鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.143『イエスを信じれば、とにかく「霊」は活きる』(11章)

2006年05月14日 | ヨハネ伝解読



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=聖句=
 「私はよみがえりです、いのちです。私を信じる者はたとえ死んでも生きるのです」(11章25節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 前回に示した四つのケースを検討していきましょう。

①「(肉体は)死んでも、(肉体は)生きる」
②「(肉体は)死んでも、(霊は)生きる」
③「(霊は)死んでも、(肉体は)生きる」
④「(霊は)死んでも、(霊は)生きる」

           ~~この四つでしたよね。

<①はないでしょう>

 まず①の「肉体は死んでも肉体は生きる」は、ありえないでしょう。
 肉体は死ねばその構成物質は分解して風化・発散していきます。
 生きればそれは「まとまり、一体性(unity)」を持ちます。

 「イエスを信じる者はたとえ肉体の構成物質が分解してもまとまりを持つ」ということは成り立ちがたいのではないでしょうか。実際、信頼者であってもその肉体は死にますからね。

 もちろん、この11章でこれからイエスが生かすラザロの死体については、一旦死んだにもかかわらず生き返りますよ。だけどその彼の肉体だって、以後永遠に存続することはありません。100年の内に死んで消滅するでしょう。

 一般的には、イエスを信じる人でも、肉体は死んで消滅してそれきりです。

<③もないだろうね>

 同じ理由で③である可能性もないでしょう。
「たとえ死んでも生きるのです」の「生きる」の主語が「肉体」であるケースはありそうにないんですね。まあ考えてみれば、イエスが肉体の生死に焦点を合わせて話を結論するということは、そもそもありそうにないですしね。

 この③についてもう少し具体的に言いますと「霊は死んでも、肉体は生きる」という解読が妥当になる可能性はない、といったらいいですかね。

 霊がどうであれ、イエスを信じた人でも、一般的には肉体はみんな死んでいますからね。後に、イエスの使徒たちには殉教するものがたくさん出ます。彼らの肉体が、殺されてもまたぴょこんと生き返った、という話は記録されておりません。

 もちろん、最後の審判の時に、その人も新しい身体で復活するということに、聖書ではなっています。実際、このイエスの言葉の直前に、ラザロの姉妹マルタは涙ながらにイエスにこういっています。

「はい、ラザロが世界の終わりの日に復活することを、わたしは知っておりまする・・・」(24節)。

 だが、イエスはそれに対して、「あなたはよくわかっている」とか「ハイ、よくできました!」とか言ってませんよね。それはつまり、この解釈はここには当てはまらない、ということでしょう。

+++

 いずれにしても「たとえ死んでも生きるのです」の「生きる」の主語は霊となります。つまり可能性のあるのは②と④のケースとなる。そのどちらだろうかを、次回に考えましょう。


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Vol.142『形式的に整理すると』(11章)

2006年05月13日 | ヨハネ伝解読


~~連休中、春平太は聖書信頼が強い地域にいました。
こういうところでは、人々の意識世界には創造主が大きな位置を占めています。
創造主があって人間たちがあり、物質もある。そういう世界イメージが心にあります。

 それで日本に帰ると、人々の意識が世的なことでほとんどいっぱいなのが特徴的に感じられます。テレビなどマスコミもそうです。心を占めているのは人間と物質のことばかり。

 意識ワールドが極端に狭い。気持がキューッと詰まってきます。よくノイローゼにならないな、と改めて思います。(美味しい食べ物があるからいいか・・・)

 こういうのを英語ではアンゴッドリー(ungodly)といいます。
 アンゴッドリー・ピープル(アンゴッドリーな人々)とかアンゴッドリー・カルチャー(アンゴッドリーな文化)といった如くです。
 ゴッドレス(godless)ということもありますが。

日本のアンゴッドリーぶりは、国内だけではないようです。
あちらで日本の牧師さんに会いました。
 牧師さんでも日本の方の意識は人間とか物質とかのことでほとんど占められていますね。

