「ヨハネ伝解読」11章。本日はハイライトの聖句が登場します。
これからクライマックスに入るのです。
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=聖句=
「私はよみがえりです、いのちです。私を信じる者はたとえ死んでも生きるのです」(11章25節)
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イエスが前に言ったとおり、誰もイエスを捕らえに来ませんでした。
その時が来ていないから、というのが聖書の論理です。一行は、徒歩旅行を続けました。そして、ベタニアの町近くに来たときにはラザロが死んですでに四日たっていました(17節)。
そこからエルサレムまでは、3キロ程離れていました。
ラザロの姉妹であるマルタは、イエスが来られたと聞いて、町はずれまで向かえに出ます(20節)。そしてイエスに会うや、言います。
「主よ、あなたがここにいて下さったら、ラザロは死ななくて良かったのに・・・・」(21節)。
(あのユダヤ人たちがあなたに石を投げようとしたもんだから、遠く離れておしまいになった。そんなことさえなかったら、エルサレムにいて下さったならば、すぐに来て頂けたのに・・・)
~~マルタはこう嘆いたのかも知れません。だが、ヨハネはそのあたりについては記さないで、マルタの次の言葉を記録しています。
「けれども、主よ、あなたがどんなことをお願いなさっても、創造主はかなえて下さいます。私はそれを知っています」(22節)。
<死んだラザロを生き返らすことが出来る人、とまでは知っていない>
これを読むと、我々は「おっ! 死んだけど、イエスは生かしてくれる、と信じているのか?」と思いますよね。ところがそうではないのです。さすがのマルタも、そこまでは、期待もしていませんでした。
イエスはかまわず言います。
「マルタ、あなたの兄弟は生き返るんだよ」(23節)。
マルタは涙ながらに応えます。
「はい、ラザロが世界の終わりの日に復活することを、わたしは知っておりまする・・・」(24節)。
~~もうどこまで行ってもすれ違い・・・。でもイエスは彼女の考えがどういう風に間違っているか、知らせたり、正したりはいたしません。かまわずどんどん進みます。
「私は、よみがえりです、いのちです。私を信じるものは、たとえ死んでも生きるのです」(25節)。
出たぁーっ!
ジャァーン!
これが聖書の中の聖書です。福音の中の福音だ。
春平太はそういう見解であります。
ここも、物理的に考えたら途方に暮れるところですが。
「たとえ死んでも生きる」だなんて・・・。
物理的に見たら、(人の肉体は)死んだは死んだ、生きたは生きたでしょう。それが「死んでも生きる」なんて、一体何いっているんだ・・・・。