~~連休中、春平太は聖書信頼が強い地域にいました。
こういうところでは、人々の意識世界には創造主が大きな位置を占めています。
創造主があって人間たちがあり、物質もある。そういう世界イメージが心にあります。
それで日本に帰ると、人々の意識が世的なことでほとんどいっぱいなのが特徴的に感じられます。テレビなどマスコミもそうです。心を占めているのは人間と物質のことばかり。
意識ワールドが極端に狭い。気持がキューッと詰まってきます。よくノイローゼにならないな、と改めて思います。(美味しい食べ物があるからいいか・・・)
こういうのを英語ではアンゴッドリー(ungodly)といいます。
アンゴッドリー・ピープル(アンゴッドリーな人々)とかアンゴッドリー・カルチャー(アンゴッドリーな文化)といった如くです。
ゴッドレス(godless)ということもありますが。
日本のアンゴッドリーぶりは、国内だけではないようです。
あちらで日本の牧師さんに会いました。
牧師さんでも日本の方の意識は人間とか物質とかのことでほとんど占められていますね。
信徒の誰彼がどうしたこうした、とか、あの外国人は気に入らない、とかそういうことばっかり。
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さて「ヨハネ伝解読」
聖句は前回と同じです。
これは徹底的に解読する必要あるんですね。
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=聖句=
「私はよみがえりです、いのちです。私を信じる者はたとえ死んでも生きるのです」(11章25節)
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イエスの教えでは、人は肉体と霊とから成っています。そして、各々に生死が考えられています。
<肉体の死と霊の死>
肉体の死は、肉体が循環運動を停止して、崩壊していく(腐っていく)ことを指しています。これは、われわれが肉眼で観察して知っていることですよね。
ところが霊については、話は一寸違ってくる。聖書では霊はどうであれ、消滅しないのです。永続する。霊の死とは、霊に「いのち」というエネルギーが欠乏することを意味しています。
反対に、霊の生とはこの、いのちエネルギーが充ち満ちていることだ。
死とは、霊にこのエネルギーが欠乏している状態です。
霊は、存在としては、死んでも永続するのです。
ただ、いのちエネルギーが足りなくなっているだけなのです。
<四つのケースがありうる>
ではイエスは一体、どちらについて何を言い、全体として何を言おうとしているのでしょうか?
形の上では、「死んでも生きる」の生き死にには各々、肉体のケースと霊のケースとが考えられますよね。
「死んでも」について肉体と霊との二つのケース、「生きる」についてもまた肉体と霊との二つのケースです。
だから、2x2で、合計四つのケースが出てきます。
いま、各々のケースを書き出してみましょう。
①「(肉体は)死んでも、(肉体は)生きる」
②「(肉体は)死んでも、(霊は)生きる」
③「(霊は)死んでも、(肉体は)生きる」
④「(霊は)死んでも、(霊は)生きる」
これで組合せはすべてです。これ以上にはありません。これらを一つ一つ検討していけば、イエスの言わんとするところに近づけるのではないでしょうかね。