信徒の誰彼がどうしたこうした、とか、あの外国人は気に入らない、とかそういうことばっかり。
 

+++

 さて「ヨハネ伝解読」
 聖句は前回と同じです。
 これは徹底的に解読する必要あるんですね。


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=聖句=
 「私はよみがえりです、いのちです。私を信じる者はたとえ死んでも生きるのです」(11章25節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 イエスの教えでは、人は肉体と霊とから成っています。そして、各々に生死が考えられています。

<肉体の死と霊の死>

 肉体の死は、肉体が循環運動を停止して、崩壊していく(腐っていく)ことを指しています。これは、われわれが肉眼で観察して知っていることですよね。

 ところが霊については、話は一寸違ってくる。聖書では霊はどうであれ、消滅しないのです。永続する。霊の死とは、霊に「いのち」というエネルギーが欠乏することを意味しています。

 反対に、霊の生とはこの、いのちエネルギーが充ち満ちていることだ。
 死とは、霊にこのエネルギーが欠乏している状態です。
 
 霊は、存在としては、死んでも永続するのです。
 ただ、いのちエネルギーが足りなくなっているだけなのです。

<四つのケースがありうる>

 ではイエスは一体、どちらについて何を言い、全体として何を言おうとしているのでしょうか? 

 形の上では、「死んでも生きる」の生き死にには各々、肉体のケースと霊のケースとが考えられますよね。
 
「死んでも」について肉体と霊との二つのケース、「生きる」についてもまた肉体と霊との二つのケースです。
 だから、2x2で、合計四つのケースが出てきます。

 いま、各々のケースを書き出してみましょう。

①「(肉体は)死んでも、(肉体は)生きる」
②「(肉体は)死んでも、(霊は)生きる」
③「(霊は)死んでも、(肉体は)生きる」
④「(霊は)死んでも、(霊は)生きる」

 これで組合せはすべてです。これ以上にはありません。これらを一つ一つ検討していけば、イエスの言わんとするところに近づけるのではないでしょうかね。

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Vol.141『たとえ死んでも生きるんだ』(11章)

2006年05月12日 | ヨハネ伝解読


「ヨハネ伝解読」11章。本日はハイライトの聖句が登場します。
これからクライマックスに入るのです。

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=聖句=
 「私はよみがえりです、いのちです。私を信じる者はたとえ死んでも生きるのです」(11章25節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 イエスが前に言ったとおり、誰もイエスを捕らえに来ませんでした。
その時が来ていないから、というのが聖書の論理です。一行は、徒歩旅行を続けました。そして、ベタニアの町近くに来たときにはラザロが死んですでに四日たっていました(17節)。

 そこからエルサレムまでは、3キロ程離れていました。

 ラザロの姉妹であるマルタは、イエスが来られたと聞いて、町はずれまで向かえに出ます(20節)。そしてイエスに会うや、言います。

 「主よ、あなたがここにいて下さったら、ラザロは死ななくて良かったのに・・・・」(21節)。

 (あのユダヤ人たちがあなたに石を投げようとしたもんだから、遠く離れておしまいになった。そんなことさえなかったら、エルサレムにいて下さったならば、すぐに来て頂けたのに・・・)

 ~~マルタはこう嘆いたのかも知れません。だが、ヨハネはそのあたりについては記さないで、マルタの次の言葉を記録しています。

 「けれども、主よ、あなたがどんなことをお願いなさっても、創造主はかなえて下さいます。私はそれを知っています」(22節)。


<死んだラザロを生き返らすことが出来る人、とまでは知っていない>

 これを読むと、我々は「おっ! 死んだけど、イエスは生かしてくれる、と信じているのか?」と思いますよね。ところがそうではないのです。さすがのマルタも、そこまでは、期待もしていませんでした。

 イエスはかまわず言います。
 「マルタ、あなたの兄弟は生き返るんだよ」(23節)。

 マルタは涙ながらに応えます。
「はい、ラザロが世界の終わりの日に復活することを、わたしは知っておりまする・・・」(24節)。

 ~~もうどこまで行ってもすれ違い・・・。でもイエスは彼女の考えがどういう風に間違っているか、知らせたり、正したりはいたしません。かまわずどんどん進みます。

 「私は、よみがえりです、いのちです。私を信じるものは、たとえ死んでも生きるのです」(25節)。

 出たぁーっ!
 ジャァーン!

