鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

「罪」も簡単、律法とイエスの関係も簡単

2004年12月04日 | KINGDOM原理からの聖書解読
<「罪」ってなに?>

 聖書に触れ始めた人から、
「“罪”というのが何言ってるかよくわからんのですよね」という声をよく聞きます。

 これは、学び始めた人だけでなく、実は、「わかっていると思っている」クリスチャンも、わかってない言葉です。
罪とは「的はずれ」だと考えると、わかりやすくなりま~す、という人もいる。
ところが多くの場合、これでますますわからなくなります。

 これは、世の中で言う犯罪の罪とは違います。
両者の間には意味に重なったところもあり、重ならないところもあります。
だから、わかりにくいのです。

 英語では、言葉を分けています。
聖書で言う罪にはSINを、世の中の犯罪にはCRIMEなどを当てています。

 日本でも、翻訳するときに思案されたことでしょう。
しかし、結局いいものが見つからなかったと思われます。犯罪と同じ「罪」という語を訳語にしました。


<KINGDOMの法に沿わないこと>

 ところがこれも、KINGDOM原理から解読すると、簡単明瞭になってきます。
創主の王国であるKINGODOMには、創主が発した法がある、秩序がある、と前回書きました。

 また、この世(宇宙)には、この世の法がある、と書きましたね。
それらの間には、ずれがあるのです。同じ内容ではない。
そして罪とは、KINGDOMの法の方に沿わないことを言うのです。簡単なことです。

 そんなことが人間にあり得るか。大ありです。
人間には、KINGDOMの法が見えません。感知できません。
正確に言うと、アダムがエデンの園で創主の命令に従わなかったときから出来なくなった、
ということに聖書ではなっています。

 が、とにかく、現状として天の王国の法は感知できないのですから、従いようがないわけです。
それで、人間は、少なくとも当面この世の法に従って生きるしかありません。
あったりまえでしょう。

 罪とは、人間のその状況を言っているだけの言葉なのです。
また、聖書では「人間はみな罪人(sinner)だ」といいます。
これもあったりまえ。
みんな天の王国の法は認知できないんですから、そうしかならないでしょ。

ああ、かんたんだなあ~。


<律法ってなに?>

 次に律法です。
 これはこういうことです。人間は基本的に創造主の王国(天国)の法を認知できない。
そうしたなかでも、それが部分的に人間に知らされることがあるのです。
それが律法です。旧約聖書では、それがモーセに伝えられた、となっています。
伝えたのは創主の使い、天の王国の使い、天使です。

 天使は「KINGDOMの法はこうだよ」「これに沿わないのが罪だよ」と示したわけですね、命令として。
これは広い意味では、旧約聖書に書かれている全ての命令です。
狭い意味では、モーセがシナイ山という山で与えられた10個の命令です。

 通常は後者をさして言います。

 こうやって創主は、徐々に人間にKINGODOMの法を知らせていこうとされる、という話なんですね。
その第一弾が、律法というわけです。英語ではLAW。
こちらは、「この世」で造られる法律と同じくLAWという語で示されています。

 ところが、こちらについては、日本語は使い分けています。
この世の法が法律です。
そして、天の王国の法には、漢字をひっくり返して律法という語を造った。日本語は便利だなあ。

 今言いましたように、この世の「法律」と天の王国の「律法」とのあいだには
重なるところもありますが、重ならないところもあります。
だから、天の法である律法に従って生きようとすれば、この世の法で罰せられることもあり、
となりますよね。あったりまえでしょ。


<預言者って何?>

 聖書には預言者というのも出てきます。
これは霊感にとりわけ恵まれた人です。
彼はその霊感で「天の王国の法を、優れてよくキャッチする」んですね。

 霊感でしっかりと受信されたものは、深い確信になります。
預言者にとっては、天の王国の律法は、「これこそ本物、世界の本体」ということになります。
かれには最もリアリティ感のある真理となるわけです。

 だから、預言者は天の王国の法に従って生きようとします。
するとこの世では罰せられることになる。実際、彼らは、厳しく罰せられてきました。
イザヤという預言者などは、生きたまま身体をのこぎりで切り裂かれた、
そうして殺された、と伝えられています。

 旧約聖書は、この預言者(天の王国からの信号を霊感で受信し、それを言葉として預かる者)
の言葉が記録されたものです。
たとえば「イザヤ書」、というのは、イザヤの言葉を集めたものですね。

 だから、聖書は、「天の王国の法こそが永続する方で、真の法だ」という立場に立った本となります。
そこで、預言者にこの世で与えられる罰を、罰と言わないで「迫害」といっています。

 こういう言葉使いは、預言者の方の立場に立っているから出てくるものです。
預言者に好意的だ。
だから聖書では、KINGDOMの法を第一にして生きる人については、
「罰を受けた」といわないで「迫害」を受けた、というわけです。簡単だなあ~。



