(この回を抜かしてしまいました。遅ればせながら挿入します)
時代は、宋→元→明(みん)と飛び越えて清(しん)に至ります。
唐に続いて今の日本の政治に強く関わっているのは清王朝時代です。
清王朝は、漢民族でなく、満州民族による統治者でした。
18世紀にはモンゴル、チベットを含む一大帝国となりました。
<清王朝、翻弄される>
だが、19世紀以降の清王朝の中国は、近代化した西欧列強の食い物になっていきました。
英国はインドでアヘンを作って、中国に密輸しました。
アヘン中毒患者の急増に驚いた清王朝は、輸入を禁止します。
英国はそれを理由にアヘン戦争(1840-42)を起こしました。
(これがあまりに悪辣な政策なので、英国議会でも反対が多く、議決は僅差だったそうです)
英国軍は、近代的な兵器と軍隊技術を持っています。
清朝の軍隊は苦もなく敗戦、「南京条約」を結ばされました。
清朝は、没収したアヘン代金を含めた賠償金を支払わされ、香港を割譲させられました。
さらに広東、厦門、福州、寧波、上海の開港を認めさせられました。
翌43年には虎門寨追加条約で治外法権、最恵国待遇条項を承認させられ、
関税自主権の放棄もさせられました。
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するとポルトガルも1845年に「マカオ自由港」の成立を宣言して清の税関官吏を追い出し、
統治権を獲得しました。
1887年になるとタイパ島とコロアネ島も占領し正式に植民地にしてしまいました。
ポルトガルは、明の時代の1557年にすでにマカオに居留権を獲得していました。
フランシスコザビエルもこの居留地を拠点にして日本にやってきていました。
それを清朝時代に、植民地化したのです。
すると他の列強諸国も類似の条約を要求してきます。
王朝政府は断れなくてアメリカ、フランス、ドイツ、ロシアにも利権を与えるに至ります。
<中国の立場でみると>
この時代の中国は、沼にはまった牛がピラニアに食いちぎられていくかのような状態でした。
中国の立場に立ってみれば、日本も一歩遅れてピラニア集団に参加したと言っていいでしょう。
我々日本人は自国中心の観点から見ますから、そういうと「言い過ぎ」との評もでるでしょう。
だが、中国本体に焦点を当ててみれば、以後の日本もまた中国を食いちぎっていったという光景は否定できないのです。
儒教思想を心底に持つ中国は、自らを親とし、朝鮮と日本を我が子と認識してきました。
長安の都で文字(漢字)を寛大に学ばせたのも、親として与えるべき恩恵としてやってきました。
この視角からすると、以後の日本は親の恩を仇で返す風景でした。
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日本は列強仲間を追いかけるようにして中国をかじり取りはじめました。
現在日本では国益主義気風が高まりつつありまして、そういう見方は非難されそうですが、
中国の立場に立ってみたらそういうことです。
話は飛びますが、その中国の立場からの見方が1972年に毛沢東の言動に表れました。
この年、田中角栄(当時の日本首相)は大平外相を伴って日中国交回復条約のため北京に出向きました。
周恩来に伴われて毛主席に謁見した角栄さんらに、毛沢東は
「日本が漢字をもっていって(中国から!)ひらがなを考案したのはよくやったと褒め」ました。
だが、それは日本がそういう恩恵を受けてきていることへのやんわりとした指摘でもありました。
話を戻します。中国の立場に焦点を当ての話を続けますよ。
(国粋主義者のみなさん、ごめんなさい)
日本はまず、日清戦争(1894-)に勝利し、多額の賠償と領土を奪取しました。
これはピラニア軍団への参加宣言でもありました。
1932年には満州国を建国させ、自国の傀儡国家としてかじり取りました。
事実上の亡命状態にあった清朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀を皇帝につかせる
という方式でそれをおこないました。
「五族(日本族、漢族、朝鮮族、満州族、蒙古族)協和」の建国理念を掲げてやりましたが、
実質上日本が支配する領土に満州はなりました。
1937年には日中戦争を起こしました。
これは中国全土を我が支配下に置こうという夢の試みです。
日本軍は進軍しました。
中国人の立場からすればこれは、自分たちの住む村々、町々に他国の軍隊が力を誇示しつつなす進軍でした。
一般人民はこれを呆然とみるしかなかったでしょう。
だが、中には悲しみや怒りを抱いたものもいたでしょう。
その人たちは、抗日運動に腰を上げていきました。
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