 これが聖書の中の聖書です。福音の中の福音だ。
 春平太はそういう見解であります。

 ここも、物理的に考えたら途方に暮れるところですが。
 「たとえ死んでも生きる」だなんて・・・。

 物理的に見たら、(人の肉体は)死んだは死んだ、生きたは生きたでしょう。それが「死んでも生きる」なんて、一体何いっているんだ・・・・。


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Vol.140『死んで日がたった人間でも生かすのを示すため』(11章)

2006年05月11日 | ヨハネ伝解読



「ヨハネ伝解読」11章を続けましょう。
「昼間歩けばつまずかないよ」といったイエスは、さらに比喩言葉を続けています。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
  「我らが友、ラザロは眠っているんだ。私(イエス)は彼を起こしに行くんだよ」(11節)。
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 これを聞いた弟子たちは言いました。

  「眠っているんだったら、良くなるでしょうに」(12節)。

 これに対して著者ヨハネはこうコメントしています。

「イエスはラザロが死んだことを言われたのだ」(13節)と。

 イエスが言ったその時点でヨハネがそれを読みとっていたかどうかはわかり辛いところですね。助さんである彼は、真意を悟っていたかも知れない。あるいは、イエスが続いてこういわれたことから知ったのかも知れません。

 「ラザロは死んでいるんだよ」(14節)。

 イエスはまた続けています。

「私がそこにいなくて良かったよ。諸君のためにだよ。その方が、諸君が信じるにはいいんだ」と(15節)。

+++

 信じるって、何を信じるのでしょうか。

 彼らがこの世にいると信じている創造主が、「死者をもよみがえらす(癒しの力を超えた)偉大なる力を持つ方である」ということではないでしょうかね。

 弟子たちは、イエスが人を癒す場面については、何度も観察しています。けれども、死んで日にちがたっている人間を生き返らすのは見ていないんですね。

 イエスがラザロの近くにいたら、病を癒してしまうことになります。それでは従来のような、癒しの力を現すだけなのですね。

 だが、遠くにいたおかげで、イエスは今、死んで日にちがたった人間でも生き返らすことが出来ることを証明できる。こうして創主の偉大なる力を弟子たちに見せてあげることが出来るわけです。

+++

 とはいえその時点では、弟子たちにはイエスがこれから死人を蘇らせる力を示すなどとは想像もつかなかった。それより、先生の身が心配でした。弟子の一人であるトマスは言います。

 「先生は行くと言ったらどうしても行かれる。よし、我々も行こうぜ。そして、先生と一緒に死のうぜ!」

 イエスと共に死んだら本望だという弟子は、格さんペテロだけではなかったんですね。でも、イエスからしたらこれは困りものだったのではないでしょうか。

 「わが弟子たちは、どうしてこんなに死にたがるんだ・・・」と。

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Vol.139『昼間歩けばつまずかないよ、とは?』(11章)

2006年05月10日 | ヨハネ伝解読

 海外出張から帰国しました。
 「ヨハネ伝解読」を続けましょう。

 11章には、イエスが死んで4日たったラザロという若者を、生き返らせる場面が中心に記録されています。ここはヨハネ伝の中で話が転換するポイントでもあり、かつ、とても考えさせられるところの多い章です。途中他の情報を入れないで、この章の解読を一気に続けてしまいましょう。