<罪・律法とイエスとの関係は?>

 では、新約聖書で登場するイエスは、これらとどういうつながりにあるか。
こう考えたらわかります。

 子供というのは、親の期待通りにはなかなか育ってくれないものですね。
でも親は、出来る限りイメージ通りに育って欲しいと思います。
その場合、二つの方法があります。

1.律法の方法

 第一は、期待に添うように、行動を規制する方法です。
「あれをしてはいけないよ、これをしてはいけないよ」、と戒め、注意を与えます。
そうやって行動を枠付けしてあげる。これが律法の方法です。

 戒めを守りつつ生きてくれれば、子供は、親の期待通りの人間に近づいていきます。

 だけど、これを守っていくのは子供には楽ではありません。
彼の性質、気質がそうなっていないのですから。
行動が、自分の気質から出る自然な結果だったら苦痛はない。
だけど、そうではないですから、親の与える規律は。

 だから、戒めは意志の力でまもらねばならない。それには苦痛が伴います。
首相の小泉さん流に言えば、「痛みが伴う」ですね。だから子供は、しばしば、守り損ないます。

 また、親の気持ちからしたら、もっともっと戒めを与えて、いっそうよくなって欲しいと思います。
そういう戒めは本来、考えていけば無数にでるものです。

 けれども、この全てを戒め・規律として「・・・してはいけない」と与えて守らせることは出来ません。
与えたって、人間の記憶には留まりません。

 だから、律法というのは、実際にはそのうちの限られた一部にしかなり得ません。
そういう不完全なもので人を変えていくという方法は、やはり限界があります。


<出来る体質の人に同化したらいい>

2.イエスの方法

 この限界を打ち破ったのが、イエスの教えた方法です。これが第二の方法です。
 それは、いうなれば親の期待通りに行動できる人、そういう性格・人格を持っている人に
「同化してしまう」という方法です。
そういう師匠を見つけ出して、子供に与えたらいい。

 天の王国の法、律法を守ると言うことからしますと、その師匠はイエスその人です。
彼は自ら、「私がその師匠である。私に同化するのが、律法を守るための完全な方法だ」
と宣言し、教えたのです。


      @      @      @

 ここで春平太が「同化」というのは、精神的な同一化です。
人はその肉体を誰かと同化させる(同じにする)ことは出来ません。
だが、イメージでは、精神的には同化できるのです。一例をあげます。

 一般に、母親というものは幼い我が子に対しては、一定の精神的同化をおこなっているものです。

 たとえば、我が子が、病気で太い注射針を腕に刺されるとします。子供は激しく泣きます。
そのとき、母親も自分の腕のその部分にちくりと痛みを感じることがあるそうです。

 どうしてそんなことが起きるか。彼女は我が子と精神的には同一化しているのです。
人間の精神は、そういうことができるように出来ているのですね。

 もう一つの例。人類が歴史的に行ってきた徒弟制度です。
ここで、弟子が師匠の技を学ぶのも、その「同化」という方法です。
ここでは弟子は、入門したら師匠の全てをまねます。仕事上の技術だけでない。
食べ物・着物の趣味も、たばこの銘柄も、喋るときの口調、冗談の言い方までまねます。

 すると、弟子は師匠に似ていきます。似ていく、すなわち、人格も性格も同化していくのです。
するとそのなかで、技術も吸収されていくのですね。
これが師匠の技を習得する、もっとも効率のいい方法、完全な方法です。
だから、人類は、歴史的に多くの国でこの制度を出現させてきたのです。

 この習得制度が実現するためには、徒弟期間中、弟子は決して自我を出してはいけません。
自己の個性を働かせてはいけない。

 自分をむなしくして、ただただ、師匠に惚れ込んで丸ごと同化していきます。
これが師匠の技を身につける最良・完全な方法です。
「身につける」というのは「自分の身に複写させる」ということですから。

 なお、自己の個性を押さえて出さない期間をすごしても、自分の個性は死にません。
人間の個性というのは、しぶといもの、簡単には死なないものです。
師匠に似て、習得を卒業すると、しばらくしてその上に出現してきます。
これが独自性、創造性です。


      @      @      @

 「天の王国の法に沿う人格・性格をつくる技術に関しては、わたしがその唯一の師匠だ」、
イエスは、自らそう宣言しました。
KINGDOM原理に沿わないところは何一つ無いのが私だ、
私は「父のKINGDOMから下って来たのだ」その「私に同化しなさい」、
これがイエスの持ってきた福音(よきしらせ)の大事な一部です。

 もし、同化できたら、その人は天の王国の王様(創造主)が希望するイメージに完全に沿った人になる道理ですね。
だから、イエスの示した方法は、完全な方法なのです。
これから改めて振り返ってみると、律法の方法は、全く効力がないわけではありませんが、
不完全でした。だからイエスは言ったのですね

 「私は、律法を完全化しにきたのだ」(マタイ伝、15章7節)

               ~~と。

<信仰でなくて信頼>

 同化する方法を、もうすこし具体的に考えましょう。
それにはまず、その対象、相手を信頼することです。
信頼してなかったら、自分の個性から批判したくなります。
批判するとは、相手を自分からつきはなして、距離を置いて観察することです。

