みなさん、こんにちわ、鹿嶋春平太です。
さあ、今日もいいことありますよ。
なぜなら・・
聖書は永遠の世界においても、この世においても、人間をしあわせにしようとする本だから。
仕合わせの聖書論理、第5回です。
超自然的な力によるものは、当面のぞいて考えます。
心理学的なものなど、経験科学的に認知できる領域で話を進めます。
アリガトおじさんのようなすばらしい教えは、聖書にないんでしょうか?
これがあるんだよね。
大ありです。
聖書は、これを含んでいる。カバーしています。
テサロニケ人への第一の手紙、5章16~8節に~~
「いつも喜びで満ちていなさい、絶え間なく祈りなさい、いかなる環境の中でも感謝していなさい」
~~とあります。
このいつも喜んでいなさい、は「ありがとう運動」がめざすゴールと同じなんですね。
聖書はさらに・・・
それを盤石のものにする手だても教えています。
絶え間なく祈っていなさい、という。この「祈り」は歓喜を得る有力な手段なんですね、クリスチャンの場合はですけれど。
永続する創り主、人間を仕合わせにしようと願ってくれている創主が存在すると、クリスチャンは考えます。で、その創り主に心を向け、交信を試みなさい、という。
すると、もっと深いところからもっと深いジョイがわいてくるんですね。
さらに「感謝」です。
これは「ありがとう運動」がジョイを得る手段としているものでもありましたよね。
聖書ではさらに、「いかなる環境にいても」とのべています。
どういう意味でしょうね。
~~人間に与えられている想像力、イマジネーションの力にはすごいものがある、と教えているのです。
物的な環境がどうであっても、人間の精神は、それを超えたイメージを持ち、感謝を捧げることが出来る。そういう風に、人間の精神は出来ているんですね。だから「いかなる環境にあっても」できるんですね。
だから苦境にあってもまず、精神をジョイでみたす。
そうして成功がそれに伴ってくるようにする。すると、物的環境も好転して仕合わせが近づくのですね。
これでわかるように、聖書の教えは「ありがとう運動」の教えを含み、且つそれ以上に深く広大なジョイ確保の手段をも教えています。
だったら、こちらの方を提示してあげたら自営業者たちはこちらにくるのに・・・、とキリスト教関係の人は考えるかも知れませんね。
だが、そうはならないのです。
日本の商店主たちは、日々、忙しい中で暮らしています。また幼いときより、そういうことを深く考えるような教育環境におかれていません。
商店主たちだけではない。
日本では、サラリーマンも経営者も自由時間がきわめて少ない中で暮らしています。何とかしなければ、とおもいますが、日本人は「一億総時間貧乏」なんですね。
だから、日本の人は「理屈よりも要点」を求めます。
とりわけ独立事業者はそうです。
「根拠よりも結論」を求めます。
グダグダ理由を言ってないで、早く結論チョウダイ、と。
そこで「ありがとう運動」の方が魅力的なのです。
こういうと教会の牧師さんなどは、「だから日本人はだめだ・・・」などと言うかも知れませんね。だが、そういっているだけでは人々は来ませんよ。
牧者はまず聖書の中から「忙しい人」向けの知恵を与えるべきでしょう。簡明に問題を打開する道を提供すべきでしょう。
そうやって、生活の苦しみの中にある自営業者を助けるべきでしょう。
これをするのが本物の「牧者」です。牧者とは「羊を牧する者」というではありませんか。
苦しみから解放された人々は、さらにこの喜びを深く安定的に保持したいと願うでしょう。そのときその方法を提供します。それには永続確信があればいい、と示します。
こうやって、ジョイを盤石にする道に導くのです。
これが聖書という深く広大な知恵の書を持つ牧者のあるべき姿でしょう。
日本の多くの独立事業者は、苦しんでいます。この世の中で仕合わせを得ようと懸命にあがいています。これをピンポイントに打開する方策を、聖書の教えから提供することが必要です。
なのに「神様はあなたを愛していますよ」なんていっているだけでは、苦しみから適確に救うことは出来ません。当たらずと言わねど遠い。焦点がぼけてるんですよね。
ましてや、旧訳聖書の「ヨブ記」などを持ち出して、「ヨブはこんなになってもなお神様を信じていたんですよ」とか「苦難は神様からのプレゼントです」なんていってた日には、訪問者は決してリピーターにはなりませんからね。
また、それでもまた来る人は、キリスト教とは克己勉励の宗教だと思っていくでしょう。そういう人でもクリスチャンになるのかなあ、と鹿嶋は思っていました。そうしたら、それはクリスチャンではなくクルシチャンだと、ルークさんのHPに書いてありました。