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=聖句=
 「昼間は12時間あるだろ。誰も昼歩けばつまずかないよ。この世の光を見ているからね。だが、夜歩けばつまずきます。光がその人の内にないからね」11章9~10節)」
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 弟子たちはイエスに「危険だからベタニア地域には行かないでください」といいました。
 だが、イエスはここでまた「え?」と思わせることを言うんですね。

「一日には(昼間が)12時間あるじゃない? 昼間歩けば誰もつまずかないよ。この世の光を見ているからね」(9節)と。

 さらに言います。
 「だけど、夜歩けばつまずく。彼のうちにその光がないからね。」(10節)。

 これは一体、何でしょう。何を言っているのでしょう。もちろん、文字通りの物理的な話ではないでしょうね。昼間には光があって、夜には光がないーーーあったり前の話だ。そんなことだったらイエスがわざわざ言うはずがありません。また、ヨハネがわざわざ記すはずがないでしょう。

 それに「夜歩けばつまずく。彼の『うちに』その光がないから」といってもいますよね。「うちに」光があるか無いか、というのは物理的な次元の話ではないですよね。

+++
 
 とするとこれは「たとえ」になりますよね。で「たとえ」には複数の解釈が成り立ちます。「創造主からは栄光という光が発せられていて、その内を歩いていれば、たとえユダヤ人たちに殺意があっても実現することはない」というのも、その一つでしょう。

 これですと、少しわかったような気がしてきます。だけど、まだ、はっきりしませんよね。もう少し具体的に理解したい気もしてきます。

 そこでこう考えたらいかがでしょうか。
ここではまず、イエスの言葉全体が何を言っているかに焦点を当てます。で、結論から言いますと「今はまだイエスが死ぬように計画されたときではない、もうしばらくはこの世でのイエスの活動を描く舞台に照明の光が当たっている。その光が当たっているあいだにはつまずいてころぶことはないよ」と言っていそうに思えます。

<イエスの生死は計画されている>

 どうしてそんな解読になるでしょうか?

 聖書の論理では「ことイエスの生死に関しては、この世が創造される前から完全に計画されている」ということになっているからであります。
 
 この世での出来事がすべて予定されている、というのではありませんよ。今日あなたがご飯を食べていて箸を落っことしたとしても、それは予定されていてそうなったわけではないでしょう。

 けれども、イエスの生死に関しては完全に予定されたとおりに進行するとしているのです。

 だから「この時点は、まだ自分が死ぬ時ではないよ」と、イエスは言ったのではないか。もしそうでしたら、それを弟子たちに知らせるには、あまりにたくさんの説明がいります。

 また、今それを言うときでもない。イエスは後に最後の晩餐の時になって弟子にそれを言いますが、彼らの大半は依然それを納得できないのですから。

 それでまあ「光のある間に歩けばつまずかない」といった。どうせわからないんだから、実態とかなりかけ離れた話だけれど仕方がないのでしょう。でもその真意は「父なる創り主の計画によれば、今はその光のあるときだ。だから殺されないんだよ」ということだった、と春平太は現時点では解しています。

<処世の知恵ではないでしょう>

 この聖句を、人間が生きる際の人生訓と解説するセンセイもいますよ。
 「光のあるうち」というのは「若いうち」である。人間誰でも老齢になると、肉体が衰えてしたくても出来なくなることが多い。だから、若いうちに志をなしておけ、と。こういう風な解釈をする。

 この聖句をどうやって拾ってきたのか、結婚式の祝辞で、引用しててそう解説するんですね。お祝いの寄せ書き色紙に、それをみたこともあります。

 これほど徹底して世的ではないにせよ、結局は人生訓となる解説もあります。
~~光とはカミの導きである。それに従わないとつまずく。つまり、この世で失敗する。だから、常にカミサマの導きに従って歩くんだよ~~という。

 こちらではカミサマが出てきますが、結局は人間が「この世」を世的な意味で失敗しないで生きる知恵として、この聖句を受け取っています。だけど、イエスがこの世で上手く生きることに焦点を絞って教えた知恵って、聖書にあるでしょうか。

