老三宅藤
        兵衛殿被成御呼忠重公御手之病強ク惣躰
        御気色不被勝候二付御隠居被成度被思召
        候段御家老中江申談早々達 御聞候
        様ニと被 仰聞候依之藤兵衛殿刻御家老
        中江被及■■一刻も早ク被仰候事故
        綱利公御在江戸ニ而被成御座候得とも右之

        趣被申上候処同三月十四日月番之御家老
        有吉四郎右衛門殿同役松井求馬殿大御目
        附岩間弥右衛門殿御屋敷江参上被致従
        綱利公仰之趣を被相述御隠居相済
        忠雄公様 此時十歳被為成候 御家督国中一番之上
        座諸事御格之通御相続有之忠雄公
        此時迄ハ次郎太郎様与申候一ト通之御礼者
        忠重公御不快故小笠原備前殿を以月番
        御家老衆江被仰達江戸江ハ御礼として

        大久保角左衛門を御使者ニ被差上品々御進
        上有之候大久保角左衛門江ハ従 御本家様より
        白銀被為拝領候忠重公早速御剃髪被成候
           
        而奉称(愚)隠様与               
     一、右御隠居之御達被成置候二付 次郎太郎
        様御家督被成候ハゝ御幼年之御事ニ付諸
        事何のも御成長まで相慎御本家集様
        江此方御家来より無礼等不仕様相心得可
        申旨被仰出候依之途中時宜相等之儀も

        御用番御家老衆江被仰入候而御席ニ
        御聞ニも達被置候様被仰入候依之入念左之
        通相心得候様被仰付候
           本家士中ニ對し我等者共無礼無く様
           相心得以来左之通可心得候有吉四郎右衛門
           江■等直ニ申聞置候入念事之由申候

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■寒満月

2025-01-13 19:12:07 | ご挨拶

             寒満月 狭き歩幅の老いの影  津々

 たった今、七時ころ私の部屋から外をのぞいたところ、真上にまさに「寒満月」が煌々と輝いていました。
本当は明日14日が満月なのでしょうか、乱視の私は今日も満月だと思ったことでした。
如何にも冬らしい、寒々とした空気感が天頂の月にもうかがえます。
そして今日は成人式、次の時代を担う皆様に最大なる祝詞を贈りたいと思います。
洋々たる将来が平和な世界であり続けることを願います。数年前の孫の成人の時には、誠に下らぬ句を作りました。

           孫成人 年金爺の気持ちのポチ  津々       

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■「具足鏡を与う」名誉の家

2025-01-12 07:52:34 | ご挨拶

           伊勢海老のかゞ見開きや具足櫃  許六

 細川家には文政の頃から、正月の十一日、先祖武功の家に対して具足鏡が与えられるようになった。
武家の風習としてはもともとは正月廿日に行われていたらしいが、この日が徳川家光の忌日となったため十一日に変更に担ったと伝わる。
齊樹公の家記には次のように記録されている。
(文政二年・1819)癸未正月十一日先祖武功ノ者ノ子孫ヲ広間ニ呼出シ、具足鏡餅ヲ領チ与ウ、コレヨリ年々定例トナリ、一部ヲ是日、一部ヲ十三日ニ別ツ」
これに該当する名誉のお宅については、かっての
■武功之子孫御鏡餅頂戴でご紹介しているのでご覧いただきたい。

具足鏡とは、家々伝来の具足に供えた鏡餅のことだが、許六の句のように「伊勢海老」供えられるというのは稀であったろうが・・・
齊樹公の仰せ出は、長きにわたる知行の借上など、沈滞した空気の活性が思惑として見えてくる。
いずれにしろ、これらのお宅ではこれ以降「名誉の家格」として誇りにされて来たことであろう。
「青龍寺以来」「丹後以来」「関ケ原武功」「大坂の陣武功」「有馬陣武功」等々の家が対象であろうが、ご紹介した後この209家の内の二三のお宅のご子孫から、ご連絡をいただいたこともうれしい思い出である。
「鏡開き」が子々孫々に「名誉の家」として誇りの儀式として伝えられていくことを望みたい。

 そんなことには我家は埒外の家だが、それでも祖母(母方)が元気だったころは、お正月に何故か五月飾りの「兜」を飾り付けて鏡餅が供えられていたことをかすかに覚えている。

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■腱鞘炎

2025-01-11 07:11:47 | ご挨拶

 昨日はブログを休んでしまったが、一昨日の昼過ぎ頃から強烈な腱鞘炎に襲われて以来、PCのキーが叩かれなくなった。
一昨日マイナカードの更新のために区役所迄自転車で出かけたが、途中で電池が切れてしまった。
そうなるとペダルが急に重くなって、ハンドルをつかむ手に力が増すことになる。これが直接原因だった。
強烈な痛みが走り、左手が硬直してしまった。何とか役所に行きつき手續をする間も手は硬直している。
両手をこすり合わせて温めたり、ズボンのポケットに手を入れたり色々試みるが、一向に改善しない。
両手共血流が止まっているのではないかと思うほど冷たい。帰宅後愛用の赤外線電熱器に手をかざしたり、温水につけたりして改善を試みる。
こんな状態が昨日も一日中つずき、とうとうブログの方は今年初めてのずる休みとなってしまった。

