鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.114『師を信頼して教えに留まるのが弟子』(8章)

2006年01月05日 | ヨハネ伝解読



~~正月のお祝い日はすでに遠くなり、また2006年度「紅白歌合戦」が一日一日と近づいてきております。

 これまで鹿嶋は聖書の大原則として~~、

「創り主は人間がこの世においても仕合わせであることを願っておられる」
「創り主は人間がいつもジョイフル(喜びに満ちている)であることを望んでおられる」

~~を示してきました。

 すると、こういう疑問を呈する方もおられるとおもいます。創り主が「人間をジョイフルであれかし」と望んでいることと、この「ヨハネ伝」とはどういう関係になっているのか、と。


                                     


 う~ん、これは結構難問でしてね。それにはヨハネがこの福音書を何のために書いているか、から考えていかねばなりません。

 ヨハネがこれを書いている際の強い目的の一つは「イエスがどんな方であるかを深く知らせる」ということです。

 で、イエスを深く知るとどうなるかといいますと「イエスが創り主の子であるということへの確信が深まる」ようになります。

 もしそうなればイエスの教え、イエスの言葉への信頼が圧倒的に増しますよね。そしてそのイエスの教えの中に「人間は永続する」というのがあります。この教えにも深い確信が持てることになります。

+++

 「人間は永続する」という確信とは裏から言えば「人間は肉体が死んでオシマイでない」という確信です。そして実は、この確信こそが人間がジョイフルでいられるための根底基盤なのです。

 わたしたちは肉体しか目で見ることが出来ません。ですから、上記の言葉への確信がないと、私たちは自然に「死んでオシマイだろうなあ」という考えを持って行くようになります。

                     

 考えてみれば、人の肉体は100年もすれば死んで腐って崩れて消滅するのです。そして、もしそれで「オシマイ」だったら、今の自分の存在自体も詰まるところは無意味です。だって、いずれ消滅して無になってしまうんですから。

 虚無です。空虚で、空です。そしてそうである限り、人間の心では、その基底からジョイを相殺するエネルギーが常時生じていることになります。顕在意識でがんばりはするんですけどね、これには結局負けるのです。

 これが問題の根っこです。このもとを絶たねば、問題は最終的な解決にならないのです。

「人間死んでおしまいでない」というイエスの言葉への信頼感は、イエスがどんな方かをヨハネが記録していることから深く知ったら深まります。それへの確信がもてたら、問題のもとが絶たれる。

 そうしたら心の奥底から障害物のないジョイがわいてきます。

 では、そのジョイフルでいられる基礎を人の心に形成する「ヨハネ伝」を、今日も探っていきましょう。本日の聖句はこれです~~


                     


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「諸君が私(イエス)の教えに留まっているならば、諸君は実際上わたしの弟子です」(8章31節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 「教えが今は理解できなくても、将来わかる」と言われたら、それについては信じた人々にイエスはこう言います。

「諸君がわたしの言葉(教え)のなかに留まるなら、まことにわたしの弟子となる」(31節)。


                     


 ヨハネがあまた記憶している中で、わざわざ選んで書きとどめたこの御言葉は、弟子というものの本質を的確に示しています。

 これはこういうことを言っています。
 「今この方の言葉には理解できないところがある。けれども、そこには貴重なものがあることを自分は確信している。だから、意識をその言葉のうちに留めるのだ。自分はその言葉のうちに住むのだ」、これが「弟子なのだ」と。

 だから弟子はそれが理解できるようになることを期待し、信頼し学ぼうとする。そこで師匠から出る「次の」言葉を待ってついていくのです。


                     


 本日の聖句解読は以上です。
 でも、ここで少し先走った余談としておきますね。

 では、師の言葉の意味がわかってしまったら弟子ではなくなるの? 