 イエスはこの世の話もしますが、その教えの究極のスポットは、天の論理の教えに絞られている。だからそれは霊界の論理です。そういう観点から、この場面で言わんとするところを具体的に考えると、それはやはり、「今は私が死ぬように計画された時でない」ということになるのではないか。それがベターな解釈ではないかと春平太は現時点では思っています。


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ギリシャ正教会の聖餐式

2006年05月01日 | キリスト教活動の歴史
連休で、春平太もまた一週間ほどお休みいただきます。
みなさん出来れば、過去の投稿を読んでみてくださいね。

(インターネットが使えたら、投稿したいと思っていますが・・)

+++

写真は、ギリシャ正教会での聖餐式です。
パンを葡萄酒に浸して、スプーンにのせて子供に食べさせています。

聖餐というのは、「聖なる晩餐」という意味です。

イエスは、十字架にかかって死ぬ前の夜に、弟子たちにパンを割いて与え「これは私の身体です、私を記念してこれを行いなさい」といいました。
また食事の後で葡萄酒を与え、「これは罪を許すために多くの人のために流される私の契約の血だ」と言いました。

 そこでカトリックの教会では、集まって礼拝するごとにこれを行います。
プロテスタントや聖句主義の教会では、毎週の礼拝の内、月に一度、これをします。毎週すると形式的になってしまうおそれがあるので、そうしているようです。

 カトリックでは、幼児洗礼をしますので、幼児はクリスチャンです。そこで聖餐をしてパンと葡萄酒を与えねばなりませんが、子供に葡萄酒を飲ませるのは難しいですよね。

 そこで、パンに葡萄酒を浸してあたえるという、ウルトラCのアイデアを考えつきました。
 ギリシャ正教会でもそうなっているのでしょうか、この写真は、葡萄酒を浸したパンを子供に与えている場面です。


ギリシャ正教会といっても、東欧の国のではありません。
米国ミシガン州の教会です。

米国には、こういう礼拝を好きな人もいるんですね。
するとギリシャ正教会も、成立し存続して行く。

こうして出来る多様性がいいですね。

+++

なお、聖餐におけるパンと葡萄酒に関する解釈も、カトリックと聖句主義教会では違います。
カトリックでは、それらはミサ(礼拝)における司祭の祈り(聖別の祈り)によって、キリストの肉と血に変化する、と考えます。もちろん見た目には変化しませんが、その実態が変化するというのです。

これを「聖変化」といい、また、こういう説を「化体(かたい)説」と言います。
ギリシャ正教会ではどうでしょうね。
同じではないでしょうか。

聖句主義の教会では、そういう変化をするとは考えません。
パンはパンで、葡萄酒は葡萄酒です。

そうではありますが、これをイエスが「私を記念して行え」と命じたので、その命令に従順して行うことに意義があると考える例が多いようです。


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Vol.138『先生、危険です!』 (11章)

2006年05月01日 | ヨハネ伝解読



10章は終わりました。
内容の深い章でしたね。

 とりわけ、「罪許されるための条件」を考えさせてくれたことは、とても有益でした。

日本の信仰者は、正しい聖書解釈が一つあって、それを外れるともう「救われなくなる」、「罪も許されなくなる」とほとんどが思っています。無意識のうちにそう思っているのですね。

 それで、自分にとって新しい解読に触れると動転する。恐怖する。顔が、心が、引きつる。そして従来の解釈にしがみつきます。

 だけど、よく考えてみると、それは教理主義なんですね。ある教理(聖書解釈)が正統で、これに反すると救われなくなるとする。これ教理主義です。

 +++

 ところが、ご自分は聖書主義だと錯覚している。
「あなたは教理主義ですか?」と聞くと
「とんでもない、聖書主義です、聖書を基盤にしています」と反応します。

 どうしてそんなことになるか?
クリスチャンはやはり、聖書に対して相応の解釈を抱いてやっていくしかないからです。物事を決断するにしても、行動するにしても、一定の解釈の元におこなうしかない。
聖句自体は、混沌の世界ですからね。
 
