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もう一つ、別のバプティスト教会での洗礼風景です。
この教会では、洗礼槽が講壇に向かって右手の方向の、高い位置にありました。
礼拝出席者が右上方の壁を見上げると、そこに洗礼の場面が見えるという風景ですね。
大きな教会でしたので洗礼槽が遠くて、ズーム写真がぼやけていますが、ここでは洗礼を授ける人が槽の外側に立っているのがわかると思います。前回の教会では、洗礼を授ける人も、水の中に入って立っていました。
<万人祭司の鉄則>
また、ここでは洗礼を授ける人が、シャツにネクタイという、普通のビジネスマンスタイルでした。いわゆる牧師でなく、一般信徒のようでした。聞くところでは執事さん(教会の運営を司る一般信徒)だろうということでした。
牧師の資格を持っていなくても、洗礼を授けていいのか、と思いますが、バプティスト教会では、いいことになっています。この教派では、牧師などの教職者と一般信徒との間に権威の差は基本的にない、というのが鉄則になってます。これを英語では~~
"Priesthood of All Believers"
~~といいます。「信徒は皆聖職身分を持つ」といった意味でしょうか。もっと簡単に言えば「信徒は皆聖職者」といったところです。
<これがないと教理主義に流れていく>
日本語ではこれをちょっと格好つけて~~
「万人祭司(ばんにんさいし)」
~~などと訳しています。要するに、一般信徒と聖職者(司祭、祭司、牧師といった聖職を職業とするもの)との間に、身分や権威の差などコンポン的にはないんだ、という原則です。
この原理がないと、「個々人の聖書解釈の自由」というバプティスト教会の大鉄則が崩れていくのです。だってそうでしょう。聖職者の権威が上にあれば、この階級の人々の解釈は、一般信徒よりワンランク上、ということになります。
そうすれば彼らの聖書解釈も、創り主よりワンランク上の啓示(インスピレーション)を与えられているんだからやっぱりアリガタイもんだろう、ということになります。そうしたら彼らの解釈を正統と受け入れることになります。
ア~リガァタヤ、アリガタヤ・・・これすなわち教理です。
するともう信徒は、聖句に直接当たって考えるということをしなくなりますよね。代わりに教団の聖職者から降りてくる教理を学習することになる。だって、正しい解釈が決まっているのなら、聖句を考えたって意味が薄くなりますから。
<祖先は殉教の歴史を・・>
バプティスト教会信徒の信頼(信仰)上の祖先は、イエスの弟子たちの教会時代から、万人祭司の鉄則を延々と守り続けてきました。ひたむきな努力が近代になって信仰自由の原則が憲法で認められるまで続いた。
その間、彼らの原則を容認しない教団から殺戮を含めた迫害を受け続けてきました。彼らの信仰上の祖先の歴史は、すさまじい殉教の歴史でもあります。その事実は今日までのところ、覆いを掛けられてきていますが、いつか明かされるときが来るでしょう。
そう考えるとビジネスシャツにネクタイで洗礼を授ける姿は、この教派が守り通してきた鉄則を強い意志と共に表明しているようにも見えてきます。