鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.26『イエス、まず奇跡を見せないで宣教(2章)』

2004年12月12日 | ヨハネ伝解読
 2章の第二回目です。
 ヨハネは、イエスがカナで行った奇跡、水をワインに変えるという技を、

「イエスの行った最初の奇跡」

    と記しています。ここでも、脇を固め、直接見聞して書いている側近としての面目躍如です。「最初の奇跡」というのは、イエスの宣教活動の出発点からそこまで、ぴったりと付いていてこそ言えることですからね。

 その記述によって我々は、「それまではイエスは、言葉で教えるだけでもって宣教していた」、ということをも知り得ます。弟子たちは、イエスの「理論を聞いて」心酔してついてくるようになっていたのですね。これは、重要なことです。彼らは理性で納得して入門したのです。

 イエスは、あえて、奇跡を示さなかった。
 まあ、ナサニエルには軽くカウンターのジャブをかませましたけれど、そんなのはこれから行っていくことから見たら、奇跡の内に入りません。

 奇跡をみたということでもってついてくる場合、人々は理屈抜きでついてくることになる。好奇心とか、とにかく力がある人がから、とかいうことで。「だから、まあ言ってることも正しいだろう」とか、そんな程度で人はついてくるようになる。

イエスはそれを知っておりました。だから、当初は奇跡を見せなかった。そう思われます。

      @      @     @

  とはいえ、奇跡は大切な役割を持っています。イエスはカナで、最初の奇跡を見せました。それをみて「弟子たちはイエスを信じた」と、ヨハネは記しています。

 もちろん、弟子たちは、イエスの教えに目を見張りました。聞くごとに目から鱗が落ちていった。けれども、それを「真理だと信じる信仰の深さ」となると、まだまだいまひとつだったのでしょう。

 奇跡というのは、信仰を深めるのに決定的な役割を演じるようです。ひとことでいえば、それは創主の「臨在感」比類なく高めるのですね。

 現代でも、宣教者たらんとする人、すでに宣教者となっている人、これらの人は「しるし」の力を求めるべきではないでしょうか。大まじめで。

 しるし無しで伝道していますと、どうしても「信じてくださいよ」と乞うような調子になりがちです。堂々と宣教できにくくなります。これはもう、しょうがないですね。世の中そういうものですから。

 結果はいいです。生涯、ひたすら求めて求める。そういう本気の伝道姿勢が、人々の心を打つのではないでしょうか。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 永続への確信がもららすもの | トップ | Vol. 27『母、兄弟、最初... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ヨハネ伝解読」カテゴリの最新記事