ハワイのISさんより第3回SG用の吟味テーマをいただきました。
最初のコメントもいただきましたので以下に掲載いたします。
ISさん有り難うございました!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
若者よ。
創造主が地球を創り、表面を海と陸とに分け、植物、動物をつくったんだったね。
そこに人間を創った。人間には、これらを支配せよ、といった。産めよ増えよ、地に満ちよ、といった。
それから、ず~と時が流れた。そして今から6千年ほど前に、別の人間・アダムを創った。
このアダムの身体には、「いのちの霊」を入れた。そして彼のいる地、エデンを楽園に造った。
聖書のイメージ世界を、そこまで紹介し、前回は、霊のことを話したよね。
今回は、「いのちの霊」のうちの「いのち」を説明するよ。
「いのちと」いうのは、創造主から発射されているエネルギーだと思ったらいい。
創造主は、いのちエネルギーの源・総元締めだね。
エネルギーは波を打ってやってくるけどいのちエネルギーもそうだ。つまり、波動をもっている。
アダムの霊は、この「いのちエネルギー」を吸収し蓄積できるように造られたんだ。
このあたりは、充電式の乾電池をイメージしたらいいだろう。
乾電池って、内部に電気を蓄積しているよね。
そして、この電気を放電して、ウオークマンやパソコンを動かしたり、
最近は自動車まで動かすようになってきた。
でも、使っていると、だんだんと蓄積されていた電気の量が少なくなる。
けれども、充電式は、コンセントにつないでまた充電することができるよね。
「いのち」というのは、この電気のようにイメージしたらいいよ。
で「いのちの霊」は、この電気を内部に蓄積できる充電式乾電池だ。
「いのち」というエネルギーを蓄積すると、いいことあるか?
あるんだよね。
これが霊の内部にあると、創造主から発せられるいのちの「波動」がよく共鳴する。
すると、創造主の思いがよくキャッチできる。
また、自分のうちにあるいのちエネルギーの波動を発信して、創造主と交信することもできるんだ。
この発信が「祈り」だね。
アダムは、そういうことができる、特別な人間として造られたんだね。
では、それよりズ~と前に造られた人間はどうかというと、これにも霊はある。
だけど、この霊は、創造主の思いを受信したり、自分の思いを発信したり(これが祈ること)は、できない。
だって、「いのち」エネルギーがないんだから。
創造主と同じ種類のエネルギーをもってないから、その波形の波動を発信することはできないわけ。
人間同士でも、こういうこと多少はあるよね。
愛し合っているもの同士は以心伝心という。
お互いに言わなくてもある程度、波動でわかっちゃう。
波の形が同じ波動を発信してるんだろうね。
♪ むーごん(無言)、色っぽい ♪
~~なーんちゃってね。
人間だけでなく、動物にも霊はあるよ。
かわいがっていたペットが死ぬよね。
その後、そのペット(の霊)を見たという証言は、た~くさんあるよ。
こういうことを研究する科学も盛んだ。
で、こちらの霊も、身体が死ぬとそこから出るんだ。
正確に言うと、霊が出ると、身体は死ぬし、霊が戻るとまた生き返る。
生き物はそういう風になっている。
霊が出ると、肉体のなかの血液循環運動が停止する。
すると、肉体は、腐り始める。
そして、崩壊して消滅する。
腐ると言うことは、崩壊していくことなんだよね。
動物は、霊があっても、自分を造った創造主なんて全然意識にないよね。
その状態で、仲間うちで無邪気に生きている。
アダムの前に造られた人間も、そうだったんだ。
しかし、アダムは創造主の思い、創造主の意識に感応する。
ビンビン感応する。
そして、この人間の子孫が、現在の我々人類につながっている、と聖書は言うんだ。
さ~あ、どうやってつながってきていると、聖書は言うのか・・・・・。
最初のコメントもいただきましたので以下に掲載いたします。
ISさん有り難うございました!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
若者よ。
創造主が地球を創り、表面を海と陸とに分け、植物、動物をつくったんだったね。
そこに人間を創った。人間には、これらを支配せよ、といった。産めよ増えよ、地に満ちよ、といった。
それから、ず~と時が流れた。そして今から6千年ほど前に、別の人間・アダムを創った。
このアダムの身体には、「いのちの霊」を入れた。そして彼のいる地、エデンを楽園に造った。
聖書のイメージ世界を、そこまで紹介し、前回は、霊のことを話したよね。
今回は、「いのちの霊」のうちの「いのち」を説明するよ。
「いのちと」いうのは、創造主から発射されているエネルギーだと思ったらいい。
創造主は、いのちエネルギーの源・総元締めだね。
エネルギーは波を打ってやってくるけどいのちエネルギーもそうだ。つまり、波動をもっている。
アダムの霊は、この「いのちエネルギー」を吸収し蓄積できるように造られたんだ。
このあたりは、充電式の乾電池をイメージしたらいいだろう。
乾電池って、内部に電気を蓄積しているよね。
そして、この電気を放電して、ウオークマンやパソコンを動かしたり、
最近は自動車まで動かすようになってきた。
でも、使っていると、だんだんと蓄積されていた電気の量が少なくなる。
けれども、充電式は、コンセントにつないでまた充電することができるよね。
「いのち」というのは、この電気のようにイメージしたらいいよ。
で「いのちの霊」は、この電気を内部に蓄積できる充電式乾電池だ。
「いのち」というエネルギーを蓄積すると、いいことあるか?
