鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.148『ニッポンキリスト教は避けて通る』(11章)

2006年05月20日 | ヨハネ伝解読

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=聖句=
 「私はよみがえりです、いのちです。私を信じる者はたとえ死んでも生きるのです。
また、生きていて私を信じる者は死ぬことはありません」(11章25節)
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ここ11章25節に対して日本のキリスト教会ではどうでしょうか?
 概して言いますと、飛ばしていますね。何もいわずに避けている。

 理由は簡単です。
日本の教会は、まだ、聖書の教えの中で霊という存在を本格的に認識しようとするに至っていないのです。

<ニッポン教会では霊認識が漠然>

 霊が認識されねば、人間をおもに肉体で見ることになります。
肉体で見たら、「(イエスを信じたら)死んでも生きる」というのは
何いってるかわからなくなりますもんね。

 もちろん、日本の教会一般にも多少は霊的な意識はありますよ。「死んだら魂が天国に行かれる」といった程度は。
だが、肉体が生きている間のことについては、霊はほとんど意識されていない。
霊がどういう影響を与え続けているのか、という意識は少ないです。

 これでは、浄土仏教など他の宗教と同じですよね。
「死んだらいいところに行けるのではないか・・・」
という漠然たる期待を与える程度のものは、他にもたくさんあります。
ニッポンキリスト教の霊意識は概してこれと同じ状況にあります。


                    


<だからやたら「愛」が叫ばれる>

 その結果また、聖書の教えの最重要キーワードは霊でなく「愛」ということになっています。
さらに愛が最重要要素ですから、最も悪いのは「愛がない」ということになる。
さらにすすんで、この「愛がない」ということを指す言葉として「自己中心性!」というのが登場いたします。

 そして、これが罪の概念に挿入され、罪の主たる中身となるのです。
かくして「罪とは自己中心的なこと」である、というあっと驚く論理が
ニッポンキリスト教では出てまいります。

 これが、ニッポンの教会では「驚くべき」ことでなく普通のこと、正常なこととして行われているんですね。
これ自体が驚くべきことなのですが・・・。我が国の教会ではあくことなく
「愛、愛・・・」と信徒に訴求しています。

 だもんだから、もう信徒は道徳的な要求に追い立てられることになる。
あるいは、自分で自分を追い立てることになる。
日本の教会人に平安がない、表情が萎縮している、振る舞いが演技的である、という理由は、そこにあります。

 そんな集団(教会)に一般人は参加したいという気持ちになるでしょうか?
 なりませんよね。これが我が国でクリスチャン人口比率は0.5%ということの主原因です。


                    




コメント (15)
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