 そうです。イエスの定義からすれば、もはや弟子ではありません。弟子卒業です。

 ではそうしたら次はどうなるべきか?
 イエスはそれについても的確に教えています。

 「・・・わたしの言葉があなた方のうちにとどまっていたら・・・」と(15章7節)。

 この言葉の説明は、15章に入ってから試みましょう。いまは、この言葉が12使徒たちだけに語られたものであることのみを心に留めておきましょう。これは、十字架刑を直前にした、いわゆる「最後の晩餐」でイエスが12人だけに語る言葉なのです。

 つまり、このあたりはそれほど奥義なのですね。それがいかに重大な意味を込めているかは、その後に続くイエスの言葉が示唆しています。

 「・・・(わたしの言葉がとどまっていたら)、なんでも望むものを祈り求めなさい。それは与えられます」(15章7節)。

 現段階ではその構造はよくわからないにしても、「イエスの言葉がうちにとどまる」というのは、「祈りが聞きとどけられ、応えられる」条件になっていることは、わかるでしょう。

 これは重大なことですよ。だって、祈りが聞き届けられ、答えられなかったら、福音なんてやり続けておられないですから。でもこのあたりは、15章でもって明かされるでしょう。


                     


 さらに枝葉の余談です。

 イエスのこういう言葉は、取材ではなかなか引っかかってこないでしょうね。
 ということは、ヨハネ以外の福音書では、こういうことまで伝えることは出来ない、ということです。それらは取材情報をもとにかかれていますから。

 ところが「ヨハネ伝」だけはそうではない。
 春平太は、イエスにぴったり付き従った側近のヨハネが、イエスの言葉を書き残してくれていたことに、万感の感謝を禁じ得ません。この福音書が残されてなかったら、私は福音に飽きていただろうなあ・・・と。

 もちろん聖書的には、ヨハネに書き残させたのは究極には聖霊の働きだということになりましょうけれど。ヨハネが選ばれただけにすぎないことになりましょうけれど。

こういうとことで、ついつい人間的になってしまう春平太なのであります。
 もし、ヨハネという人がこれを書く前に、病死したり殉教していたりしたら、どうなっただろうか・・と。

 それだったら創主は他の誰かを選ぶだけのことであります。それが聖書思想の鉄則です。わかってはいるのですけれどね・・・。

次回には、本筋に戻りましょう。


                     



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Vol.113『はじめは半信半疑でいいのが聖書信仰』(8章)

2006年01月04日 | ヨハネ伝解読
~~2006年の正月のお祝い日も、終わりに近づいていますね。


~~昨日「いつも心が喜びに満ちた状態でいなさい」というのが聖書のもう一つの大原則だ、といいましたが、言葉足らずのところがありました。すこし追加しておきましょう。


                     


 この聖句に続いて~~、

 「なぜなら、これはキリストイエスのなかにある皆さんへの創り主の意志だからです」(テサロニケ人の第一の手紙、5章18節)

        ~~とあります。これを書いたのは使徒パウロと彼の愛弟子テモテだと聖書には記されています。が、彼らは聖霊の導きで書いたということですので、「喜びに満ちた状態でいなさい」というのは、創り主の望むことだ、となるでしょう。

 「いつも心が喜びで満ちた状態でいる」というのは、利己的なだけのことではないんですね。創り主は、人間がそうであることを望んでおられる。それが聖書の鉄則なんですね。


                     


 実は、この創り主が望まれるところは、他にも二つ並列されています。

 「絶え間なく祈りなさい」(5章17節)
 「すべてにおいて感謝を捧げなさい(Give thanks)」(5章18節)

~~がそれです。

これを字面(じづら)どおり並列的に受けとったら、なんだかよくわからなくなります。三つとも常にせねばならないとなれば、喜びつつ、祈りつつ、同時に感謝ていしなければなりません。複雑ですね。出来たとしても忙しいですよね。

 これらは、やはり、構造的、立体的に理解すべきでしょう。

 「祈り」は創り主との交信です。

 これをするとキリストイエスにある者の心には喜びが満ちます。

 「感謝」の心を持っても同様です。
 人の心には喜びがわきます。


                     


 ここでの「喜び」「祈り」「感謝」の関係は、相互に独立ではない。並列的でもない。
「祈り」と「感謝」が心が「喜び」で満ちるための原因になっているように見えます。

 やはりここでの焦点は「常に心が喜びで満ちていること」にあるようです。祈り、感謝をすることによって、喜びに満ちていることが、創り主はこの世での人間に求められている。これがもう一つの鉄則であるようにみえます。

