鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.6 「躾け社会」の長所と短所

2006年01月25日 | 永続確信のための聖書解読


こんにちわ、鹿嶋春平太で~す。
今日も何かいいことありますよ。

聖書は永遠の世界においても、この世においても、人間をしあわせにしようとする本ですから。

仕合わせの聖書論理、第6回です。

超自然的な力によるものは、当面のぞいて考えます。
心理学的なものなど、経験科学的に認知できる領域で話を進めます。



                            


<ついてる神社>

言葉を反復させて心にジョイを作る運動は、アリガトオジサンや「うたし会」だけじゃないよ。

斎藤ひとり、という人がいます。
全国高額納税者のトップにしばしばなり、そうでない年度にも上位にいるというビジネスの大成功者。また、彼の教えを受けたお弟子さんたちが全国各地で地方の高額納税者ランクに何人か顔を出している、というビジネスの教祖でもあります。

ファンがたくさんいて、このごろ本屋さんに「斎藤ひとりコーナー」なんてのもあります。
かれは講演で「いつも上機嫌でいること」の重要性を説いています。
「上機嫌でいること」とはすなわちジョイを心に持っていることですね。
これがビジネスで成功する基礎だという。
アリガト運動と共通していますね。

ただし、斎藤さんが繰り返させる言葉は「ついてる」です。
「ついてる、ついてる、ついてる・・・」と何万回も繰り返すよう指導します。
「ありがとうございます」よりも、ビジネス寄りですね。
だけど、原理は同じですよね。

この「ひとり」さん、のりにのって「ついてる神社」なんてのまで作っちゃった。
東京の下町の商店街にあるようですけど、全国からお参りに来る、っていうんだから、ニッポンだなぁ~。平和っていいなぁ


                            

 こういう「言葉を繰り返させて」ジョイを得る方法には、前にも書きましたけれど利点があります。
繰り返して習慣づけるというのは、「躾(しつけ)」ですからね。
受ける方は、頭を使わなくていい。
知的には楽です。

 こういう「躾け会」に参集する人たちは、文藝春秋や中央公論なんて読まないよ。
日本の文化や芸術がどうのとか、国際関係がこうのとかなんてむずかしいし、生活に関係ないんだから。

そこで論じられていることより、もっと先行的に必要なことがある。それは、仕合わせになることだ。
それでいけないの?
まずその方法を確保したいと思うのは、健全なことではないだろうか。

文藝春秋も中央公論も、つまるところは人間が仕合わせになるための知識のはずじゃないの?
だろうけど、そのつながりが漠然として見えなくなっている。

「ソー・ホワット」(それがどうだというんだ)という素朴な疑問、人間にとって一番大事なこととどう関係しているんだ?という疑問への明確な答えを誰も示していない。
そんなんだったら、「わたしこんなことで困って、こうしたらうまくいきました」という日常の体験談の方が、よっぽど役に立つよ。
わかりやすいしね。

考えてみると、こういうの読む人は、仕合わせの問題に悩むことの少ない人々なんじゃないかな。
一流の学歴を持ったり、安定した会社や役所でで働いていたり、なおかつ、精神的なことに優れて鈍感であって、仕合わせの問題に対面することの少ない人じゃないの?


 
                            


 では、日本では聖書は要らないか、というとそうでもありません。
これはこれで特有の利点を持っているのですね。

たとえば「アリガト運動」が躾ける感謝の心。これは理屈抜きですが、聖書ではそれに関わる理論が付いているんです。

「感謝」というのは「思い」ですよね。人の意識です。
人の意識はジョイばかりではない。心に鉛が入ったような鬱状態もあります。
この鬱になるかジョイになるかを分ける要因が「いのちエネルギー」だと教えています。

人の意識はこのエネルギーで充電される充電式乾電池のように、聖書ではとらえています。
これがたくさん充電されていると、意識がジョイになる。
低充電だと重い鬱になる。
 ~~こういう論理です。


                                                


このエネルギーは創り主からあまねく世界に放射されています。
 で、これを吸収する方法は創り主に思いを向け、心を開くこと、となります。

といっても、創り主は見えませんよね。
どうやって意識を向けるの?
見えない状態で心を開いたら、それが悪い霊だったらどうする?

~~こんな疑問にも対応する論理があります。
創り主に正確に意識を向けるには、方法がある。
それは「イエスの名において」向けたらいい。

こうして「名」というものが、あるものを他と区別するための貴重な要素になっています。
これは認識論的にも、とても含蓄の深い論理です。

こういう風に、ジョイを得る方法が深い論理体系を持っている。
こうやって知性・理性も動員して、方法を盤石なものに聖書はしています。


                                                

「アリガト運動」はそうじゃないからね。
こちらは「躾け」だから、理屈抜き、論理抜き。
実践あるのみです。

こちらは楽で実践的だけど、人々に「知力」が育ちません。
そもそも「躾け」というのは、「知」の育ってない子供にするものですからね。
理屈抜きで反復させ「習慣づけ」てしまうしかないからするのが躾です。

しかし、「知」が育たないままな人民が多いと、民主社会は機能しなくなるんだよね。
民主社会では人民は社会観も政治観も持たなければならなくなる。
民主社会では、大衆もれっきとした決定機構の構成員だからね。

人民にこれがない状態は、独裁者が決定を独り占めする独裁社会、独裁国家に適した状態です。抑圧された隷属民の意識構造なんですね。


                            


日本は、民営化社会の道を前進しようとしています。

ここではやはり、アリガト運動で一定の仕合わせを得たら、「聖書を読み考えることによる感謝運動」が加わっていくことが必要です。
そうでないと、民営化社会は近々機能しなくなってしまうでしょう。

実際、耐震偽装事件などにも、その兆しはすでに現れています。
あれは民間に権限委譲された鑑査機関の人間に、それだけの知力がなかったことに端を発しているからね。それが業者や設計者の「だまし」を誘惑しているんだからね。

ここだけではないよ。
NTTの116番サービスにたくさん張り付いている人間の、全般的な知力の低さも大変なものがあるよ。もう出てくるの、出てくるのが必要な知識を持っていないんだから。ごまかす。逃げる。一つの件を処理するのに、1時間もかかるんだから。

1980年代の南米国家に似てきている。

これは鹿嶋の経験だけでなく、他からも苦情を耳にすることだ。
もう全般的に、民営化社会に応じるには知力不足。

日本は危ないよ。
トヨタは例外だよ。
かのホンダだって、本社の一般勤務員の知力の低さには驚くべきものがあるよ。
生産などの現場では人と知力が育つ。それでもってる会社だね。


                   


コメント
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