こんにちわ、鹿嶋春平太です。
今日もいいことありますよ。
聖書は永遠の世界においても、この世においても、人間をしあわせにしようとする本ですから。
仕合わせの聖書論理、第8回です。
超自然的な力によるものは、当面のぞいて考えます。
心理学的なものなど、経験科学的に認知できる領域で話を進めます。

聖書は天理教の教理フレームをすべて含み、その上にさらに深淵で広大な理論をもっている。
なのに、日本ではキリスト教会よりも天理教の方がはるかに繁盛している。
これはなぜか? というのが、前回に掲げた問題でした。

その理由を結論から言いますと、日本のキリスト教会では、聖書の含んでいる「仕合わせの論理」を明確に提示しないからでしょう。特に、この世での仕合わせの論理をね。
仕合わせの論理は聖書の教えの中核でありエッセンスです。
聖書ではそれにさらに深遠な理論体系がつながっているわけですが、それはあくまでも仕合わせ論理をより深く根拠づけるためのものです。
罪の理論も、悔い改めの論理もまさにそうです。
それらは常時、この仕合わせの論理につながった状態で理解されねばならないのです。

ところが、日本の教会の教えでは、仕合わせ論理というエッセンスが明示されず、周辺論理がこれとつながりなく単独で論じられる。その結果、罪の論理も悔い改めの理論も一人歩きしてしまうのです。
そしてそういう周辺論理は、人間を束縛する論理になることが多いです。
罪や悔い改めの論理も、それだけとしては人を萎縮させる性格の強いものです。

そして、こうした理論部分があたかも聖書の教えの中心であるかのように誤解している牧師さんが日本には多いのです。
鹿嶋はゴスペルジャーナリストよろしく、いろんな教会をのぞきます。
最近礼拝に参加した教会で、こういうことがありました。
礼拝の最後に、幾人かの信徒さんが順にお祈りをいたします。
リレーお祈り。
その祈りの内容が、いうなれば「すみません、すみません」の一色なんですね。
最初から「主よ、私は足りないものです、足りないものです・・・」という言葉がでます。そして、これこれのことが出来なくてすみません、あのことが出来なくてすみません・・・」と反省の言が続きます。で、祈りが終わると、次の人がまた受け継いで同じような祈りをするんですね。
おかしいですね。聖日(日曜日)の礼拝は、創り主の前に出て創り主と「思い」で交わり祝福を受ける日でしょう。ジョイを得る日でしょ。
なのに、こんな風に「私は足りないものです、すみません、すみません・・・」とあとずさりしていくんでは、創り主も祝福すること出来ないのではないでしょうか。

罪の理論を独立なものとして教えられるからこういう風になってしまうんですね。罪も悔い改めの論理も、人間を仕合わせにしようとする創り主の意図につなげて理解しないからです。
だから、人々は、教会に来ても何のために来ているのか、焦点を見失う。
自分の仕合わせとつながりの薄い教えをうけても、人々は実感がわかないのです。
一つの論理としては理解できてもね。
実感が伴わないというのは、直感的に把握することが出来ない、ということです。
すると人はそれについて自分の頭で試行錯誤的にいろいろ考えてみる、ということが出来ません。
だから「知」が躍動しない。
せっかくの深淵広大な聖書の教えが、心の踊らない「つまらない」ものになるんですね。
天理教の方にたくさんの人が行くのはあったりまえだ。
どうしてこんな「祈り」をするんだ。それは初めに牧師さんがそういう祈りをして見せて、教えたからでしょう。
鹿嶋は終了後、この教会の牧師さんに出身神学校を訪ねてみました。答えは自信に満ちた「T神大」。T神大は一体何を教えているんだ。

今日もいいことありますよ。
聖書は永遠の世界においても、この世においても、人間をしあわせにしようとする本ですから。
仕合わせの聖書論理、第8回です。
超自然的な力によるものは、当面のぞいて考えます。
心理学的なものなど、経験科学的に認知できる領域で話を進めます。

聖書は天理教の教理フレームをすべて含み、その上にさらに深淵で広大な理論をもっている。
なのに、日本ではキリスト教会よりも天理教の方がはるかに繁盛している。
これはなぜか? というのが、前回に掲げた問題でした。

その理由を結論から言いますと、日本のキリスト教会では、聖書の含んでいる「仕合わせの論理」を明確に提示しないからでしょう。特に、この世での仕合わせの論理をね。
仕合わせの論理は聖書の教えの中核でありエッセンスです。
聖書ではそれにさらに深遠な理論体系がつながっているわけですが、それはあくまでも仕合わせ論理をより深く根拠づけるためのものです。
罪の理論も、悔い改めの論理もまさにそうです。
それらは常時、この仕合わせの論理につながった状態で理解されねばならないのです。

ところが、日本の教会の教えでは、仕合わせ論理というエッセンスが明示されず、周辺論理がこれとつながりなく単独で論じられる。その結果、罪の論理も悔い改めの理論も一人歩きしてしまうのです。
そしてそういう周辺論理は、人間を束縛する論理になることが多いです。
罪や悔い改めの論理も、それだけとしては人を萎縮させる性格の強いものです。

そして、こうした理論部分があたかも聖書の教えの中心であるかのように誤解している牧師さんが日本には多いのです。
鹿嶋はゴスペルジャーナリストよろしく、いろんな教会をのぞきます。
最近礼拝に参加した教会で、こういうことがありました。
礼拝の最後に、幾人かの信徒さんが順にお祈りをいたします。
リレーお祈り。
その祈りの内容が、いうなれば「すみません、すみません」の一色なんですね。
最初から「主よ、私は足りないものです、足りないものです・・・」という言葉がでます。そして、これこれのことが出来なくてすみません、あのことが出来なくてすみません・・・」と反省の言が続きます。で、祈りが終わると、次の人がまた受け継いで同じような祈りをするんですね。
おかしいですね。聖日(日曜日)の礼拝は、創り主の前に出て創り主と「思い」で交わり祝福を受ける日でしょう。ジョイを得る日でしょ。
なのに、こんな風に「私は足りないものです、すみません、すみません・・・」とあとずさりしていくんでは、創り主も祝福すること出来ないのではないでしょうか。

罪の理論を独立なものとして教えられるからこういう風になってしまうんですね。罪も悔い改めの論理も、人間を仕合わせにしようとする創り主の意図につなげて理解しないからです。
だから、人々は、教会に来ても何のために来ているのか、焦点を見失う。
自分の仕合わせとつながりの薄い教えをうけても、人々は実感がわかないのです。
一つの論理としては理解できてもね。
実感が伴わないというのは、直感的に把握することが出来ない、ということです。
すると人はそれについて自分の頭で試行錯誤的にいろいろ考えてみる、ということが出来ません。
だから「知」が躍動しない。
せっかくの深淵広大な聖書の教えが、心の踊らない「つまらない」ものになるんですね。
天理教の方にたくさんの人が行くのはあったりまえだ。
どうしてこんな「祈り」をするんだ。それは初めに牧師さんがそういう祈りをして見せて、教えたからでしょう。
鹿嶋は終了後、この教会の牧師さんに出身神学校を訪ねてみました。答えは自信に満ちた「T神大」。T神大は一体何を教えているんだ。