 ~~であるとすれば、ですね。ヨハネもまた、そのことをよく承知しているわけです。彼は後世の人々が“この世では”(死後には永遠の仕合わせを得るためですが)この喜びで常に満ちているようになることを願って、この「ヨハネ伝」を書いていることになります。

 著者のそうした根本動機を感じながら,今日も「ヨハネ伝解読」を続けていきましょう。


                     


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「諸君が人の子(イエス)を(十字架に)上げてしまった後になってはじめて、私(イエス)が“ありてあるもの”であることと、そして、私が自分の権威ではなにもしないで、ただ父が教えてくださったことのみを語っていることとを、諸君は知るでしょう」(8章28節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 “ありてあるもの”というのは、旧約聖書に出てくる言葉で、創り主を指しています。

 また、イエスが「私は父なる創造主と一つだ」という場合一つというのは、「思い」が一つということです。

 思いが一つというのは、各々が勝手に自分の考えを展開していたのでは、成り立ちませんよね。イエスは「父は真理を述べる方であり、自分はその父の語ることを聞いてそのまま語っている」といいます。

 そして理由は「父は自分より偉大だから」という。だから自分の方が耳を傾け、聞くままを語っているのだ、とイエスは告白しています。

                     

 この場面についてヨハネはこう記しています。

 「イエスが父なる創主について語っているここのところは、彼らはどうしても理解できなかった」と(27節)。

 当時のユダヤ人はどうしても、「創主は創主として独立に」理解したかったのですね。自然なことです。ユダヤ教は旧約聖書だけを教典にしていますから。

 「父、子、聖霊が三位一体」という神学の考え方は、新約聖書でイエスの教えが広く伝えられた上で出来上がる理念なのですね。


                     


 だからでしょうか、ここではイエスは、聴衆を叱らないんですね。むしろ人々が理解できないことを認めてあげています。それが本日の聖句です。諸君は「将来わかるようになるんだよ」と優しく言っています。

 「諸君がわたしを上にあげてしまった後で、わたしが何者であったのか、わかるようになるんだよ」(8章28節)

