鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.116『真理は人を自由にする・2』(8章)

2006年01月10日 | ヨハネ伝解読


 前回、人間が実際に真理を知るのは、聖霊を受けることによって可能になる、と申しました。
これがイエスの教えの中身である、と。
だから、真理とは聖霊と置き換えても、意味が通るのでありました。

 では、その「聖霊を受けると、自由になる」というのはどういうことでしょうか?


                            


 これは一寸難しい。
心理学者フロイトの精神分析学を援用して考えましょう。
彼は、人の心理構造について、「人の意識は顕在意識と潜在意識とからなる」
という主旨の理論を作りました。

 顕在意識とは、人が自覚できる意識です。
たとえば、自分が誰かを憎んでいるとします。
その憎しみの気持ちが自覚できるというのは、
それが顕在意識領域にあるからだ、というのです。

 潜在意識とは、自覚できない領域にある意識です。
自覚できないけれども、存在するのです。
そして、それは、知らない内に顕在意識に影響を与えます。
またそれは、自覚できない状態のままで行動にもつながっていきます。


                     


 考えてみれば、それは始末の悪いものであります。
もし、潜在意識における憎しみが、ある時強烈な殺意を形成したり、
さらにそれが殺人という行為につながっていく場合にも、
当人はその源の意識が自覚できないと言うのですから。

 つまり、源をコントロールすることが出来ない。
そこで、人が出来ることといえば、それが顕在意識領域にちらっと兆しを見せた時だけ、
あるいは、殺人という行動を引き起こそうとする時だけ、それに気づいて
急いで「いけない!」と自らにストップをかけることだけです。

 人は、そういう状態に常におかれています。
潜在意識の作用次第では、何をするかわからない状態にある。
その一部には、行動として発露すれば
間違いなく社会から制裁を受けるべきものもあります。

 そうだとすれば人は、常に恐れおののきながら、
自己の意識を見張っていなければならないでしょう。


                     


 フロイトは、そういう風に人間の心理構造を把握いたしました。
この「恐れおののきつつ」潜在意識の自由な発露を抑制しようと見張っているのが、
彼の言う「自我(エゴ)」でありました。

 このフロイトの潜在意識にある程度該当すると見ていいのが、聖書の「霊」であります。
もちろん当人の人霊です。
聖書では、人は肉体と霊とからなっているという人間構造把握があるのです。

 この霊の一部の意識を脳神経系という肉体の機関が受信し、
かつ、その良し悪しを判断して信号を送って操作する(これが意志にあたる)
というのが聖書の精神図式です(拙著『誰もが聖書を読むために』新潮選書など参照)。

 けれども、受信できない領域もあるのです。
個々の意識に対しては、為すすべがない。
これが人のおかれた実情ということになります。


                     


 でも、その霊の内に創主の霊である聖霊が入ったら状況は変わります。
聖霊は、創主のみ旨にかなった意識を産みます。
すると、その人の心のベースでは、創主の御旨にかなった思いが発せられることになる道理です。

 創り主の御旨にかなった思いは、この世の社会の掟にかなった思いをカバーしています。
旧訳聖書の「十戒」を見るとわかります。
「十戒」には、天の創り主王国(天国)のルールに反しないための命令が記されています。
その命令を守ると、この世での法律や道徳に反する行動はほとんどなくなるんですね。

そうしたら、当人は、もう自らの思いや行為を創主の御旨に反しないだろうかと
「恐れおののいて」監視していなくて良くなります。
基本的に思いのままにしていればいいことになる。
自転車にたとえれば、もう「手放し」でのっていても道を外れることがない状態になるわけです。

 もう自分の意識が何をやり出すか、恐れ心配する必要がない。
これが自由です。これが「真理は人を自由にする」の奥にある真意であります。


                     


 もちろん、聖霊を受けた人の霊が、全部聖霊と同質に変わるわけではありませんよ。
意識の上層では相変わらず、この「世(罪)の霊」の思いに感応して動く部分もあります。
従来の意識の慣性も残っていますし。

 だから聖霊のバプテスマを受けたからと言って、
一挙に百パーセントの聖人になるわけではありません。


                     


 パウロという使徒はこう言っています。

 「私は自分のしていることがわからない。
わたしは自分の欲することを行わないで、帰って自分の憎むことをしているから」
(ローマ人への手紙、7章15節)。

 そして、

 「このことをしているのは、もはや私ではなく、私のうちに宿っている罪である」
(ローマ人への手紙、7章17節)。 

                ~~と言っています。

 つまり、自分の顕在意識が「よし」としていることが、行為につながらないのです。
そして、顕在意識としては、むしろ、「いけない」と思うところをやってしまっている。

 これは潜在意識たる霊の欲するところをやってしまっている、ということになります。
そして、その霊には罪(いのちエネルギーの欠けた部分)がある。
それが顕在意識が「よしとしない」意識を産んでいることになるわけです。


 これを書いているパウロは聖霊を受けているんです。
それでも、ある部分は、自らの顕在意識の望むようにはならない。
彼は、そういうネガティブな面について嘆いていわけです。


                     


 けれども彼の霊(潜在意識)には、ポジティブな面が基底に生じています。
いうなればその人の心の底には創主の御旨の「灯」がともるようになっています。
これは、以前の聖霊を受けていないときと比べたらもう、雲泥の差なんですね。

 実際、上記のようなことをいっているのですが、
パウロが社会的な犯罪を犯して罰せられるという記録は書かれていませんしね。

 聖霊を受けると、個々の日常的な細部の行為はともかくとして、
基本的なところでは、創主の御旨にかなう意識が発露するようになっています。

 そして、それ故に、彼はもう、自己の意識について「手放しで」いられます。
つまり、その限りで、真の「自由」を得られているということになるわけであります。


                     

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする