鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

ギリシャ正教会の聖餐式

2006年05月01日 | キリスト教活動の歴史
連休で、春平太もまた一週間ほどお休みいただきます。
みなさん出来れば、過去の投稿を読んでみてくださいね。

(インターネットが使えたら、投稿したいと思っていますが・・)

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写真は、ギリシャ正教会での聖餐式です。
パンを葡萄酒に浸して、スプーンにのせて子供に食べさせています。

聖餐というのは、「聖なる晩餐」という意味です。

イエスは、十字架にかかって死ぬ前の夜に、弟子たちにパンを割いて与え「これは私の身体です、私を記念してこれを行いなさい」といいました。
また食事の後で葡萄酒を与え、「これは罪を許すために多くの人のために流される私の契約の血だ」と言いました。

 そこでカトリックの教会では、集まって礼拝するごとにこれを行います。
プロテスタントや聖句主義の教会では、毎週の礼拝の内、月に一度、これをします。毎週すると形式的になってしまうおそれがあるので、そうしているようです。

 カトリックでは、幼児洗礼をしますので、幼児はクリスチャンです。そこで聖餐をしてパンと葡萄酒を与えねばなりませんが、子供に葡萄酒を飲ませるのは難しいですよね。

 そこで、パンに葡萄酒を浸してあたえるという、ウルトラCのアイデアを考えつきました。
 ギリシャ正教会でもそうなっているのでしょうか、この写真は、葡萄酒を浸したパンを子供に与えている場面です。


ギリシャ正教会といっても、東欧の国のではありません。
米国ミシガン州の教会です。

米国には、こういう礼拝を好きな人もいるんですね。
するとギリシャ正教会も、成立し存続して行く。

こうして出来る多様性がいいですね。

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なお、聖餐におけるパンと葡萄酒に関する解釈も、カトリックと聖句主義教会では違います。
カトリックでは、それらはミサ(礼拝)における司祭の祈り(聖別の祈り)によって、キリストの肉と血に変化する、と考えます。もちろん見た目には変化しませんが、その実態が変化するというのです。

これを「聖変化」といい、また、こういう説を「化体(かたい)説」と言います。
ギリシャ正教会ではどうでしょうね。
同じではないでしょうか。

聖句主義の教会では、そういう変化をするとは考えません。
パンはパンで、葡萄酒は葡萄酒です。

そうではありますが、これをイエスが「私を記念して行え」と命じたので、その命令に従順して行うことに意義があると考える例が多いようです。


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Vol.138『先生、危険です!』 (11章)

2006年05月01日 | ヨハネ伝解読



10章は終わりました。
内容の深い章でしたね。

 とりわけ、「罪許されるための条件」を考えさせてくれたことは、とても有益でした。

日本の信仰者は、正しい聖書解釈が一つあって、それを外れるともう「救われなくなる」、「罪も許されなくなる」とほとんどが思っています。無意識のうちにそう思っているのですね。

 それで、自分にとって新しい解読に触れると動転する。恐怖する。顔が、心が、引きつる。そして従来の解釈にしがみつきます。

 だけど、よく考えてみると、それは教理主義なんですね。ある教理(聖書解釈)が正統で、これに反すると救われなくなるとする。これ教理主義です。

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 ところが、ご自分は聖書主義だと錯覚している。
「あなたは教理主義ですか?」と聞くと
「とんでもない、聖書主義です、聖書を基盤にしています」と反応します。

 どうしてそんなことになるか?
クリスチャンはやはり、聖書に対して相応の解釈を抱いてやっていくしかないからです。物事を決断するにしても、行動するにしても、一定の解釈の元におこなうしかない。
聖句自体は、混沌の世界ですからね。
 
 そこで、人生の時点時点で、ある特定の解釈に立って判断、行動するのですが、問題はそれを絶対と感じないと、確信ある行動が取りづらくなることです。

 自分の解釈を相対的なものと意識すると、人は通常は行動に思い切った力が入りにくいものです。他の解釈が正しいかも知れない・・と思っているんではね。

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 通常はそうです。
 だが、これから脱却するウルトラCの方法があります。
10章は、それを示唆してくれました。

 それが「聖書(イエス)に真理がありそう、と期待している状態が罪許される必要にして十分な条件」という知識を持つことでした。

 そうすると、まず、人は自分の解釈が「正統なもの」から外れてるんじゃないか、という恐れから解放されます。
 同時に、他者の解釈を「正統でない」と責めたり裁いたりしようという気持がなくなります。

 と、同時に、聖書の内容には人間の解読能力を超えたところがあるのであって、人間には「最終的に正しい解読」には至れない、ということを安心して悟れるようになります。

 すると、人間は皆、各々の人生で、その時点時点に正しいと思った解読に立ってやっていけばいいんだ、と安心して思えます。こうして自分の解読に確信もって立つことが出来るようになる。なおかつ、他者の解釈を責めることもなくなるのです。

 これが「自由」です。
真の精神の自由です。

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なお、「罪許される」というのは、罪が消滅することではありませんよ。
消滅してなくなってしまったら、「許す」なんて必要はないでしょ。

 許される、というのは罪があるから言えることです。
 その罪が「ないものと見なされる」ということです。
 それ故に「救われる」につながるのですね。

 人は、罪許されても、罪のあるままで、日々罪を犯しながら生きていきます。
 その状態で、「イエスに期待し続けて生きる人は」日々それを「ないものと見なされ」(許され)ます。

 そして最後の審判においても「すべてないものと見なされ」裁きをバイパスして創り主の王国に入れられる~~こういう風に聖書は解釈することも可能だと言うことですね。

「ヨハネ伝」は嬉しい書物ですね。
今回から11章です。
期待して入って行きましょう。


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=聖句=
 「この病はラザロの死で終わるものではないよ。これは創造主に栄光をもたらすために起きたものであり、その子が栄光を受けるためのものだ」(11章4節)
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 ヨハネは11章で有名な事件を書き記しています。イエスがラザロという青年を、死んでから四日たった後に生き返らすという話がそれです。

 イエスが「私は創主の子」といって創主を冒涜すると、ユダヤ人たちが怒る。石でもって打ち殺そうとする。そこでイエスはエルサレムを離れて、ヨルダン川の東側の岸に滞在したーーーこのことは前章に記されていました。

 そうしたイエスのところに、人がやってきます。ラザロという青年が病気であり、来て癒して欲しいといういうのです。彼はその姉妹二人からメッセージを託されて来たのです(3節)。
 
 イエスはこの青年を深く愛していました。彼は、マリア、マルタという二人の姉妹と共にベタニアという地に住んでいました。ベタニアは、エルサレムに近い町です。エルサレムから3キロ程離れているだけのところです。

 この家族は、熱心なイエス信仰者だったようです。イエスがエルサレムに来る際、一行を家でもてなしたり、宿泊させたりするくらいだったと推察されます。イエスもまた、彼らを愛していました。そのラザロが重病だという。

ところがイエスはこういう。「この病は死でもって終わらない。この出来事は創造主の栄光(力)が現されるためである。そしてそれでもって創主の子(イエス)が栄光(栄誉)を受けるのだ」と。そしてその地にさらに2日滞在するのです(6節)。

 それからおもむろに「もう一度ユダヤ(エルサレムやベタニアのある地域)に行こう」と言います。弟子たちは心配します。「ついこの間、ユダヤ人たちが先生を石で打ち殺そうとしたばかりですよ。ダメです、危険です!」(8節)。


コメント (1)
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