「わたしが父の教えてくださるままに語っていたということも、わかるようにもなるんだよ」(8章28節)。


                     


~~~そしてヨハネは記しています。

 「すると多くの人々はイエスの言葉を信じた」(8章28節)

なんとも意味深いところですねえ・・。

 イエスが創造主について語るところは、どうしても今は納得できない。納得できるようにイメージできない。けれども「将来わかるようになるんだよ」という「イエスの」言葉は信じられたというのです。

 ここのところは、「教え」というもの対する信頼(信仰)の、心理ステップを暗示しているように、春平太には感じられます。教えを聞いて、その中身を納得できるようにイメージするのは、通常そう容易なことではありません。そこでまずは「それを語っている人については」信頼する。

 イエスは信用できたのです。これはもう、彼の言動を見ていたら安心できた。信じた人々は、なにはともかく、イエスが好きだったのです。この方を愛していた。だから「いま中身がわからなくても、将来わかるようになるよ」と言われたら、その彼の言葉は受け入れたのです。
 

                     

 またこの箇所で春平太は、ある尊敬する牧者の次のような言葉を思い出します。

 「信仰ははじめは半信半疑でいいのです。それでも、意識にとどめていると、後は創主が時を見て真理だと悟らせてくださいます。聖書信仰というのは、そういうものなのです」と。

 考えてみれば、そうですよね。聖書には特に、論理がありますから。理屈もなくただ拝めという宗教とは違いますから。はじめは半信半疑であるのが正解なんですね。ここでも確率思考が正解。目を開かれた言葉でした。


                     


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Vol.112『創主の子を前提にどんどん語る』(8章)

2006年01月03日 | ヨハネ伝解読

~~正月三日になりました。
 お正月ですから、心に保つべき聖書の大原則をもう一つ示しましょう。

                    


 先に「創り主は人間を、死後においても今の世の生活でも仕合わせにしようとして言動している」という原則を述べましたね。原則ですからこれに反する解読は、本筋からずれた解読だということになりますよね。そういう手引きにもなる便利なものが大原則。今日はもう一つ。

 「いつも心が喜びに満ちた状態でいなさい」(テサロニケ人への第一の手紙、5章16節)

~~です。


                


 これ、日本語の聖書ではほとんど「いつも喜んでいなさい」と訳しています。だけどもっと本質を突いた訳は、「喜んでいなさい」というよりむしろ「心が喜びに満ちた状態でいなさい(Be joyful)」ではないかと鹿嶋は思っています。


                    


 キリスト教といえば「愛」ですよね。イエスの言葉にも「(創り主を愛する次に)隣人を愛しなさい」という命令があります。だけどこの「愛」というのはとても広い概念です。色々な状況に当てはまる。

 だが、その状況の中で「喜びに満ちた状態でいなさい」とバッティングすることがある。そんなときに「愛」よりも優先すべき大原則がこれです。


                    


 不幸な目にあって心がうちひしがれ、ねじけて暗くなってしまっている人に出会うことがあります。彼または彼女が話を聞いてくれ、と願ったとします。耳を傾け同情していると、相手の心は軽くなっていきます。 

 だけど、聞いてるこっちの心は重く暗くなっていきます。同情するというのは、自分の心を相手に寄り添わせて、相手の思いに自分の思いの共鳴箱が共鳴させるということです。ですから、自分の心の中にも重い、暗い、時にはねじけた思いも出来ていきます。

 すると自分のなかの喜びが少なくなっていきます。すこし少なくなるだけならいいけど、それがどんどんすすんで暗さ、重さ、ねじけ、が優先するようになることもあります。その時どうするか?

 そういうときには、その愛の行為は止めなさい~~~これが聖書の原則です。そして自分の中に喜びがある状態を保ちなさい。そうなります。

                            

 だって、「いつも」喜びに満ちた状態でいなさい、というんですから。こちらが優先すべき大原則になります。
 
 そして、喜びに満ちた状態で相手に接し、それによって相手が自分の力で立ち直ってくるのを助け、待つのですね。聖書では、これが「真の愛」という思想といってもいいかもしれません。

 とにかく、自分の心の中に喜びを充たしていることです。聖書も、その喜びを充電するように解読すべきです。では、本日の場所に行きましょう。


                    



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 =聖句=
 「諸君は下にあるこの世に属するものだが、私は上にある天から来たものなのだ」(8章23節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 前回、「まだ時が来ていないので誰もイエスをとらえなかった」、と聖句にありました。そういうことになっておりますので、イエスは、自分が創主の子であるという前提で、どんどん語り続けます。「わたしは去っていく。諸君はわたしの行くところに来ることは出来ない」(21節)。