あるんだよね。
これが霊の内部にあると、創造主から発せられるいのちの「波動」がよく共鳴する。
すると、創造主の思いがよくキャッチできる。
また、自分のうちにあるいのちエネルギーの波動を発信して、創造主と交信することもできるんだ。
この発信が「祈り」だね。
アダムは、そういうことができる、特別な人間として造られたんだね。
では、それよりズ~と前に造られた人間はどうかというと、これにも霊はある。
だけど、この霊は、創造主の思いを受信したり、自分の思いを発信したり(これが祈ること)は、できない。
だって、「いのち」エネルギーがないんだから。
創造主と同じ種類のエネルギーをもってないから、その波形の波動を発信することはできないわけ。
人間同士でも、こういうこと多少はあるよね。
愛し合っているもの同士は以心伝心という。
お互いに言わなくてもある程度、波動でわかっちゃう。
波の形が同じ波動を発信してるんだろうね。
♪ むーごん(無言)、色っぽい ♪
~~なーんちゃってね。
人間だけでなく、動物にも霊はあるよ。
かわいがっていたペットが死ぬよね。
その後、そのペット(の霊)を見たという証言は、た~くさんあるよ。
こういうことを研究する科学も盛んだ。
で、こちらの霊も、身体が死ぬとそこから出るんだ。
正確に言うと、霊が出ると、身体は死ぬし、霊が戻るとまた生き返る。
生き物はそういう風になっている。
霊が出ると、肉体のなかの血液循環運動が停止する。
すると、肉体は、腐り始める。
そして、崩壊して消滅する。
腐ると言うことは、崩壊していくことなんだよね。
動物は、霊があっても、自分を造った創造主なんて全然意識にないよね。
その状態で、仲間うちで無邪気に生きている。
アダムの前に造られた人間も、そうだったんだ。
しかし、アダムは創造主の思い、創造主の意識に感応する。
ビンビン感応する。
そして、この人間の子孫が、現在の我々人類につながっている、と聖書は言うんだ。
さ~あ、どうやってつながってきていると、聖書は言うのか・・・・・。
こんなに白熱した議論をしていたんだなあ。
よく考えておられますねぇ。
金持ちとラザロの話に関しては、皆様見解が異なる
ということを確認できました。
春平太は、それでいいと思っています。
こういう微妙な点では、特定の正解でないと
罰せられる、救われない、ということはないと
思っています。
それが聖句主義だと考えます。
ヨハネ福15:10 もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。
ヨハネ15:17 あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。
ルカ福16:31 もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。
金持ちは当然モーセと預言者との教えを知っていながら、ラザロに対して少しも憐れむ事をしなかったので、もしイエス様が教えを説いたとしても聞き入れなかったでしょう。ですからこの時点で、救いからもれることが決定したのだと思います。
ラザロはまだ救いからもれることが決定したわけではないのでニュートラルな状態であるパラダイスにいったのではないでしょうか。
この話から考えるに、クリスチャンであってもイエス様の戒め(互いに愛し合うこと)を守らなければ、救いからもれることを意味するのではないでしょうか。
マタイ福19:25 それでは、だれが救われることができるのでしょう。
マタイ福19:26 それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。
この26節は、だから天のみくにに入れるのは神様だけなのだよ、と解釈するのが自然ですが、それではイエス様が苦しみを受けて下さった説明がつかなくなります。
だからといって神様なら救うことができる、と解釈すると、互いに愛し合いなさい、という命令はおかしくなります。神様のお力によって自然に互いに愛し合うようになります、でなければ筋が通りません。
結局、救われるのはただただ神様の憐れみによる絶対他力によるものなのか、それとも人間の側の努力が必要なのかという論点がはっきりしない限り、確かなことは何も言えないということでしょうか。どう思われますか?
それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。 神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。 聖書はパロに、「わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである。」と言っています。 こういうわけで、神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです。
すると、あなたはこう言うでしょう。「それなのになぜ、神は人を責められるのですか。だれが神のご計画に逆らうことができましょう。」 しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。」と言えるでしょうか。 陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。 ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。
(へブル11:13)
これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
金持ちと貧乏人ラザロ([ルカ16:20)の話に関する
masaさんの解釈、まだ聞いてませんね。
是非聞かせてください。
ハデスに振り分けられた人はゲヘナしか選択肢がなかったような話だった気がしないでもありません。
記憶があやふやですみません。
是非、参考にさせてください。
天の御国とパラダイスを、またゲヘナとハデスをきちんと整理して考えたほうがいいかもしれませんね。
貧乏人の方ですが、わたしは、この貧乏人のようにひどい人生だった場合、世を恨み、金持ちをねたみ、神に背を向けるというのが普通ではないかという感覚です。
この貧乏人がその信仰によってアブラハムの元に連れていかれた、とは考えにくいです。
むしろ創造主の一方的な憐みによって死んでから慰められたという方がすっきりしますし、人情的にも納得できます。
そして、この元金持ちと元貧乏人は、それぞれ違う境遇で、最後の審判を待っているのではないでしょうか。
さて、私の解釈では、今も昔も救いは、律法を完全に守ったものか、救い主を受け入れた者のみが救われる、と考えています。
そして、旧約時代であろうが新約時代であろうが、アダム以降罪を犯さずに済む人間は一人もおらず、律法を守りきれた人間はただの一人もおりません。
となれば、旧約時代においても、救い主を受け入れた者が、救いを受けた、と考えます。
ですが、彼らは救い主をの到来には至っていないのです。ここに出てくる、アブラハムもモーセもダビデも救い主、イエス様を見てはいないし、その名前も知らない状態です。
しかし、彼らは律法と預言者によって、信仰によって、メシヤを信じていました。その信仰によって、救われたと考えます。
メシヤを待ち望む信仰によって、旧約時代の人間は救われたと思うのです。ですから、金持ちが悪人であったから「よみ」に降ったのでもなく、貧乏人が善人であわれな存在だったから「アブラハムの懐」に行けたのでもないと思います。
イエス・キリストの名前は知らなくとも、メシヤという存在が自分を救い出してくれるはずだという信仰によって救われたのだと考えます。
いかがでしょうか?
では、具体的な質問をします。
>ルカ 16:22「さて、この貧乏人は死んで、
御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。
金持ちも死んで葬られた。」
お三人とも、この話をどう理解されるのでしょうか?
貧乏人はどうしてアブラハムの懐にみ使いたちによって連れて行かれたのでしょうか?
金持ちは、どうしてハデス(火のあるところ)に
行かされたのでしょうか?
わたしと父とは一つである。」
25節から始まるこの箇所で言われた「一つ」は、一つのチームであるという意味に取れるのですがどうでしょうか。
ヨハネ福 14:28 「『わたしは去って行き、また、あなたがたのところに来る。』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。あなたがたは、もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです。」
この世に来られたイエス様は肉体という制限が課せられていたので、父なる創造主は自分より偉大だとおっしゃたのではないでしょうか。
>>>
救いの方に戻りますが、誰が救われて、誰は救われないか、ということはあまり考えない方がいいような気がしてきました。
ヨハネ14:6「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」
このみことばは自分が間違いなく救われたのだということを確信させてくれます。
また、どうしたら救われるかということをはっきりと伝えることができます。
同時に、「わたしを通してでなければ」と言っていますが、わたしに救いを求めなければ、とは言っていません。
「わたし」の方から手を差し伸べることはない、とは書いていません。
あくまでも、すべての人が救われることを願う、ことがわたしたちの為すべきことであり、イエス様に従うことではないでしょうか。
さて、父なる神が、御子なるイエスを内包すると言う考えは、私の中ではありません。
もちろん、「三位一体」を完全に言葉で表現できる者などいないのかもしれません。
ただ、役割の違いが、父と子と聖霊で、あるのだと理解しています。
さてさて、話は少し戻りますが…
主が「あわれみ深い」こと自体を否定するものではありませんが、人間的に見て、「こんな人がどうして救われないことが有り得ようか?」と、いくら人が思っても、主の主権として、結果的には、救われない人がいるのではないのかと思うのです。
どうして、私は救われたのに、あの人は救われないのか?それは、私にはわかりません。
どうして、人生でそれほど苦しんだこともないのに主を受け入れ、いのちを得た人もいるのに、何の喜びも味わうこともなく、苦しみだけの人生で終わってしまう人がいるのか?
