鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.117『奴隷と自由人』(8章)

2006年01月15日 | ヨハネ伝解読
~~今日は少し長いです。


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=聖句=
 「彼ら(ユダヤ人たち)はイエスにいった『我々はアブラハムの子孫であって、人の奴隷になったことなどないよ。君(イエス)はどうして“諸君は自由になる”などと言うのかね』」(8章33節)
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 イエスが「真理を知れば自由になる」と言ったので、ユダヤ人たちは「われわれは人の奴隷になったことなど一度もないよ」と反論しています(33節)。

 この文脈の意味は後に考えるとして、聖書によく出てくる「自由人」と「奴隷」という概念について少し考えておきましょう。


                     


 古代の西欧においては、ギリシャ時代とローマ時代(イエスの時代はこの時期)に明白な奴隷制度がありました。奴隷というのは、自由人に対比する言葉です。そして西欧ではそれ以後においても、自由人(自由民ともいう)と奴隷という人間の分類は、人間を見る際の基本類型になっています。

<市民家庭は大家族>

 奴隷というのは、持ち主によって売り買いされうる存在です。彼らの多くは、自由人に買われてその家庭で働いていました。そういう人間は、普段、逃げないように束縛されておりますから、自分の好きなように旅行をするなどの行動の自由はありません。

 対して、自由人はそれらをする自由をもっています。そういう二者で社会を構成していたのですね。

 自由人は通常、家父長の血筋のもので構成されていました。家父長の妻、子供などです。自由人の家族の父親は奴隷にかぎらず、全家族員の生殺与奪の権を持っていた。そういう絶対的な権限を持つ人がいることによって、家庭の統一が保たれていたのですね。

 その家庭の中に、奴隷も一員として暮らし働いていた。西欧古代の市民の家庭は、大家族家庭だったわけです。

 そして、それを基本構成単位として、市民社会が構成されていた。これがギリシャ、ローマ時代の社会構造でした。


                     


 自由人は売り買いされることはありませんから、望むならいつまでもその家庭に留まることの出来る存在でした。

 他方、奴隷にはそういう権利は与えられていません。いつ余所に売られるかわからないわけですから。

 後にイエスが「奴隷は家庭にいつまでもいることは出来ない。子はいられるが」(35節)と言うのは、そういう状況を踏まえてのことであります。


<東洋では鞭で打たれて肉体労働オンリー>

 西欧での奴隷という概念には、もう一つの重要なニュアンスがありました。

 我々日本人が奴隷という言葉を聞くと通常、主人に鞭打たれて牛馬のように働かされる人間をイメージするのではないかと思われます。つまり、鞭で動物のようにこき使われる存在ですね。でも、これは古代東洋的な奴隷のイメージです。

 けれども、ギリシャ・ローマ時代西欧での奴隷というのは、代表的にはもう少し違ったイメージの存在でした。今述べたように彼らは多くの場合、自由人の家庭に入って生きていました。大家庭の中に自由人と奴隷とがいたのですね。

<専門技術者の奴隷もいた>

 奴隷は、自分の身を自由に処す権利はありません。けれども彼らが行う仕事には、主人の家庭の財産管理などという知的なものもありました。そういう奴隷は通常、執事と呼ばれていました。

 高度な料理を作ったりファッション性の高い衣服を縫ったりするという仕事もありました。式場道三郎のような料理人とか森英恵のような服飾人もいたでしょう。結構クリエイティブな仕事をする奴隷もいたのです。

 そういうわけで、実質的な立場の高い奴隷もいました。もちろん、主人は彼らへの生殺与奪の権を握っていました。けれども、そういう権利は家族の中の自由人にも及んでいたのですからね。

 聖書にはボンド・サーバント("bond-servant";bondslaveも同じ)という奴隷も出てきます。これは、奴隷が自分の年季が明けたり、借金を返したりして自由人になっても、そのまま従来と同じように自発的に主人に仕える奴隷を指す名称です。

 自由人の身分を持ちながら、従来奴隷だったときのような職務を果たしていくわけですね。日本ではこれを「自由奴隷」などと訳しているようですが、こうした名前だけでは何を言っているかわからないですよね。


                     


<全体観を持つのが自由人>

 こうみてくると、奴隷と自由人との境界線がはっきりしないように感じられますね。ところが、彼らの間には別の明白な境界線がありました。

 奴隷は、自分の仕事が全体的な家庭運営の中でどういう位置にあるかという情報、つまり、家庭の全体像は知らされていませんでした。高度な技術を遂行していても、只、命じられるままに自己の担当分野を果たします。

 他方、自由人は家庭全体の運営に関わる情報、全体観をもっていました。

 これは重要なポイントです。

 全体観のある人とは、様々な専門家を組み合わせて、全体を運営するリーダーになれる人、ということにつながっています。

 こういう精神構造が、自由人に特有な資質として自覚されていたようです。ということは、人間の一つのタイプとして自覚的に認識されていたとわけですね。

                     


<西欧特有の人間類型観>

 余談です。

 こういう風に、人間を類型化する視野がその後の西欧文化圏にもあるということは、我々日本人は知っておくべきではないでしょうか。

日本では、高度な専門家というのが、最高の人のような評価を与えられる傾向が大きいですよね。だが全体観を持たないである部門を専門的に担当するという資質は、西欧の人間観からしたら奴隷の資質なのですね。

 だが日本には、全体観を持つ自由人と言ったような、人間イメージというか、視野というか、そういうものが希薄です。

 その結果、リーダの資質を持った人が育ちにくい社会風土になっています。そういう人は普段は集団組織に受け入れられにくいとのです。日本では、平和な時代を通して真のリーダーがあちこちの組織・機関で枯渇していくという現象が起きます。

<日本史は振り子のように>

 明治維新や敗戦後などの動乱時は例外になります。そういう時には全体観のある人がリーダーになるべき必要が非常に高いですから、人々もやむなく受け入れるのです。

 しかし、平和になるとそういう必要が感じられがたくなる。すると全体観のある人がむしろ避けられるようになります。

 かくして、凡庸な人が御輿に担がれることがあちこちで起きるのです。日本社会で出世するには、ひたすら人畜無害であるべき、といわれるのはそれ故なのですね。

 それで政府を初めとするあちこちの人間集団で、組織的無能化がおきます。あちこちで社会機関がおかしくなっていきます。で、問題が多発し悲劇が起きて、また例外的に全体観のある人を求める。日本はそういう繰り返しをしていくようですね。

~~長くなりました。本日は、西欧における奴隷の概念は、日本の我々が持つイメージとは大分違っている、ということで・・・。


                     

コメント
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