鹿嶋春平太です。
前回、風水の知識は人間が観察によって得た経験を一般化したものだと申しました。
こういう知恵は100パーセント当てはまる絶対的な法則にはなりえません。
同じようなことに関する経験でも、人間が経験出来る回数は限られています。
だから、この世でこれから起きることすべてに当てはまるということは言えないのですね。
たとえば、三角形を100個書きます。その各々の内角の大きさを測って合計します。
そうしたらみんな2直角、180度だったとします。
人間はそれから、「三角形の内角の和は180度である」という一般的な理屈を造ることが出来ます。
でも、それは、101個目も “必ず”そうなる、ということを確証できる理論ではありません。
言えるのは「たぶんそうなるだろう」ということだけです。102個目についても同じです。
根本的には、「概してそうなるだろうが、最終的にはやってみなければわからない」のです。
人間が観察から得た知識にはどこまでいってもそういう性格がつきまといます。
こう言うのを蓋然(慨然)性とか慨然論理とか申します。
「蓋」も「概」も「おおむね」と言う意味ですから、まあ「おおむねそういえるだろう」という理屈という意味です。
おおむね、つまり「確率」です。
まあ、70パーセントくらいはそううなるだろうから、止めといたほうがいいよ、というような知恵です。
中国で出来た「風水」の玄関の位置に関する理論もそうです。
「概してそうなりやすいですから鬼門(東北の方角)に玄関を作るのは避けなさいよ」という知恵です。
確率の意識をベースにした知恵なのであって、言ってみれば
「まあ、7~8割くらいはそういうことになりそうですから鬼門の玄関は避けなさいよ」というようなものです。
確率でも100パーセントではない。
100パーセントなら、絶対法則になります。
<絶対法則化の傾向が出る>
ところが、人間には100%当てはまる法則が欲しいという心理があるんですね。
絶対の真理が欲しいという。
誰しもこれへのあこがれもっておりますが、この気質がとてもつよい人がいる。
こういう人は最初は蓋然的な論理であった、そういう知恵を、絶対法則にしてしまおうとする。
蓋然的な論理、知恵を絶対法則に受け取ってしまう。
生来、絶対法則が好きなんですね。
そこで“人間の知恵も” ほとんど絶対法則として受け取ってしまう。
たとえば、玄関を鬼門(東北)の方角に作らないほうがいいよ、という知恵。
これを絶対法則に受け取りますと、「作ってはならない」となります。
どうして?~~と聞くと、その家には「必ず」不吉(不幸)が起きるから、となります。
必ずですから、100パーセントです。絶対法則です。
こういう人々の勢力が主流になることが人間社会にはよくあるのではないでしょうか。
いや、これは「よくある」といって程度をこえて、
人類社会にほとんど周期的に起きる出来事なようにも鹿嶋にはみえます。
(続きます)
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