 これは、「近々、この世を去って父なる創主の王国である天国に行く」といっているわけです。そういうことを、現代の我々は新約聖書という書物がありますので、推察することが出来ます。書物の他の箇所とつなげて、そういうことをいっているはずだ、と論理づけることが出来るのです。

 ところが、当時そんな書物はありません。彼らの中にあるイエスの教えは、話を聞いた記憶の中に残っている部分だけです。だから、常識的にしか解釈できない。「彼は、自殺するといってるのか?」となる(22節)。当然ですよね。


                    

 イエスは、かまわず先に行きます。「諸君は下(地上、この世)から出たものだけれど、わたしは上(天国)から来たものなんだよ」つまり、「諸君はこの世の存在だけれども、わたしはこの世のものではないんだ(創主からでた創主の子なんだ)」と(23節)。

 加えて「諸君がこの世だけのものであり続ける限り、つまり天のものとつながらなかったら罪のうちに死ぬことになるんだ」そして「天につながるとは、わたしが天から来た存在であることを肯定的に受け入れることなのだ」という意味の言葉をたたみかけます(24節)


                    


 イエスが天から来た存在だということすら理解しがたいのに、さらに、罪という概念まで加わってくる。もう、さっぱりわからな~い。そこでユダヤ人たちは、原点に戻ろうとします。「あなたはそもそも、どういう方なんですか?」(25節)。

 「どういう方って? それはもう最初からいってるではないか」とイエスは答えます(35節)。「わたしは創主の子で、父なる創主と一つなんだ」と。

 だが、イエスはここでは次のような側面からそれを言います。「わたしは父から聞いたままを世で語っているんだよ」と(26節)。


                    


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Vol.111『創り主はイエスを通して知りうる』(8章)

2006年01月02日 | ヨハネ伝解読


~~正月二日になりました。
 「ヨハネ伝解読」もうすこし続けましょう。


                    


 先だって、鹿嶋は聖書への信頼の内容を次のように説明させていただきました。

 その一つは「聖書は創り主から人間へのメッセージを霊感の豊かな人(預言者)が受信して記録したもの」ということへの信頼感。

 もう一つは、「そのメッセージは死後だけでなく、今のこの世においても人間が幸せになることを願ってのメッセージである」ことへの信頼感でした。

 この「ヨハネ伝」も聖書メッセージの中の一つです。だからヨハネの記述したこの話にも、上記のことへの信頼感がベースになっております。

 イエスにぴったりと付き添った弟子のヨハネは、この信頼感を確信あるものにするには、イエスという方をよ~く知るのが鍵だとして、イエスが言ったこと、行ったことを書き残したのですね。

 ですから、私たちはこの伝記を、ヨハネのそういうスタンスを受け入れて読む必要があります。なにやら七面倒くさい、細かいイエスの言動が記録されていますが、その聖句もそういう基本スタンスをわかりつつ読むと、読むほどに創り主の「人間を幸せにしよう」という意図への信頼は、深まっていくでしょう。


                    


 「この世界には創り主がいそうで、人間のこの世の生活を幸せにしようという意図がありそうだ」というようなことは、別に、聖書など読まない人でもいえそうなことです。実際そういう教えをしている宗教家、道徳家もたくさんおられます。経営者にもおられます。その考え方は、聖書の基本スタンスと一致しています。

 なのにいまさら聖書を読む必要があるでしょうか? 「必要」はといえば、それはありません。

 ただ、上記のような認識は「漠然とした」認識です。そういう認識ですと、創り主の存在や、その意図に対する信頼感はなかなか安定的なものに成りがたいです。人間はそもそも「見えないもの」に関する話にたいして、確率感の高い信頼感が持ちにくいものなのです。

                    


イエスの伝記は、いろいろ詳細な話を含んでいますが、それによって漠然とした信頼感を、だんだんと確信の度合いをふかめてくれます。聖書はそういう力を持った独特な書物なのです。今日までの所では、聖書文化圏は世界で最大で、人口の33%を占めています。

 七面倒くさい、細部に関する言葉が多いのですが、今日もまた、「ヨハネ伝解読」8章をやってみましょう。


                    



 本日の聖句は・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「もし諸君が私(イエス)を知れば、私の父をも知るでしょう」(8章19節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

   ・・・です。


