連休で、春平太もまた一週間ほどお休みいただきます。
みなさん出来れば、過去の投稿を読んでみてくださいね。
(インターネットが使えたら、投稿したいと思っていますが・・)
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写真は、ギリシャ正教会での聖餐式です。
パンを葡萄酒に浸して、スプーンにのせて子供に食べさせています。
聖餐というのは、「聖なる晩餐」という意味です。
イエスは、十字架にかかって死ぬ前の夜に、弟子たちにパンを割いて与え「これは私の身体です、私を記念してこれを行いなさい」といいました。
また食事の後で葡萄酒を与え、「これは罪を許すために多くの人のために流される私の契約の血だ」と言いました。
そこでカトリックの教会では、集まって礼拝するごとにこれを行います。
プロテスタントや聖句主義の教会では、毎週の礼拝の内、月に一度、これをします。毎週すると形式的になってしまうおそれがあるので、そうしているようです。
カトリックでは、幼児洗礼をしますので、幼児はクリスチャンです。そこで聖餐をしてパンと葡萄酒を与えねばなりませんが、子供に葡萄酒を飲ませるのは難しいですよね。
そこで、パンに葡萄酒を浸してあたえるという、ウルトラCのアイデアを考えつきました。
ギリシャ正教会でもそうなっているのでしょうか、この写真は、葡萄酒を浸したパンを子供に与えている場面です。
ギリシャ正教会といっても、東欧の国のではありません。
米国ミシガン州の教会です。
米国には、こういう礼拝を好きな人もいるんですね。
するとギリシャ正教会も、成立し存続して行く。
こうして出来る多様性がいいですね。
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なお、聖餐におけるパンと葡萄酒に関する解釈も、カトリックと聖句主義教会では違います。
カトリックでは、それらはミサ(礼拝)における司祭の祈り(聖別の祈り)によって、キリストの肉と血に変化する、と考えます。もちろん見た目には変化しませんが、その実態が変化するというのです。
これを「聖変化」といい、また、こういう説を「化体(かたい)説」と言います。
ギリシャ正教会ではどうでしょうね。
同じではないでしょうか。
聖句主義の教会では、そういう変化をするとは考えません。
パンはパンで、葡萄酒は葡萄酒です。
そうではありますが、これをイエスが「私を記念して行え」と命じたので、その命令に従順して行うことに意義があると考える例が多いようです。
みなさん出来れば、過去の投稿を読んでみてくださいね。
(インターネットが使えたら、投稿したいと思っていますが・・)
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写真は、ギリシャ正教会での聖餐式です。
パンを葡萄酒に浸して、スプーンにのせて子供に食べさせています。
聖餐というのは、「聖なる晩餐」という意味です。
イエスは、十字架にかかって死ぬ前の夜に、弟子たちにパンを割いて与え「これは私の身体です、私を記念してこれを行いなさい」といいました。
また食事の後で葡萄酒を与え、「これは罪を許すために多くの人のために流される私の契約の血だ」と言いました。
そこでカトリックの教会では、集まって礼拝するごとにこれを行います。
プロテスタントや聖句主義の教会では、毎週の礼拝の内、月に一度、これをします。毎週すると形式的になってしまうおそれがあるので、そうしているようです。
カトリックでは、幼児洗礼をしますので、幼児はクリスチャンです。そこで聖餐をしてパンと葡萄酒を与えねばなりませんが、子供に葡萄酒を飲ませるのは難しいですよね。
そこで、パンに葡萄酒を浸してあたえるという、ウルトラCのアイデアを考えつきました。
ギリシャ正教会でもそうなっているのでしょうか、この写真は、葡萄酒を浸したパンを子供に与えている場面です。
ギリシャ正教会といっても、東欧の国のではありません。
米国ミシガン州の教会です。
米国には、こういう礼拝を好きな人もいるんですね。
するとギリシャ正教会も、成立し存続して行く。
こうして出来る多様性がいいですね。
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なお、聖餐におけるパンと葡萄酒に関する解釈も、カトリックと聖句主義教会では違います。
カトリックでは、それらはミサ(礼拝)における司祭の祈り(聖別の祈り)によって、キリストの肉と血に変化する、と考えます。もちろん見た目には変化しませんが、その実態が変化するというのです。
これを「聖変化」といい、また、こういう説を「化体(かたい)説」と言います。
ギリシャ正教会ではどうでしょうね。
同じではないでしょうか。
聖句主義の教会では、そういう変化をするとは考えません。
パンはパンで、葡萄酒は葡萄酒です。
そうではありますが、これをイエスが「私を記念して行え」と命じたので、その命令に従順して行うことに意義があると考える例が多いようです。