 今日も左手はあまり良い調子ではない。右手人差し指一本でキーを叩いているが、こちらも硬直の兆しを見せ始めた。まずい。

 30分ほど時間をおいて再タイピングを始めたが、左手には毛糸の手袋をはめてみた。「股火鉢」ならぬ「股電熱器」に右手をかざしながら、この短い文章をタイピングしている。
市販薬を買いに出かけずばなるまい。サポーターも購入しよう。
天気は良いが、今日は随分寒い。自転車はよした方が良さそうだし、少々遠出のドラッグストア行きとなりそうだ。

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■文字散策3-「儀」

2025-01-09 08:48:08 | ご挨拶

                  

 先にご紹介した■豪潮の壬辰元旦の試筆の七言絶句にある「儀」だとする筆跡である。
七言絶句だから、一句の末字と二句・四句の末字は押韻させなければならない。
ところがこの豪潮の試筆の第四句の末字は、一句の「詩」、二句の「枝」つまり「し」と押韻することが必要だから、「儀=ぎ」ではつじつまが合わなくなる。
第四句は「海東先照太初」(海東先に照らす太初(始め)の儀)とあるのだが、儀を「し」とは読まないだろうから、上の文字は「儀」ではないのだろうと私は考えた。
「し」と読む文字は252字ある。現在、句として成り立つかを一文字ずつ当てはめてみてチェックを始めた。
ご苦労なことだが気になって仕方がない。

 さてこの文字、【儀】(ぎ)は、「出典 小学館デジタル大辞泉について」によると、次のようにある。
古文書でよく目にする「私儀」は、「私こと」となる。

[名]
儀式。礼式。「婚礼の儀」
 事柄。こと。「その儀ならば論に及ばない」
[接尾]人代名詞人名、あるいはそれらの側の物を表す名詞に付いて、…こと、…に関して、の意を表す。
多く、通知通達などの文書の類に用いられる。
私儀この度一身上の都合により…」
「陳れば本稿―も御承知の通り」〈漱石・吾輩は猫である〉
 

 

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■綱利公誕生

2025-01-08 07:19:25 | ご挨拶

 寛永廿(1643)年の今日正月八日、細川家5代当主・綱利が誕生している。
生母は清高院、父光尚は清高院の懐妊を報告されると「堕す」ように指示したという話が残っている。
光尚の母・保壽院付の岩間六兵衛が預かり、岩間の小屋でお六(綱利)が誕生した。
「お六」の名は六兵衛の「六」からきていると岩間家の記録に残るが、如何なものであろうか。

光尚が「堕す」ように指示したという話は、その原因については触れられていない。
清高院のその後の華美な生活ぶりが、つとに語り継がれているがそんなことが原因であったかもしれない。
そして、その出自については、最終的には京都牢人・志水道是の娘・吉だとされる。元和五年(1620)六月の生まれだとされるから、24歳の頃の誕生である。
記録によると

寛永十九年閏九月十五日の岩間六兵衛から長岡監物宛書状(抜粋)
    懐妊之者御満足ニ被思召候通被仰下候、親ハたいかうのそうせふ様御内ニ而内海但馬と申候、
    此そうせふの儀ハ只今之広橋大納言御舎弟ニ而御座候、すしょうもあまりあしき物ニてハ無
    御座候間、先々大慶ニ存候、以下略

親は志水道是の筈なのだが、太閤の曽祖父の御内の内海但馬という人物だとしている。そして広橋大納言の弟だとし、「素性悪しき者」ではないと報告している。
六兵衛は「まずは良かった」と安堵の態が見て取れる。
そして志水道是について「於豊前小倉御侍帳」に於いては、清水大納言だと記し、別の史料では「京都住 慶安三年肥後下向、城内竹之丸居住 万治元年、合力米三千俵・百人扶持 寛永(文)三年二月三日歿」と記す資料がある。

 一旦「堕す」ように指示した父・光尚だが、六兵衛の屋敷で生まれた子が男子だと報告されると、母子ともども受け入れている。其の後清高院は綱利の弟・利重(新田藩藩主)をも生み、生母として盤石の地位を得た。
しかし生活は乱れ、筆頭家老・松井興長その他から幾たびも諫言を受けるほどである。
綱利が亡くなったあとには37万両の幕府借入金が明らかとなり、細川家の財政難は慢性的なものとなっていった。