全く持ってこの世は不条理極まりないと思います。
けれども、それを持って、「主はあわれみがない」ということの証明にはならないでしょう。けれども、春平太さんがおっしゃるように、不条理な境遇のまま死を迎えた人が「パラダイスにいる」かどうかは微妙だな、と私は考えてしまうのです。
もちろん、人間的には、私も「そうあってほしい」と強く思います。
「裁きは、主のもの」ですから、「主にゆだねる」としか言いようが無いかもしれません。
同じ話の蒸し返しになるのかもしれませんけれども…。
それぞれが、聖書を通じて、主とまじわり、確信を与えられるように祈るべきなのでしょうね。
そうだとすると不可分という点で「一つ」を満たしますし、
内包するほうが「偉大」も満たします。
~このあたりの論理は春平太には抽象的すぎてよくわかりません。
ついて行けない、というか。
他の方々はどうお考えなんでしょうね。
ちなみに万物(人間を含む)が、父なる神様の一部であると思います。もし神様の一部でないものが存在するならば、それが存在する空間において神様を制限することになってしまい、神様が無限者でなくなってしまうからです。
どう思われますか?
だが、それがあることが、すなわち「あわれみ」の存在を
否定できることには繋がらないのでは?
イエスの言葉にも、
表面的な論理の上では整合しないことありますよ。
「父と私は一つです」という一方で、
「父は私より偉大」といっています。
これをmasaさんは、どう解されますか?
masaさんはどう思われますか?
ヨハネ14:6「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」
橋の欄干から川に落とされた。
たしか東北の方の事件でした。
この少女は、普段にもカップラーメンしか食べさせてもらえず、
そのためのお湯を近所にもらいにいっていた、とも報道されてました。
苦しむためにこの世に生まれてきたような少女でした。
けれども、この少女は川に落とされて息を引き取った瞬間、
川面で待っていた天使たちによってパラダイスに
連れて行かれたと春平太は思っています。
福音を聞く機会も、受容する機会もない少女でしたが、
創造主は哀れんでパラダイスに入れたにちがいないと
当時確信したことを思い出しました。
なるほど、創造主のあわれみに焦点が当たっていますね。
いのちを受けるための条件にばかり目が向いてしまいました。
ともすれば自分がいのちを受けたことに優越感を持ってしまい、受けていない人を裁く気持ちになってしまいます。
イエス様が来られた目的とは反対ですね。
この辺のバランス感覚は実はなかなか難しいものかもしれません。
スモールグループではチェック機能が働くという点がありがたいです。
創造主には「あわれみ」がありますから
それにも信頼していいのではとも思います。
イエスが語る、金持ちとラザロの例に
鹿嶋はそれを見ます。
「霊」は「肉体」とつながっているので、「肉体」をコントロールすることが「霊」の領域にも作用します。
頭の中で自分の「霊」がイエス様にフォーカスするイメージを持てば、「霊」はそのように働くのではないでしょうか。
聖書を読み、吟味し、暗記し、深く祈ることで「霊」が創造主の「霊」につながります。
逆に、「肉体」によって「霊」が制御されてしまっているという言い方もできると思います。
知的障害の方はこの制限がないので「霊」がもっと自由な状態にある。
それがどういうふうにコントロールできるのかということは分かりません。「脳」で理解できることとは違うんだと思います。
私たちが知的障害の方にイエス様を伝えるのはやはり肉体を通して、ということになると思います。
そこに「霊」の働きが伴うのですから、受ける側の「霊」が理解するはずです。
知的障害の子供が天使のようだ、と言われたりしますが、ほんとにそういうことなのかもしれませんね。
>知的障害や認知症の方のほうがストレートに霊の交信を行えているのではないか、
~~それは心霊科学的にも
間違いなさそうですよ。
zeroさんありがとうございます。
私もzeroさんに賛成で、イエス様の「いのち」が与えられると思います。
「いのち」が与えられるのは根本的には「霊」に対してと理解しています。
「霊」は脳のことではないし、脳で行われる思考でもないと思います。
人が生きている限りそれは「霊」が存在している証拠です。
言葉によって理解できないとしても、「霊」と「霊」のつながりによってイエス様の「いのち」は伝わるのではないでしょうか。
昨日ですが、心と体で「聖霊」を強く感じたのです。それと同時にどうしようもないもどかしさを感じました。
なんというか不純物がまとわり付いていて手足を伸ばしきれないような感じでした。
これは、仕事に集中しなくてはいけないという気持ちだったり、家族のことだったり、今欲しいと思っている物欲のせいだったり、きっとそういう世の中につながっていることだと思うのです。
知的障害や認知症の方のほうがストレートに霊の交信を行えているのではないか、などと考えてしまいました。
簡単に消去できますから、
こういうことあまり気にしないで
気楽に投稿してくださいね。
どちらか消去していただけますか?
