鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.146『死霊も死後イエスを信じれば活きる?』(11章)

2006年05月18日 | ヨハネ伝解読


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=聖句=
 「私はよみがえりです、いのちです。
私を信じる者はたとえ死んでも生きるのです。
また、生きていて私を信じる者は死ぬことはありません」(11章25節)
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 今回は、前の文「肉体を離れて、かつ、死んでいる霊でもイエスを信じればその霊は活きる」
を考えましょう。これはどういうことか?

 霊が死ぬというのは、肉体が生きている間に、イエスを信頼しなかったことによって生じる結果です。
聖書の論理ではそうなりますよね。

 死んだ霊は死霊です。
一旦死霊となった霊が、肉体を抜けた後にでも、イエスを信頼する(それによって活きる)ことが出来る、
という解釈に前回なりました。

 こういう解読を、聖書の他の聖句は支持しているでしょうか? 

<ペテロ第一の手紙>

 これに関して、直接「信頼して活きることが出来る」とか
「出来ない」とか表明している聖句を春平太は知りません。
だが聖書には、それに関連した記述をした部分があります。
「ペテロによる第一の手紙」下記の聖句がそれです。

 「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。
それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、
私たちを創主のみもとに導くためでした。」(ペテロによる第一の手紙、3章18節)

 「その霊において、キリストはとらわれの霊たちのところに行って
みことばを宣べられたのです。」(同上、3章19節)

 「昔、ノアの時代に、箱船が造られていた間、創主が忍耐しておられたときに、
従わなかった霊たちのことです。
わずか8人の人々が、この箱船の中で、水を通ってすくわれたのです。」
(同上、3章20節)

 この聖句はこういうことを示しています。

 1.ノアの大洪水で死んだ人類(創り主の言葉を信頼しなかった)の霊は
「とらわれの霊」として何処かにとらわれていた。

 2.イエスは、十字架にかかって、その肉体が殺された後、
そのとらわれの霊たちのところにいって福音を宣べ伝えた。

~~これは現代の多くのクリスチャンにとってびっくりではないでしょうか。
でも聖書にはそう書いてあるんですね。
ペテロがここで、聖霊の感化を受けて書いているとすれば、
それは真理として受け取るべきとなるでしょう。

 イエスが死者の霊に対して福音を宣べ伝えることがある
ーーーこの記述は、「死霊も福音を受け入れてその霊を活霊に転ずることがありうる」
ということを示唆しています。

 その可能性がないならば、全知であるイエスの霊は死霊に福音をのべ伝えるというようなことはしないでしょう。
上記の聖句からするとどうも可能性はありそうです。
生前にイエスを信頼しなかった人の霊にも「セカンドチャンス」はあると、
聖書は言っているようなんですね。

<死霊の意識は鬱状態>

 なお、肉体を離れた後に霊が活きている活霊の状態と、
死んでいる死霊の状態とはどう違うでしょうか。
  
 これは推測ですけれど、聖書の思想では人間の意識の本体は霊である、ということになっています。
霊の状態で当人の意識は決まるわけです。
 おそらく活霊の意識は、命エネルギーに充ちた活き活きした快適な状態にあるのではないでしょうかね。
対して死霊は、憂鬱で力のない鬱的な状態にあるのではないかと思います。

 すると「活きていて私(イエス)を信じるものに死はありません」というのは
「肉体が死んでその霊が肉体から出ても、意識の本体としての霊は鬱感覚を経験することがない」
ということになるのでは、と思われます。

 逆に、肉体を離れて死霊になった霊は、たとえ後に活霊になるとしても、
それまでの間は、鬱状態を体験することになるのでしょうか。
それくらいの苦痛は味わってもらうよ、ということかな・・・。



コメント (9)
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