「真理は人を自由にする」
~~本日はこの有名な聖句を考えましょう。
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=聖句=
「(諸君が私の言葉のうちに留まっていれば)諸君は真理を知るでしょう。そしてその真理が諸君を自由にするでしょう」(8章31節)
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前回に示しましたように、イエスの教えでは弟子というのは、師匠の教えがまだ理解できない人です。けれども、そこに価値あるものがあると信じてついていく存在でありましたね。
本日イエスは、続けて言います。「(弟子としてついてくれば)あなた方は将来真理を知るであろう。そして真理は諸君を自由にするであろう」(32節)。
クリスチャン社会を超えて有名な言葉ですね。だが、この言葉の含蓄するところは、我が国では信仰者と自認している人にも、まだ十分に理解されているとは言えません。
表面的な意味は、「正しい知識を知れば、それだけ世の中見えてくるので、それだけ自由に行為することが出来る」といったところになるでしょうか。
それだって、結構、いいこと言ってるみたいですね。ここが聖句の難しいところでもあります。
表面的な解釈しても、それなりにこの世の知恵になりそうだ。だから、人はそこで満足してとどまってしまいがちになるのです。
じっくり考えてみると、そう簡単でないことがわかってきます。そもそも、「真理」とは何でしょうか。それは「正しい知識」で本当にいいのでしょうか?
真理の英語はTRUTHです。結論的なところから言いますと、この語の原義は「変わらざるもの」であります。
「変わらざるもの」は、厳密に言えば、我々の五感で認知できるものにはありません。目に見える物質は、みな、時と共に変化し、風化していきます。だから、みな、いずれは滅びます。無常ですね。だから、我々の目に見えるものには「変わらざるもの」はありません。
で結論的に言いますと、聖書では、万物を創った創主だけが「変わらざる存在」であるという、存在観です。
するとここで言う真理とは、創り主のことなのか?
その通りです。
後にイエスは「聖霊が真理の御霊(みたま)として諸君のいるこの世にやってくる」と言います。
もちろん、父なる創り主とイエスと聖霊は、三位一体で一つと言うことになっていますから、それは創り主でもいいです。けれども、より具体的・直接的には聖霊と受け取っていっていいでしょう。聖霊が「真理の御霊(みたま)」として人間に真理を教えてくれる、という教えなのです。
そしてまた余談。
これもここでは結論だけを言いますが、聖霊のそういう影響を常時受けるのは、聖霊を自らの「内に受ける」ことによって可能になります。いわゆる「聖霊のバプテスマ」がそれであります。
「諸君が私を信頼し、期待してついてくるのなら、将来聖霊を受けるであろう。それによって、諸君は自由になるであろう」
~~これがイエスの教えだったことが、後にわかってきます。