祝福のお言葉ありがとうございます。
人生の先輩方が通られた道を、私も体験し、
味わい、楽しみ、学ぶことになるのだろうと思います。
精一杯、主から預かった二人の子供を愛し、教え、見守りたいと思います。
さて、人間の霊がいつ肉体に宿るか?
というテーマですが、非常に興味深いですね。
詩篇辺りには、胎児に関するみことばがかなり多く出ていたような記憶ですが、もう一度、フォーカスしてみことばを散策するのは意義深いと思います。
パソコンで、「胎」と言う文字で一度聖書を検索してみたり、してみます。
それから、私には、中~重度の自閉症を持った姪がいます。彼女自身はことばを理解できないわけではないのですが、おそらく聖書を読んだり、落ち着いて人の話を聞くことはこれからも困難であると思われます。
そんな姪や、知的障害を持った人たち、認知症の老人等の救いとは、どのようにして与えられるのだろうか?という疑問が私には少なからずあります。
「いのち」の分与は、人がするものではないのでしょうが、種を蒔くのは目に見える形では人です。
人はどの土壌に「いのち」が根付くかはわかりっこないのですが、人である以上、知的な障害があろうとなかろうと「いのち」が与えられると信じます。
また、これらのことについても様々なコメントが交わされればいいな、と思っております。
やってみます。
ご苦労様でした。
やってみないと知り得ないことを
たくさん学ぶことが出来ました。
やってみた価値は大きかったです。
身近な話題にしたくて、ワインをテーマにコメントしてみました。
テーマを探すのはなかなか難しいですね。おかげさまでいろいろなエントリーを読むことができますが、内容が濃いのでなかなか理解が追いつかないですし、お説ごもっともでコメントしようがないということばかりです。
気負わずぼちぼちやっていければと思いますが。
先生のエントリーにかかわらず、聖書から感じたことや疑問、または体験したことや悩みなどをコメントに書いて、そこから先生にテーマとしてエントリーを立てていただくような、参加者のための受け皿はできないでしょうか。
私が立てたテーマばかりではつまらなくなると思いますし。
コメントはなくても先生のチャーチにアクセスしている方は結構いらっしゃると思うのです。
ご検討ください。
IS
これに平行してもう一本
テーマをたててみてくれませんか?
いろいろあった方が、
知性が躍動しやすいかもしれません。
お子様のお誕生おめでとうございます。
豊かな祝福がありますように、お祈り申し上げます。
ところで、人間の霊はいつ肉体に宿るのでしょうか?
まだ何も調べていないのですが、いろいろな説がありそうですね。
聖書には何か書いてあったでしょうか。
おめでとうございます。
今回は、ほんとにウサギマークですね。
まだ、しばらくは忙しいのですが、また落ちついたら参加させていただきます。
いのちのエネルギーを感じました。
私の最初のコメントで生物として生きていることの「いのち」と創造主とつながるエネルギーの「いのち」が混同したようになってしまいました。
アダムに吹き込まれて、現在の人間に不完全ながら引き継がれている「いのちの霊」にフォーカスして考えていこうと思います。
アダムのせいで人類は創造主から離れてしまっている。しかし、創造主ともあろう方がそんな中途半端な仕事をしていいのか、と考えてしまいそうです。でも、実はこれが御意なんだと思います。
人間は創造主につながることを選ぶことができる。それが創造主のデザインだと思うのです。
天使を完全に従順なものとして作ったが、その意思が背くことによって悪魔に変質してしまった。
人間はそれとは逆のアプローチで、人間が自ら創造主につながることを決断することによって、その存在がはるかに「高価で尊い」(イザヤ43:4)ものとなる。
そして創造主とつながることによって人間の霊は完全になる。鹿嶋先生のたとえを使えば、充電池が充電可能な状態になるということです。
人間の霊はみんな、何かを探しています。苦しんでいます。それは霊が完全ではないからでしょう。
そしてそのことに感づいている霊的な人たちも大勢います。だからいろんなスピリチャルなことがもてはやされる。創造主につながりたい、山に登るんだ、自分は正しいんだ、と思ってしまうんでしょう。
でも違うんです。
霊を在るべき姿にしてくれるのは「いのちのことば」だけなのです。
「いのちのことば」=イエスキリスト
若者よ、イエスを知れ!
