Sightsong

自縄自縛日記

『けーし風』読者の集い(11) 国連勧告をめぐって

2010-08-01 22:43:46 | 沖縄

『けーし風』第67号(2010.6、新沖縄フォーラム刊行会議)の特集は「国連勧告をめぐって―――脱植民地主義と沖縄の自己決定権」と題されている。その勉強会に参加した(7/31)。参加者は9名。議論は以下のようなもの。

国連勧告とは、沖縄に対する人権侵害に関して、日本政府に対し、国連人権条約監視委員会からここ数年継続して出されている勧告のことであり、その背景となった国連報告書が「ディエン報告書」と称されている。勧告の内容としては、民族の言語・文化に関する教育が導入されるべきこと、琉球民族の土地の権利を認めるべきこと、さらに米軍基地の異常な集中による悪影響を撤廃すべきこと、などが含まれている。これに対し、日本政府は真っ当な応答をしなければならないが、沖縄には他の地域と同様の政策が採られており差別などはあり得ない、といった建前論を繰り返している。

ここで、<差別>なる構造の受容が問題となる。差別されている(された、されているかもしれない、これからされるかもしれない)側にとっての差別へのまなざしは多様であり、それを拒否する側面が多いのだという。被差別の側に身を置きたくない歴史的な蓄積があり、大田昌秀ですら、<構造的差別>という言葉を使い始めたのは比較的最近のようだ。その一方で、必ず相手がヤマトンチュかウチナーンチュかを見極めるのだ、とのウチナーンチュの発言があった。

<先住民>という概念が、豪州や米国のように広く受容されていないのではないか、その上で問題視したところで一部の上滑りになってしまうのではないか、というのが私の問題提起。実際に、「あなたは先住民か?」と問われて「はい」と答える沖縄人は少ないだろうねとの意見。また、それに対し、国連の先住民族の定義はもっと広く、先住か後住かだけではなく、植民地支配や同化政策が行われていたか、が重要視されており、それによる気付きの効果は評価すべきではないかとの意見があった。そして、同様に<植民地>という概念の受容はどうなのか、とも。

議論のなかで目立ったのは、<自己決定権>についての評価であり、それを即<独立>に狭めてしまうべきではなく道州制や連邦制だって視野に入るものだとの意見だった(いわゆる「居酒屋独立論」は現実性を欠く)。現状は自己決定権どころではなく、自己の言い分を伝える機会すらない状況。安保そのものの意義に関する議論を、ウソの抑止力論にのみ囚われず広めていかなければ、自己決定権の獲得などできない。しかし、いまの間接民主制のもとでどうすればいいのか。

ところで自分は千葉県民である。もちろん沖縄の置かれる状況とは話が違うことは解っているが、その上で言えば、千葉県民に自己決定権はあるのか。成田だって、三番瀬だって、習志野へのPAC3配備だって、それが問題にならない間接民主制のもとでは、市民の声はなかなか届かない。それどころか声をあげようとする市民をゼロにしようとするシステムである。<自己決定権>はもっと広く考えられるべき概念なのではないか。

最後に、沖縄のUさんから興味深い体験談があった。

「戦前に、『冒険ダン吉』という漫画があった。ダン吉は、<土人>の手下を従えていた。もちろんダン吉のつもりになって読んでいた。支配される側になりたい子どもはいない。しかしあるとき、子供ごころに気が付いた。俺たちは、ダン吉ではなく、土人だったのだな、と。」

●参照
『けーし風』読者の集い(10) 名護市民の選択、県民大会
『けーし風』読者の集い(9) 新政権下で<抵抗>を考える
『けーし風』読者の集い(8) 辺野古・環境アセスはいま
『けーし風』2009.3 オバマ政権と沖縄
『けーし風』読者の集い(7) 戦争と軍隊を問う/環境破壊とたたかう人びと、読者の集い
『けーし風』2008.9 歴史を語る磁場
『けーし風』読者の集い(6) 沖縄の18歳、<当事者>のまなざし、依存型経済
『けーし風』2008.6 沖縄の18歳に伝えたいオキナワ
『けーし風』読者の集い(5) 米兵の存在、環境破壊
『けーし風』2008.3 米兵の存在、環境破壊
『けーし風』読者の集い(4) ここからすすめる民主主義
『けーし風』2007.12 ここからすすめる民主主義、佐喜真美術館
『けーし風』読者の集い(3) 沖縄戦特集
『けーし風』2007.9 沖縄戦教育特集
『けーし風』読者の集い(2) 沖縄がつながる
『けーし風』2007.6 特集・沖縄がつながる
『けーし風』読者の集い(1) 検証・SACO 10年の沖縄
『けーし風』2007.3 特集・検証・SACO 10年の沖縄