 「わたしについて証言する一人の方は、父なる創主だ」、とイエスがいえば、パリサイ派(ユダヤ教徒の一派)の人々の質問は、「その父とはどなたですか?」ということになるでしょう。彼らはそれを「あなたの父はどこにいるのか?」という形で質問しています(19節)。

 イエスはこれに対して、先回りした解答をします。「諸君がもしわたしを知っていたら、父をも知っているだろう」と(19節)。これは、「わたしを知ってのみ父を知りうるのだ」ということを意味しています。

 別の言い方をすると、「わたしが父を具現するものなのだ」ということですね。人間は創り主を目で見ることが出来ません。だから、「創り主がいる」と思っても、その思いは漠然としたものに留まるのです。

 でも、それをもっと具体的に知る方法がある。それが「私イエス)を知ることだ」とここでイエスは自ら言っているわけです。


                    


 「そんな奇想天外な・・」最初は誰でもそう思う。これは自然なことです。

 だが「創り主を具体的に知りたければイエスを知れ」というのはキリスト神学のエッセンスです。よく「創主とイエスと聖霊とは三位一体」といいますが、それは、こういう存在論から来ているのです。そして、これはイエスの鞄持ちであり助さんであったヨハネならではの記録内容です。こういう言葉は、一般民衆に取材してもなかなか出てきません。

 だから、ルカ伝でも、マタイ伝でもはっきりした形では出てきません。マルコ伝は、マルコが、もう一人の側近である格さん・ペテロから聞いたことを中心にして書いたものといわれています。けれども、ペテロはイエスのこういう言葉は、あまり理解できなかったのではないでしょうか。

 その意味でもヨハネ伝は、まさにヨハネならではのものです。彼はイエスの教えを自らのうちで、神学の域にまで高めて消化していたのですね。


                    

 ともあれ、「わたしは創造主の具現体である」と発言するのは、当時のユダヤ社会では大変なことだということになりますよ。彼らは、ゴッド(エロヒム)は只お一人だという、いわゆる一神教を守ってきています。そういう社会の人々にとっては、イエスのこの言葉は「ゴッドがもう一人いる」といったという風にしか受け取られません。

 三位一体などというコンセプトは、イエスの教えが広く受け入れられてからやっと出てくるものであります。肯定的に受け入れた上で、ではそれは論理的にどうなるだろうか、と検討した結果、出てくるものだ。

 当時としては、とにかく、こんな男は「石打ち」して殺すのが正しい、ということになります。ユダヤ教社会の常識です。

 けれども、その時彼をとらえるものは誰もいなかった。その理由をヨハネは「イエスの時がまだ来ていなかったから」とのみ記しています(20節)。その時とはイエスが十字架上で刑死する時、というのが聖書を貫く論理であります。



                    



 どうして死ぬかって? 人間を幸せにするため。
 人間の罪を代償するなどそこには色々理屈はつながっているけど、つまるところは、「人間を幸せに」するため。

 理屈を勉強しすぎて、このことを見失ったら、何のために聖書を読んでるのかわからなくなるよ。

 聖書は読んでいて、解読が困難になるときが何度でもあります。でも心配ない。その時は、聖書の大原則に結びつけたらいいのです。そのひとつが「創り主は人間を死後においても、この世においても幸福にしようと行動している」こと。これにつなげて解釈したら、おおむね正解に至れます。  

 みなさん、今年はいい年になりますよ。


                    






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Vol.110『私(イエス)は世の光』(8章)

2006年01月01日 | ヨハネ伝解読


~~2006年の新年に入りました。
  皆様、おめでとうございます。

 鹿嶋は残されたこの世での時間を、刻一刻と消費しております。


                    


 新年ですので、気分を一新して、「ヨハネ伝解読」を再開してみましょう。

 題8章が「姦淫の女」の場で華やかに幕を開けたところで、中断いたしました。
本日は、その次に入ります。

 ここから話は、突如一転してイエスの深い教えに入ります。それはヨハネ神学の深いところでもあります。

 ここから話があまりに一転するので、第8章では冒頭の「姦淫の女」の話は、ヨハネ伝が書かれた後で、他の人が挿入したんではないか、という説があるくらいです。


                                


~~では、始めましょう。
 ご自分の聖書を開かれることをおすすめします。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「私(イエス)は世の光です。私に従ってくるものは、闇のうちをあるくことがなく、いのちの光を持ちます」(8章12節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


                    


 イエスはまず、「私は世の光だ」と宣言します(12節)。そして、自分だけではなく、「自分(イエス)に従うものもまた、いのちの光を持つ」というのです。


+++

 ここで、聖書に出てくる光という言葉の意味を知っておくことが必要になります。聖書のなかの「光」という言葉には二つの意味があるのです。

