~~鹿嶋春平太です。
前回、本来は蓋然論理(100パーセント未満の確率でもって言えるもの)であった知識が絶対法則(100パーセント妥当するというもの)の知識に転化してしまう傾向が、人間社会にはあるといいました。
絶対の法則になりますと、それは神秘的な彩りを持ってきます。すると、人は往々にしてそれに神秘的な根拠を付け加えるようです。
そもそも「鬼門」という名称がすでにそういう雰囲気を持っていますよね。鬼の門ですから。家の東北の方が気には、鬼がいる。その鬼が入ってくる門となる、という意味でしょうからね。
で、その鬼というのは、目に見えないし手で触ることも出来ないですよね。一般の人々が経験的に認知できる存在ではありません。いわば非経験の領域の存在でして、哲学者ポパー流に言えば、それが存在するといわれてもそれを「反証することが不可能」なものですね。見えないんだから証明も出来ないだけでなく、そんなものは存在しないということを経験的に証明することも出来ないわけです。
この点、風水の「気」とは決定的な違いがあります。気というのは、一般の人が感知できるものなのです。経験可能な範囲のものです。つまり、経験科学の認識対象に含めていいものなのですね。
<さらに絶対論理として展開する>
中国の風水ではどうだか知りませんが、日本では、鬼門に加えて裏鬼門ということも言われます。家の東北の角から対角線を引いた、その反対側の角です。つまり、南西の角、これを裏鬼門という。
そして、そこでは、炊事場とかトイレとか、汚い水が流れるような設備を設置してはならない、といいます。なぜかというと、そこにはカミサマがいるから、だそうです。そのカミサマにトイレの水とか、汚いものをかけるようになる。神様は必ず怒って不幸をもたらす、といいます。
鹿嶋の聞いたところですけどね。他の論理を述べる人もいるかもしれません。まあ、いるでしょうね。
いずれにせよ、こうなると、かつて蓋然的論理、経験的知恵であった方角論が、いつのまにか絶対の法則に化し、その上にさらなる絶対論理を造って乗せていることになりますね。これを「屋上屋を重ねる」といいます。
(続きます)
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