 これでは同化は出来ません。
同化するというのは、相手を自分の意識の中に無批判で受け入れて、
自分の心身に染み込んでくるのを待つという作業ですから。

 だから必要なのは、創造主への信頼、イエスへの信頼です。
日本ではこれを信仰といっている。これはまずいですね。
そもそも信仰と訳している言葉の英語はfaithです。
beliefということもありますが、ほとんどの場合フェイスです。

 faithは、素直に訳したら、「信頼」でしょう。信じて頼ることです。これでなければいけない。
信仰となると、余計なものがくっついてきます。信じて「仰ぐ」んですから。

 「仰ぐ」というのは、やはり距離を置いて見上げている状態ですね。
人は、対象に距離を置いて対すると、同化しにくくなります。これは今述べましたね。

 さらに、仰いでいると、その対象に関して「恐れ」の感情も介入してくる危険があります。
こうなったら、もう同化は不可能です。


      @      @      @
 
 映画俳優を昔、スターといいました。今でも言いますかね。
 これは星のように高いところ、手の届かないところにあって、仰ぎ見る存在、という意味ですよね。

 そうやって仰いでいても、多少は同化できるかも知れませんが、やはり、限界があります。
だって、この状況では、「この人は私と違う」という意識が色濃く入ってきていますから。
そして、時とともに、若干のおそれの気持ちが介入してくる。

 スター作り、というのは、そういうイメージを作って大衆に植え付ける仕事です。
プロダクションや担当マネジャーは、裏でこれを懸命にやっているわけです。
その実体を見たら、人は興ざめでしょう。見ないが華。


      @      @      @

 ともあれだから、英語では、創造主、イエスへの思いをfaithといいます。
信じて頼れば、その対象に精神的に同化する度合いは、急上昇いたします。

<愛が究極の同化動因>

 さらに、同化作用を高めるのは、信頼した上で、愛する、ことです。
愛という心理作用は、自分と相手を同化させる、同化作用そのものです。
つまり、先生を信頼し愛することが、同化の決め手なのですね。

 だから、「旧約聖書の律法で、もっとも大切なことは?」と尋ねられたとき、イエスは

 「創造主(具体的にはイエス)を心から、全エネルギーをかけて愛すること」

 という主旨の答えを与えています。これが律法の目的を、完全に達成する奥義だったのですね。

      @      @      @

 要約します。
 律法に沿おうとすることによって、人は罪を犯さないようにある程度なることができます。
ところが、それは人間の心理構造からすると完全な方法ではない。
完全な方法は、イエスに同化することだ、こういう論理です。

 ああ、わかりやすい。簡単だなあ~。


<おまけ:言葉を心に留める>

 だからイエスはこうも言っています。

 「私が真理である」(ヨハネ伝、14章6節)

 では、そんなに決め手になる、イエスとの同化は、只、愛してればいいのかな。
ちょっと漠然としてるなあ。もう少し具体的にガイドしてほしいのだけど・・。

 それもイエスは教えています。

 「私の言葉が諸君の意識の中に留まること」(ヨハネ伝、15章7節)

         ーーーが、それです。
そうです。聖書に記録されているイエスの言葉が、心の内に留まっていく度合いが、
実際には、その人がイエスと同化していく度合いになるのです。

 要するに、日々、イエスの言葉を心に蓄積していけばいい。
信頼者(信仰者)のなすべきことの核心は、これです。


ーーーああ~、簡単だ。
 KINGDOM原理から解読すると、聖書の論理はなんと、簡単明瞭なることか・・・。

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3 コメント

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たいへんためになりました。 (こころの癒し)
2007-05-20 15:39:41
鹿嶋さんへ
この記事たいへんためにまりました。
こんないい記事は初めてです。
ご苦労様。またいい記事を期待しております。
こころの癒し
返信する
恵まれました。 (sabia)
2007-05-19 10:56:24
こういうことってあるものですね。読み返してしまいました。何を隠そう、私も『罪とは「的はずれ」だと考えると、わかりやすくなりま~す』などとのたまわっているクチでした! 

思うに、自分が関心を向けている方向とか、その問題を理解している深度に合った文章を読むと、よく理解できるし、血肉となる気がします。そうでないときは、読み飛ばしてしまって、何も意識に残らないようです。それでも、しばらく経ってから読み返してみて、今度は深く味わえるということがある。 

それゆえ、ブログをやられていた方が、突然、閉鎖されてしまったりすると、過去の記事、コメントも読めなくなって、唖然です(笑)。 更新をやめてもいいけど、閲覧できるように残してほしいものですね。
返信する
勉強になったなあ (鹿嶋春平太)
2007-05-19 10:08:19
読み返しました。
自分の書いたものと思えない。

このとき何か、霊感を受けていたのかなあ。
とにかく、勉強になりました。

よろしかったら牧師さんも、礼拝メッセージにどうぞお使い下さい。


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