本日の聖句は、前回の聖句に、もう一つ文を付け加えたものです。
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=聖句=
「私はよみがえりです、いのちです。私を信じる者はたとえ死んでも生きるのです。また、生きていて私を信じる者は死ぬことはありません」(11章25節)
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~~前回までの聖句で、考えられるケースは次の四つでした。
①「(肉体は)死んでも、(肉体は)生きる」
②「(肉体は)死んでも、(霊は)生きる」
③「(霊は)死んでも、(肉体は)生きる」
④「(霊は)死んでも、(霊は)生きる」
そのうちで、①と③はありえない、と前回結論しました。
今回は②と④について考える回です。
前回に「たとえ死んでも生きる」のうちの、「生きる」の主語は、霊であろうことはほぼ明らかになりました。残るは前半です。ここで「たとえ死んでも」の「死んでも」の主語は何でしょうか?
<肉体は死んでも、の場合は?>
主語となる可能性のあるのは、肉体と霊との二つだけです。まず「肉体」から行きましょうか。②ですね。
②「私(イエス)を信じる者は、たとえ肉体は死んでも霊は生きる」
~~これはいいなぁ~。イエスを信じる者は「たとえ肉体は死んで崩壊しても、霊はいのちエネルギーが充電されて活きるのだ」というのは聖書の鉄則ですからね。
<たとえ霊は死んでも、の場合は?>
では「たとえ死んでも」の「死んでも」の主語が「霊」の場合はどうでしょうか? ④ですね。
④「私(イエス)を信じる者は、たとえ霊は死んでも霊は活きる」
~~こちらはなんだか不自然な感じですね。
「霊が死んでも例は生きる」ってなんなんだ。
どうも「たとえ死んでも」の対象は「肉体」でキマリな感じです。
<後に続く文を考慮に入れると・・・>
確かにそうです。
ですけれども、この聖句には次に続く言葉があるんですね。
「また、生きていて私を信じるものは、死ぬことがありません」(25節)
これを加えて、全体の文脈から聖句を観ると、話は変わってきそうです。
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もう一度②を検討しましょう。
このケースでは~~
②「私(イエス)を信じるものは、たとえ肉体が死んでも、霊は生きる」
~~でしたよね。
この場合当人は肉体が死ぬ前にイエスを信じていることになっていますよね。で、イエスを信頼すると霊は生きるのですから、この人の霊は生前から活きているわけです。だから、肉体が死んで霊がそれを脱いでも、霊は生きたままである~~論理的にも自然なことです。
ではありますが、この場合、後に付け加えた文はどうなるかと考えましょう。
前の②がそういう解釈ですと、後の~~
「また、生きていて私(イエス)を信じる者は死ぬことはありません」(11章25節)
~~は、「また、“肉体が”生きていて私を信じる者は(霊が)死ぬことがない」となりますよね。
するとこれって、霊に関しては②と全く同じこと言っているんじゃありません?②は「生前にイエスを信じている状況」について言ってるのですから、それは霊が活きている状況ですよね。
だから、
「肉体が死んで霊がそれを脱いでも霊は生きている」ことを言ってるんだ。同じですよね。
②のケースを採用すると、②とその後に付け加えた文とが同じ内容を言ってることになる。それが「また」という接続詞でつなぎ合わされていることになります。
こんなことはおかしいですよね。同じ意味のことを「また、」という接続詞でわざわざつないでいうなんてナンセンスだ。②でいくと全体の文脈では筋が通らない結果になるのです。
言い換えれば、②は、それだけだったらとても座りがよく完結するのですが、後の文とつなげてみると、「あり得ない」解読になるんですね。
さあそうなるともう可能性のあるケースは④だけになりました。ホントに④でいいのか? 次回に考えることにしましょう。