~~SAITOHさんから、メールでコメントをいただきました。
転載を許可してくださっておりまして、かつ、とても参考になる内容ですので、ここに啓示させていただきます。
本日のブログを読みまして、いろいろ思うところを書いておりましたら
長くなってしまったので、メールにしました。
「真理は人を自由にする」 の深い解説ありがとうございました。
真理イコール創主という読みもさることながら、三位一体だから、イコール
聖霊でもあるわけですね。そこまで知ると、ヨハネ福音書の読み方が
変わってきそうです。
ほかにも、読んでいていろいろ考えたことを書きます。
(1)フロイトの潜在意識理論について
潜在意識と対比させていただくことで理解しやすくなったと思います。
ところで、これを、仏教の唯識思想と比べるとどうなるか。
唯識では、意識(顕在意識ですね)の向こうに、自我意識である「末那識(まなしき)」と
さらに奥に、存在世界のあらゆる種子を包蔵する「阿頼耶識(あらやしき)」を立てます。
無意識が2段階になるわけです。
広大な宇宙意識でもある「阿頼耶識」に、直接、人の意識がつながれば、
けっこうこの上なしですが、エゴの親玉「末那識」がそうはさせじと阻みます。
また「末那識」が「意識」よりも奥にあることから、人間は、自分のエゴを
自らの意識の力では、コントロールできないと説くのです。
(ここが仏教のすごいところ)
一昔前と比べて、唯識思想は、信じられないほどポピュラーになっています。
NHK教育番組でもよくとり挙げられますし、一般向けの書籍も多く出ています。
奈良時代から法相宗として、ほそぼそと伝わっていますが、宗派として
残っているのは 世界でも日本だけなので、誇っていい事例です。
(2)ローマ書7章15、17節について
「私は自分のしていることがわからない。わたしは自分の欲することを
行わないで、 かえって自分の憎むことをしているから」
「このことをしているのは、もはや私ではなく、私のうちに宿っている罪である」
パウロが、正直に、勇気を持って、自らの良心の葛藤を語る姿勢に感銘を受けます。
(親鸞の歎異抄あたりを連想してしまうところですが、それはさておき)
最近、私は、パウロが頻繁に語っている「良心」概念に、興味を持っております。
調べてみると、良心という語は、聖書の中では、旧約にはほぼ皆無、
四福音書にもなし、 そして、使徒口伝23章1節で、パウロの弁明での冒頭で、
突然、登場するのです。
パウロの言う良心の意味は何か、聖霊との関係はどうなるのか、調べてみようと
考えています。
(3)自己の意識について「手放しで」いられる状態
これに似た心境を表す言葉として、論語の有名な句をつい思い浮かべました。
「七十にして心の欲する所に従って矩(のり)をこえず」
孔子の生き方を考えてみるのも面白いかと思います。
参考までに、この箇所の現代語訳を示しておきます。
宮崎市定「現代語訳論語」為政第二20 より、
子曰く、私は十五歳で学問の道に入る決心をし、三十歳で自信を得、
四十歳でこわいものがなくなり、五十歳で人間の力の限界を知った。
六十歳になると何を聞いても本気で腹をたてることがなくなり、
七十歳になると何をやっても努めずして度を過ごすことがなくなった。
もう1例、穂積重遠「新訳論語」から、七十にして云々の箇所だけ載せます
七十歳になってはじめて、したい放題のことをしても脱線しないように
なったのだよ