2章の第二回目です。
ヨハネは、イエスがカナで行った奇跡、水をワインに変えるという技を、
「イエスの行った最初の奇跡」
と記しています。ここでも、脇を固め、直接見聞して書いている側近としての面目躍如です。「最初の奇跡」というのは、イエスの宣教活動の出発点からそこまで、ぴったりと付いていてこそ言えることですからね。
その記述によって我々は、「それまではイエスは、言葉で教えるだけでもって宣教していた」、ということをも知り得ます。弟子たちは、イエスの「理論を聞いて」心酔してついてくるようになっていたのですね。これは、重要なことです。彼らは理性で納得して入門したのです。
イエスは、あえて、奇跡を示さなかった。
まあ、ナサニエルには軽くカウンターのジャブをかませましたけれど、そんなのはこれから行っていくことから見たら、奇跡の内に入りません。
奇跡をみたということでもってついてくる場合、人々は理屈抜きでついてくることになる。好奇心とか、とにかく力がある人がから、とかいうことで。「だから、まあ言ってることも正しいだろう」とか、そんな程度で人はついてくるようになる。
イエスはそれを知っておりました。だから、当初は奇跡を見せなかった。そう思われます。
@ @ @
とはいえ、奇跡は大切な役割を持っています。イエスはカナで、最初の奇跡を見せました。それをみて「弟子たちはイエスを信じた」と、ヨハネは記しています。
もちろん、弟子たちは、イエスの教えに目を見張りました。聞くごとに目から鱗が落ちていった。けれども、それを「真理だと信じる信仰の深さ」となると、まだまだいまひとつだったのでしょう。
奇跡というのは、信仰を深めるのに決定的な役割を演じるようです。ひとことでいえば、それは創主の「臨在感」比類なく高めるのですね。
現代でも、宣教者たらんとする人、すでに宣教者となっている人、これらの人は「しるし」の力を求めるべきではないでしょうか。大まじめで。
しるし無しで伝道していますと、どうしても「信じてくださいよ」と乞うような調子になりがちです。堂々と宣教できにくくなります。これはもう、しょうがないですね。世の中そういうものですから。
結果はいいです。生涯、ひたすら求めて求める。そういう本気の伝道姿勢が、人々の心を打つのではないでしょうか。
ヨハネは、イエスがカナで行った奇跡、水をワインに変えるという技を、
「イエスの行った最初の奇跡」
と記しています。ここでも、脇を固め、直接見聞して書いている側近としての面目躍如です。「最初の奇跡」というのは、イエスの宣教活動の出発点からそこまで、ぴったりと付いていてこそ言えることですからね。
その記述によって我々は、「それまではイエスは、言葉で教えるだけでもって宣教していた」、ということをも知り得ます。弟子たちは、イエスの「理論を聞いて」心酔してついてくるようになっていたのですね。これは、重要なことです。彼らは理性で納得して入門したのです。
イエスは、あえて、奇跡を示さなかった。
まあ、ナサニエルには軽くカウンターのジャブをかませましたけれど、そんなのはこれから行っていくことから見たら、奇跡の内に入りません。
奇跡をみたということでもってついてくる場合、人々は理屈抜きでついてくることになる。好奇心とか、とにかく力がある人がから、とかいうことで。「だから、まあ言ってることも正しいだろう」とか、そんな程度で人はついてくるようになる。
イエスはそれを知っておりました。だから、当初は奇跡を見せなかった。そう思われます。
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とはいえ、奇跡は大切な役割を持っています。イエスはカナで、最初の奇跡を見せました。それをみて「弟子たちはイエスを信じた」と、ヨハネは記しています。
もちろん、弟子たちは、イエスの教えに目を見張りました。聞くごとに目から鱗が落ちていった。けれども、それを「真理だと信じる信仰の深さ」となると、まだまだいまひとつだったのでしょう。
奇跡というのは、信仰を深めるのに決定的な役割を演じるようです。ひとことでいえば、それは創主の「臨在感」比類なく高めるのですね。
現代でも、宣教者たらんとする人、すでに宣教者となっている人、これらの人は「しるし」の力を求めるべきではないでしょうか。大まじめで。
しるし無しで伝道していますと、どうしても「信じてくださいよ」と乞うような調子になりがちです。堂々と宣教できにくくなります。これはもう、しょうがないですね。世の中そういうものですから。
結果はいいです。生涯、ひたすら求めて求める。そういう本気の伝道姿勢が、人々の心を打つのではないでしょうか。
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