鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.122『創主の力(栄光)は病も溶かす』(9章)

2006年03月03日 | ヨハネ伝解読

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=聖句=
 「(この盲人が、盲人として生まれついたのは)本人が罪を犯したのでも、両親が罪を犯したでもありません。ただ、創り主の御わざが彼の上に現れるためです」(9章3節)
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 「本人の罪か、親の罪か」という弟子の質問に対してイエスは上記の聖句のように答えたと、ヨハネは記しています。


 これはどう解したらいいでしょうか。
難しいですね。


                


 一つの解釈は予定説的なものです。
 ~~この盲人の場合こうなっていて、今この場所でイエスに出会って癒されることが、あらかじめ決められていた。それによって創造主の偉大なる力(栄光)が人々の前で現れる。そういう予定のもとに彼は、盲人として生まれさせられたのだ~~と。

聖句を言葉の表面通りに、形式的に素直にとるとこうなりますね。

 ある特定の人に限ついては、そういうことも創り主は出来るんでしょうかねえ。
聖書的には出来ると解すべきか、出来ないと解すべきか、春平太にはよくわかりません。

 けれども、全ての人間について創り主はそういう風に人生をあらかじめ予定して造っているかというと、それは聖書的ではないように鹿嶋には感じられます。

 これでいくと創造主は人間たちの生涯やその彼らが織りなす歴史も予定してしまっている、という歴史観になりますよね。なんか、人間はロボットみたい。人は実はプログラムされたチップを埋め込まれていて、それに沿って動いている存在に見えてきます。これって聖書の基本路線に沿っているでしょうかね。

 たとえばそうだとすると、創主の福を受けるべく人間が意志を働かせて、自発的に努力する余地は基本的には無いことにもなります。本人は、自発的に努力しているつもりでやっていたが、実は、それも含めてすべては予定されていたのだ、ということでは・・・。

 福音伝道という活動についても何か意味が薄れてしまいませんか。伝道したって相手の対応がもうプログラムされてしまっているのなら。

 これらは、人に自由意志を与えたという聖書の基本命題に反していないでしょうか。創主は、その人が自由意志でもって選択するのに応じて、報いをされる、という聖書の大枠に矛盾いたします。



                


 話は少し横道に入りますが、この聖句に関連した見解も付記しておきましょう。クリスチャンに結構多い見解です。

 それは盲目という「病を与えたことそれ自体が、創主の栄光」というものです。病にはプラスの面もある。たとえばそういう病があるが故に、その人はイエスに頼る、信仰するという気持ちに成りやすくなる。

 死すべき肉体を持つ人間にとって、信仰こそ最も大切なものだ。病はそれに至りやすくする役割をするので、病そのものが創主の栄光だ。この盲目もその一ケースだ、と。

 春平太は過去にこの実例に遭遇したことがあります。その方は女性の信仰者でしたが、直りがたい脚の病を持っておられました。教会で、ある信徒がこの方の一進一退の病状に同情の言葉をかけました。そうしたらご本人は「いや、これは主の栄光ですよ」と応じておられました。

 春平太は、そのころまだ聖書の探求に入っていませんでしたので「へーえ、そういうもんかなあ」と思っていました。がその場面は今も憶えているほど、強く印象には残りました。

 同時に、教会で語られる福音というものは魅力の薄いものだなあ、という感じを持ちました。今ふり返ると、その感じは根拠を持つように思われます。


                



 創り主は自らの栄光を示すために、人間に病をも与える方、というのは聖書の基本論理に沿っていないのではないでしょうか。聖書思想の基本は「創主は百パーセント幸福なる方で、その幸福を人間に与えよう、与えようとされる方」というものだと鹿嶋はいま思っています。

 英語で、創り主のことをグッドネス(Goodness)ともいいます。「オ~・マイ・ゴッド!」というのを「オ~・マイ・グッドネス!」ともいう。

 創り主はグッドそのものな方なのですね。創造主は万能といいますが、実は人間に病を与える能力はないといっていいでしょう。

 では、病は誰が与えるか? これはもう悪魔、悪霊、汚れた霊の専売特許と言うことに聖書ではなっております。彼らが、罪のあるところに、不幸、病を挿入するというイメージなのです。


                



 本筋に戻りましょう。
 もう一つの解釈は、ここでイエスは一般法則の次元に話を移して応じた、というものでしょう。

「創り主はすべての病を癒す力を持っている。病は創り主の力が現れる材料のようなものだ」と。

悪魔は病を与えることが出来ます。この人を生まれつきの盲目にしたのは、悪魔なのです。しかし彼の病をも含めて、創り主は病というものを癒す力を持っています。人を病に留める以上の力を、創主は持っている。

すべての病は本来、創主によって癒されうる。その意味で、病は創主の栄光、力を現す材料になりうるものだ。病というものは、創主の栄光が現れる素材だ。この盲目の人の病もまた、そうだ。

 イエスはこの病が「この盲目の人自身の罪による」とか「両親の罪による」とかいったようなことについては、否定していないのでしょう。

 でも、そんなことは今自分が示そうとしている創り主の力からしたら本質的な問題ではない。創り主の力(栄光)は盲目の病も溶かしてしまうのだ・・・。イエスはこういう意図で病の“由来”の次元から話を移した。それを、「・・・でもなく、・・・でもない」という言葉で表現した、と解するわけです。

 そして話を創主の力(栄光)の次元に移して、「この人の盲目は、創主の力が現れるためのものなのだ」といったのだ、と。そして「私がこの世にいる間に・・・」(9章5節)といって、イエスはすぐにその盲人をいやしにかかった、と。

 今の春平太にはそれがもっとも妥当な解読なように見えます。同時にここはさらに他の解釈がでそうな予感もしています。

 あ~あ、聖書ってホントに難しいですね。


                


                
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