この「若者よ聖書を知れ!」というシリーズは、
「薬物中毒になって苦しんでいる若者が、日本に200万人もいる」
と知って衝撃を受けて書き始めたものでした。
+++
船に羅針盤がいるように、人生にも進むべき方向を示すものが要ります。
人生の羅針盤を全く与えられていないのが日本の若者です。
刹那の薬物にふいっと惹かれて経験したら、それで終われなくなった。
中毒になった。
悲しい姿です。
聖書は格好の人生の羅針盤を与えてくれる書物です。
これを知れば、ふらふらとさまよう人生を送らなくてすむようになる。
それで、とにかく、若者に語りかけようとしたのが、このシリーズでした。
+++
初心者の若者相手ですから、「いのち」についても、
あたかも当然のことのように書いていますが、
実際には思案の結果たどり着いた仮説的解釈でした。
聖書には「いのち」という言葉が再三出てきます。
けれども、その意味が春平太にはわからなかったのです。
それは[生きていること」を示す形容詞に使うだけのもの、
という印象で人生を生きてきました。
生きていることを「いのちある」といい、死んでいることを「いのちがない」というようにして・・・。
でも、どうもそれでは聖書の意味がはっきりしない。
あるとき、「いのち」というのはそれ自体で
ひとつの実体を指しているのではないか、という考えが浮かびました。
それは物理学で言うエネルギーのような概念ではないか。
そしてそれは創造主から放射されていて、
人間の霊はそれを吸収して元気になるのではないか。
すると「いのち」は電気のようなエネルギーで、
人間の霊はそれで充電される乾電池のようなものに喩えられないか。
~そういう風にイメージしたら、聖句解釈に
わりあいすんなりと筋が通ってきたのでした。
+++
で、その仮説でもってこれまでの本を書きました。
しばらくして、日本の牧師さんたちの間で、
「いのちをエネルギーとして理解させたのは鹿嶋春平太の業績」
といわれている、と知らされました。
そんなことどうでもいいのですが、とにかく、この解釈でこれまでのところ、
聖句がすっきりと把握されてきております。
なつかしいあの頃を思い出しました。
ISさん、ありがとうございました。
2009-02-01 14:51:11
ISです。
今回のテーマとして、「いのち」について学びたいと思います。
みなさまよろしくお願いします。
創世 2:7 「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り
、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。
そこで、人は、生きものとなった。 」
この「いのち」=「霊」と理解しています。
私たち人間はみんな、創造主によって与えられた「いのち」を持っている。
この「いのち」=「霊」は肉体を通して顕在化する。
体中がタトゥーやピアスで埋まっている若者は「霊」が
苦しんでいるのかな、と思いました。
日本では自分の体を刃物で傷つけることが習慣化してしまう若者が
多いそうですね。つらいことです。
最近はスピリチュアルがブームになっていますね。
私の知り合いにも興味を持っている人が複数います。
ハワイは特にスピリチュアルな土地だそうで、ヒーリングとかよく聞きますし、
そのためにわざわざハワイに来る方も多いようです。
「霊」の世界に惹かれるということは、
みんなが「霊」を持っていることの証明かもしれません。
こういうスピリチュアルな方の話を聞くと、
全知全能の存在や創造主を信じていることが多いです。
でも、それがキリスト教でなくてはならない、ということは理解できない。
山を登るルートはたくさんあって結局は頂点に到達するように、
信じるものは一つでなくてはならないはずはない、と考えるそうです。
なるほど、分かりやすくて説得力があります。
なんとかイエスキリストのことを分かって欲しいと思いましたが、
どう説得したものかわかりません。
この聖句が心に浮かびました。
1コリント 1:21
「事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。
それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、
信じる者を救おうと定められたのです。 」
自分が愚か者と思われることを恐れないで直接的に話すことだと思うのですが、
実行するのはなかなか勇気が要ることです。