 そこで、人生の時点時点で、ある特定の解釈に立って判断、行動するのですが、問題はそれを絶対と感じないと、確信ある行動が取りづらくなることです。

 自分の解釈を相対的なものと意識すると、人は通常は行動に思い切った力が入りにくいものです。他の解釈が正しいかも知れない・・と思っているんではね。

+++

 通常はそうです。
 だが、これから脱却するウルトラCの方法があります。
10章は、それを示唆してくれました。

 それが「聖書(イエス)に真理がありそう、と期待している状態が罪許される必要にして十分な条件」という知識を持つことでした。

 そうすると、まず、人は自分の解釈が「正統なもの」から外れてるんじゃないか、という恐れから解放されます。
 同時に、他者の解釈を「正統でない」と責めたり裁いたりしようという気持がなくなります。

 と、同時に、聖書の内容には人間の解読能力を超えたところがあるのであって、人間には「最終的に正しい解読」には至れない、ということを安心して悟れるようになります。

 すると、人間は皆、各々の人生で、その時点時点に正しいと思った解読に立ってやっていけばいいんだ、と安心して思えます。こうして自分の解読に確信もって立つことが出来るようになる。なおかつ、他者の解釈を責めることもなくなるのです。

 これが「自由」です。
真の精神の自由です。

+++

なお、「罪許される」というのは、罪が消滅することではありませんよ。
消滅してなくなってしまったら、「許す」なんて必要はないでしょ。

 許される、というのは罪があるから言えることです。
 その罪が「ないものと見なされる」ということです。
 それ故に「救われる」につながるのですね。

 人は、罪許されても、罪のあるままで、日々罪を犯しながら生きていきます。
 その状態で、「イエスに期待し続けて生きる人は」日々それを「ないものと見なされ」(許され)ます。

 そして最後の審判においても「すべてないものと見なされ」裁きをバイパスして創り主の王国に入れられる~~こういう風に聖書は解釈することも可能だと言うことですね。

「ヨハネ伝」は嬉しい書物ですね。
今回から11章です。
期待して入って行きましょう。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「この病はラザロの死で終わるものではないよ。これは創造主に栄光をもたらすために起きたものであり、その子が栄光を受けるためのものだ」(11章4節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 ヨハネは11章で有名な事件を書き記しています。イエスがラザロという青年を、死んでから四日たった後に生き返らすという話がそれです。

 イエスが「私は創主の子」といって創主を冒涜すると、ユダヤ人たちが怒る。石でもって打ち殺そうとする。そこでイエスはエルサレムを離れて、ヨルダン川の東側の岸に滞在したーーーこのことは前章に記されていました。

 そうしたイエスのところに、人がやってきます。ラザロという青年が病気であり、来て癒して欲しいといういうのです。彼はその姉妹二人からメッセージを託されて来たのです(3節)。
 
 イエスはこの青年を深く愛していました。彼は、マリア、マルタという二人の姉妹と共にベタニアという地に住んでいました。ベタニアは、エルサレムに近い町です。エルサレムから3キロ程離れているだけのところです。

 この家族は、熱心なイエス信仰者だったようです。イエスがエルサレムに来る際、一行を家でもてなしたり、宿泊させたりするくらいだったと推察されます。イエスもまた、彼らを愛していました。そのラザロが重病だという。

ところがイエスはこういう。「この病は死でもって終わらない。この出来事は創造主の栄光(力)が現されるためである。そしてそれでもって創主の子(イエス)が栄光(栄誉)を受けるのだ」と。そしてその地にさらに2日滞在するのです(6節)。

 それからおもむろに「もう一度ユダヤ(エルサレムやベタニアのある地域)に行こう」と言います。弟子たちは心配します。「ついこの間、ユダヤ人たちが先生を石で打ち殺そうとしたばかりですよ。ダメです、危険です!」(8節)。


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