 綱利の剛毅な性格は、例えば赤穂義士の接待などで好感を持たれたりしているし、重用されて出頭した人物も多い。
しかし、重賢公による宝暦の改革における「世減の規矩」では、綱利公により新知を得た人たちを境として、旧知・新知の峻別がなされた。
綱利公にとって重賢公は「従兄弟(弟・利重の二男‐宜紀)の子」にあたるが、そうせざるを得ないほどの財政困難をもたらしていた。

誕生の事を書こうと思ったが、批判めいたことばかりに成り申し訳ない次第である。

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■豪潮の壬辰元旦の試筆

2025-01-07 09:27:38 | オークション

 お正月のこの時期に、熊本が生んだ天台宗の高僧・豪潮律師の「壬辰元旦」の試筆(書初め)がヤフオクに出品されていた。(すでに完了)
肥後三筆とも言われる豪潮の筆跡は、私にはなかなか判読が困難であるが、詳細な説明文も添えられていて大いに勉強になる。
この七言絶句、内容が高尚でその大意をつかみきれないでいる。どなたかご教示給わればありがたい。

 

  

         互挨一転一          互に挨す一転一の
         我詩 雪裏花         我詩 /雪裏花
         開梅一枝 三拝        開かんとす梅一枝 /三拝の
         爐中香未迭 海        爐中香未だ迭せず/
         東先照太初儀         海東先に照らす太初の儀

          壬辰元旦           壬辰(天保三年)元旦
         試筆             試筆
         九々年前三歳豪潮(花押)   八十四歳 豪潮

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■小倉藩、忠利襲封と忠興

2025-01-07 07:45:56 | ご挨拶

 元和七年(1621)の今日一月七日、細川小倉藩を忠利が襲封した。忠利36歳(天正十四年‐1586)である。
慶長五年(1600)の暮れに忠興は小倉入りしているから、その治世は20年と数日ということになる。
忠興は前年、「以之外ニ御煩い」と形容される如く、命に係るのではないかというな大病を患い、さすがに隠居を決意した。

 以前ご紹介した■大日本近世史料・細川家史料「忠興文書-元和六年」を読む (2)に於いては、その時期のあわただしさが見て取れる。

226、閏十二月七日書状(忠興十一月七日江戸到着、忠利ハ同月廿八日江戸出立・帰国ノ途ニ就ク)
 ・忠興病ム
 ・忠利先月十五日吉田参著、女御ヘノ祝儀ヲ済シ下国ス

*忠興元和六年閏十二月廿五日致仕、薙髪シテ三斎宗立ト號ス、
 元和七年四月十日帰国ノ途次、京都吉田ニ立寄リ、ヤガテ帰国シ、小倉ヨリ中津ニ移ル
 忠利モ江戸ヨリ帰国、封ヲ嗣ギ、六月廿三日中津ヨリ小倉ニ移ル
1911、烏丸萬宛閏十二月廿五日書状(大日本近世史料・細川家史料八 p72~73)

 愛娘である烏丸光賢簾中・萬姫の見舞状に対し、病み上がりの忠興(三斎)は誠に穏やかな返事(1911ー元和六年十二月廿五日付)を認めている。
「気力もなく、文をみることも書くこともなり候はぬ」としながらも、忠利への家督を決意した安堵感からか「われ/\はうすになり候て、つらを見申候へは、そのまゝゆうさいにてわれなからもきもをつふし申候、かどう(歌道)をしらぬゆうさいと御おもひ候へく候」と、髪が薄くなり顔つきがすっかり父・幽齋に似てきたと冗談がましい一文を呈している。
しかし忠興はまだ58歳である。寛永九年(1632)忠利が大国・肥後を拝領しようとは思いもよらぬこの時期である。


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■文字散策‐2「地域文字‐しまり・しめ」

2025-01-06 07:20:29 | ご挨拶

 これは肥後独特の文字である。他地域での使用例は無いのではないか。
笹原宏之著「方言漢字」のなかに「地域文字」と紹介されている。
「国字〆に手偏を加えた」と表現されているが、実際にはこのようなものである。
                         

きれいな筆跡だから保存しているのだが、その出所を記録しておらずこれが迂闊であった。
                
熊本独特の文字だから「環境
依存文字としても取り扱いが為されておらず、「■=しめ・手偏に〆」などと表記してお茶を濁している。
「締」の文字があてられることがあるが、「取り締まる」という意味合いとしては間違いないのだろう。
■が何故「手偏」なのかは謎の中にある。手部(しゅぶ)は、手を使った動作に関する字が多く、少々手荒い「取り締まり」が伺えないだろうか。
「熊本の近世用語事典」をみると、「見ヶ■役=みかじめやく」、「根■役=ねしめやく」、「堅■=かたしめ」(誓約書)などの用例が見える。

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