鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.114『師を信頼して教えに留まるのが弟子』(8章)

2006年01月05日 | ヨハネ伝解読



~~正月のお祝い日はすでに遠くなり、また2006年度「紅白歌合戦」が一日一日と近づいてきております。

 これまで鹿嶋は聖書の大原則として~~、

「創り主は人間がこの世においても仕合わせであることを願っておられる」
「創り主は人間がいつもジョイフル(喜びに満ちている)であることを望んでおられる」

~~を示してきました。

 すると、こういう疑問を呈する方もおられるとおもいます。創り主が「人間をジョイフルであれかし」と望んでいることと、この「ヨハネ伝」とはどういう関係になっているのか、と。


                                     


 う~ん、これは結構難問でしてね。それにはヨハネがこの福音書を何のために書いているか、から考えていかねばなりません。

 ヨハネがこれを書いている際の強い目的の一つは「イエスがどんな方であるかを深く知らせる」ということです。

 で、イエスを深く知るとどうなるかといいますと「イエスが創り主の子であるということへの確信が深まる」ようになります。

 もしそうなればイエスの教え、イエスの言葉への信頼が圧倒的に増しますよね。そしてそのイエスの教えの中に「人間は永続する」というのがあります。この教えにも深い確信が持てることになります。

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 「人間は永続する」という確信とは裏から言えば「人間は肉体が死んでオシマイでない」という確信です。そして実は、この確信こそが人間がジョイフルでいられるための根底基盤なのです。

 わたしたちは肉体しか目で見ることが出来ません。ですから、上記の言葉への確信がないと、私たちは自然に「死んでオシマイだろうなあ」という考えを持って行くようになります。

                     

 考えてみれば、人の肉体は100年もすれば死んで腐って崩れて消滅するのです。そして、もしそれで「オシマイ」だったら、今の自分の存在自体も詰まるところは無意味です。だって、いずれ消滅して無になってしまうんですから。

 虚無です。空虚で、空です。そしてそうである限り、人間の心では、その基底からジョイを相殺するエネルギーが常時生じていることになります。顕在意識でがんばりはするんですけどね、これには結局負けるのです。

 これが問題の根っこです。このもとを絶たねば、問題は最終的な解決にならないのです。

「人間死んでおしまいでない」というイエスの言葉への信頼感は、イエスがどんな方かをヨハネが記録していることから深く知ったら深まります。それへの確信がもてたら、問題のもとが絶たれる。

 そうしたら心の奥底から障害物のないジョイがわいてきます。

 では、そのジョイフルでいられる基礎を人の心に形成する「ヨハネ伝」を、今日も探っていきましょう。本日の聖句はこれです~~


                     


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=聖句=
 「諸君が私(イエス)の教えに留まっているならば、諸君は実際上わたしの弟子です」(8章31節)
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 「教えが今は理解できなくても、将来わかる」と言われたら、それについては信じた人々にイエスはこう言います。

「諸君がわたしの言葉(教え)のなかに留まるなら、まことにわたしの弟子となる」(31節)。


                     


 ヨハネがあまた記憶している中で、わざわざ選んで書きとどめたこの御言葉は、弟子というものの本質を的確に示しています。

 これはこういうことを言っています。
 「今この方の言葉には理解できないところがある。けれども、そこには貴重なものがあることを自分は確信している。だから、意識をその言葉のうちに留めるのだ。自分はその言葉のうちに住むのだ」、これが「弟子なのだ」と。

 だから弟子はそれが理解できるようになることを期待し、信頼し学ぼうとする。そこで師匠から出る「次の」言葉を待ってついていくのです。


                     


 本日の聖句解読は以上です。
 でも、ここで少し先走った余談としておきますね。

 では、師の言葉の意味がわかってしまったら弟子ではなくなるの? 

 そうです。イエスの定義からすれば、もはや弟子ではありません。弟子卒業です。

 ではそうしたら次はどうなるべきか?
 イエスはそれについても的確に教えています。

 「・・・わたしの言葉があなた方のうちにとどまっていたら・・・」と(15章7節)。

 この言葉の説明は、15章に入ってから試みましょう。いまは、この言葉が12使徒たちだけに語られたものであることのみを心に留めておきましょう。これは、十字架刑を直前にした、いわゆる「最後の晩餐」でイエスが12人だけに語る言葉なのです。

 つまり、このあたりはそれほど奥義なのですね。それがいかに重大な意味を込めているかは、その後に続くイエスの言葉が示唆しています。

 「・・・(わたしの言葉がとどまっていたら)、なんでも望むものを祈り求めなさい。それは与えられます」(15章7節)。

 現段階ではその構造はよくわからないにしても、「イエスの言葉がうちにとどまる」というのは、「祈りが聞きとどけられ、応えられる」条件になっていることは、わかるでしょう。

 これは重大なことですよ。だって、祈りが聞き届けられ、答えられなかったら、福音なんてやり続けておられないですから。でもこのあたりは、15章でもって明かされるでしょう。


                     


 さらに枝葉の余談です。

 イエスのこういう言葉は、取材ではなかなか引っかかってこないでしょうね。
 ということは、ヨハネ以外の福音書では、こういうことまで伝えることは出来ない、ということです。それらは取材情報をもとにかかれていますから。

 ところが「ヨハネ伝」だけはそうではない。
 春平太は、イエスにぴったり付き従った側近のヨハネが、イエスの言葉を書き残してくれていたことに、万感の感謝を禁じ得ません。この福音書が残されてなかったら、私は福音に飽きていただろうなあ・・・と。

 もちろん聖書的には、ヨハネに書き残させたのは究極には聖霊の働きだということになりましょうけれど。ヨハネが選ばれただけにすぎないことになりましょうけれど。

こういうとことで、ついつい人間的になってしまう春平太なのであります。
 もし、ヨハネという人がこれを書く前に、病死したり殉教していたりしたら、どうなっただろうか・・と。

 それだったら創主は他の誰かを選ぶだけのことであります。それが聖書思想の鉄則です。わかってはいるのですけれどね・・・。

次回には、本筋に戻りましょう。


                     



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