 一つは、我々の肉眼でみるところの光です。この実体は光子(こうし)という、とても軽い素粒子であることが物理学では見出されています。英語ではライト(light)です。


                    

 第二は、栄光という光です。英語ではグローリー(glory)ですね。これは創造主から放射される「いのち」というエネルギーが発する光と言っていいでしょう。

 いのちエネルギー自体がそういう明るさを持っているとイメージして差し支えありません。だからイエスは「いのちの光」というわけです。

+++

 この第二の光も、人間はある程度感知できているのではなかと思われます。

 よく「根暗」とか「ネアカ」とか言うでしょう。根が暗い、根が明るい、という意味です。これは肉眼には直接感じられないけれども、その人の内側(根)から発するものが、なにか暗い感じがする、あるいは、明るい感じがする、ということを言っている。

 そういうものを、一般の人間でも感じるんですね。このとき感知されているものは何か。聖書の論理ではこの「いのちの光」、栄光の光ということになるでしょう。

 なお、この光は創主の王国である天国から、宇宙を突き抜けて地球に届くのに、一秒もかからないほど速いという理屈に、聖書ではなります。そうすると創主への人の祈りはこの光によって天国に届けられると言うイメージでしょうか。


                    


 対して、素粒子の光は、進行速度がゆっくりです。球体である宇宙の外からその中心部に届くのに750億年かかるとか1000億年かかるとか物理学では推定されているようです。

 これで祈りが伝えられるんでは遅すぎますよね。祈りが伝わる前に、祈った人は死んでしまいますからね。いま光ファイバーによる超高速通信が話題になっていますけれども、栄光といういのちエネルギーの光に比べたら、超ゆっくり通信となるでしょう。

 そして、イエスは「自分(の言葉)に従うものもまたこの光を持つ」といいます。これは栄光の光です。だから「いのちというエネルギーを持つ」というのと実質同じですね。イエスの言葉に従うものの霊には、いのちエネルギーが吸収される。これは聖書の鉄則であります。



                     



 ~~元旦ですのでもう一つ進みましょうね。

<私(イエス)は被造物と違うんだ>

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「私のことで証言するのは私自身です。そして私を(この世に)つかわされた父もまた私のことを証言します」(8章18節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                     

 さらにイエスは、本質的なところをズバリ口にします。「すなわち自分は諸君らのような人間とは違うんだ、創造主の子なんだ」と宣言するのです(18節)。

 さきほどイエスが「私は世の光だ」と言ったことを示しましたね。これに対して、ユダヤ教パリサイ派の人々はいいます。「ああ、あなたは自分で自分のことを証言している。そういう場合、その言葉は無効なんだ」と(13節)。

 この人たちが言いたいのは、ユダヤ人の社会では無効だということです。どうしてかというと、それは(旧約)聖書に「二人による証言がある場合、それは真実として扱われる」というルールが書いてあるからです。イエスもそのことは認めています(17節)。


                    

 ところが、その次からのイエスがいう主旨が画期的であります。「だがそれは、諸君ら被造物なる人間に対してのルールなんだよ」「私は創造者の側の存在なんだよ。諸君らとは違うんだよ」が、それです。

 だが、この主旨を省略してイエスはこういっています。「まあ、二人の証人が必要というのなら、一人は私自身、そしてもう一人は私の父なる創造主ということにでもなるんだろうけどね」と(18節)。


                    


 これはジョークではありません。イエスは他の箇所で「私の語るところは、父が語るのを聞いてそのまま語っているのだ」といっています。そして、真理の源は創造主であるというのが、聖書の絶対の鉄則なのです。だから、要するに創主から出た言葉は、真実そのものということになる。


                    


 では「二人の証人がいる場合、その言葉は真実」という(旧約)聖書のルールはそれとどういう関係にあるでしょうか。

 結論から言うと、それは「不完全な人間社会で、人の言葉の真実、不真実を判定しながら社会を運営して行くには、まあ、その程度でやっていきなさい」というものなのです。

 もちろん人間が、創主のなされる善悪の判断を感知できるのならば、話は変わってきますよ。

 しかし、アダムが原罪を犯して以来、人類は創主の思いをほとんど感知できなくなった、というのが聖書の論理です。だから、自分の言葉を真実と主張するには二人の証言を得よ、というルールが下された。それが実状なんだよ、というのがイエスの言の背景にあるわけです。

                    



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