若者諸君。
今回は、イエスが造った「救い」の構造を示すよ。
「イエスは神の子です」という言葉も、どこかで聞いたことない?
正確には、「創造主の子」だ。
その理屈はこうなっている~~
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イエスは処女マリアから生まれた。
人間の男によってではなく、聖霊によってみごもった。
聖霊というのは、創造主から無数に出た創造主と同質の霊だ。
だから、創造主と同じく、いのちエネルギーの源になっている。
これがいっぱいこの世にやってきている。
その霊によって、マリアは身ごもった。
そうであれば、イエスはアダムから不完全充電の霊を受け継いでいない道理になるよね。
イエスの身体の内には、聖霊があることになる。
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さて、聖書には、もう一つの法則が書かれている。
人の肉体の状態は、根底的には霊の状態で決まる、というのがそれだ。
アダムの霊が、いのちエネルギーによる充電度100%の時は、アダムの身体は死なないものだった。エデンの園で永遠に生きられるようになっていた。
ところが、その充電度が不完全になった。
100%のうちの何パーセントかの霊の部分は、いのちが欠ける状態になった。
「いのち」の欠けた部分は聖書では、いのちの反対の性格を持った部分となる。
いのちの反対、すなわち、「死」の部分だ。
不完全充電になったとき、アダムの霊には、何パーセントかの死の部分ができたわけ。
すると、その肉体も、霊の状態を反映して、ある時死ぬようになるんだ。
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でも、アダムもその子どもたちも1000年近く生きている、と聖書には書かれている。充電の不完全度が今の我々より遙かに低かった、ということになるのかな。
そうすると、人間の霊の充電度は、歴史の中でだんだんと低下してきていることになるか。
が、とにかく、アダムが追放されて以後、法則として人間はみんな死ぬようになった。
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ところがイエスの霊はそうでないからね。
充電度100%なのに加え、そこからはいのちエネルギーが放射されている。
聖霊はいのちの源泉だから。
泉から水がわき出るように、湧き出ている。
だから、全然死ぬ法則の下にはないんだよね。
イエスの身体は・・・。
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なのに、ユダヤ教の僧侶たちは、彼を十字架にかけて殺すわけ。
イエスの身体の循環運動を、物理的に力でできなくしてしまうわけね。
すると、イエスの身体を活かしていた、いのちエネルギーがあふれ出るわけだ。
イエスは、これを「人間の霊の充電不完全部分を補うものをして使え」と生前言い残していく。
この法則を心に受け入れたものは、最後の審判の時に、ホントに霊が補足充電されて完全充電になる。
殺される前にイエスは弟子たちにこう言い残す。
そして殺され、復活し、天国に昇天する。
~~~少し長かったけど、そういうことになっている。これがイエスが人間に開いてくれた「救いの道」ということになっているんだよ。
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