比嘉豊光『赤いゴーヤー』(ゆめあ~る、2004年)を紐解く。1970年から72年にかけてアサヒペンタックスで撮られたモノクロ写真群である。
70年のコザ暴動において焼かれ、ひっくり返されたクルマ。基地の米兵やアメリカン・ウェイ・オブ・ライフを楽しむ米国人たち。首里や南部ややんばるや読谷の人びと、風景。
鮮明な写真作品は少ない。ほとんどは傾き、ピンボケで、被写体ブレや手ブレを起こし、過度の露出不足によりフィルムと印画紙のマチエール感が露わになっている。クルマ内からノーファインダー、カメラの制御なしに撮られたものが多い。いわゆる「アレブレ」の「コンポラ」写真として分類するならば、できるだろう。しかし、クラスターとしてこの写真群が持つ迫力はただものでない。当時流行の手法であるとか、作為であるとか、明らかに、そのような後付けの理屈を何とも思わないであろう位置にあると言うことができる。
この写真群は、沖縄の施政権返還直後、1972年6月に琉球新報ホールにおいて、壁面いっぱいを埋め尽くす形で展示されたという。すでにヤマトゥから、東松照明が沖縄に関わりはじめており、写真家たちの先達となっていた。その東松照明により、写真群は、「沖縄とは、現実とは、闘争とは、大学とは、写真とは何か! 疑問符とは、求めても得られぬ答えの謂だ」と高く評価されている。(仲里効『フォトネシア』、未來社、2009年)
森山大道、中平卓馬、高梨豊、多木浩二により『プロヴォーク』がスタートしたのが1968年、アレブレボケはその時代とシンクロした先鋭的な写真表現であった。その先行者でもあった東松照明は、タイミング的にコンポラを横目に見ながら沖縄入りし、コンポラへの挑発を行う。アレブレとコンポラとを表裏の関係をなすものとして、「流行」として支持しながらも、意地悪く。
「・・・コンポラ患者を「現状認識は肯定的・・・・・・写真の機能的性能に疑いをもたず、また、価値の選択を自らの感性にゆだねてしまう・・・・・・一人一人ばらばらで、患者であることさえも自覚していない・・・・・・存在自体が希薄で人に不快感を与えない。体制にとって無害無毒」と分析し、dementia(開放性痴呆症)と診断している。」
「・・・アレ・ブレ患者は「(現実認識は)否定的・・・・・・やや意識的・・・・・・写真の機能をややうさん臭いものと直感し、その破壊を試みている・・・・・・相互に連帯感をもち、患者としての自覚を強めている・・・・・・メカニズムの破壊を企てるゆえに、有毒有害なものとして体制からしめ出される」とし、病名をautism(自閉症)と診断する。」
(西井一夫『なぜ未だ「プロヴォーク」か』、青弓社、1996年)
この皮肉な東松照明が、一方では、沖縄で純真な自身を発露させている。
「いま、問題となっているのは、国益のためとか社会のためといったまやかしの使命感だ。率直な表現として自分のためと答える人は多い。自慰的だけどいちおううなずける。が、そこから先には一歩も出られない。ぼくは、国益のためでも自分のためでもないルポルタージュについて考える。 被写体のための写真。沖縄のために沖縄へ行く。この、被写体のためのルポルタージュが成れば、ぼくの仮説<ルポルタージュは有効である>は、検証されたことになる。波照間のため、ぼくにできることは何か。沖縄のため、ぼくにできることは何か。」(「南島ハテルマ」、『カメラ毎日』1972年4月号所収)
そして沖縄という「自身が発見」したフィールドにおいて、コンポラ・アレブレの流行的手法を用いた比嘉豊光の写真を絶賛した。これはどういうことなのか。すぐれた写真群を生み出してきたことは前提としても、先鋭なことばを意識的に使い分けた政治的な写真家として評価されてもよいのではないか。
●沖縄写真
○比嘉豊光『光るナナムイの神々』『骨の戦世』
○東松照明『南島ハテルマ』
○東松照明『長崎曼荼羅』
○「岡本太郎・東松照明 まなざしの向こう側」(沖縄県立博物館・美術館)
○平敷兼七、東松照明+比嘉康雄、大友真志
○仲里効『フォトネシア』
○『LP』の「写真家 平敷兼七 追悼」特集
○沖縄・プリズム1872-2008
○石川真生『Laugh it off !』、山本英夫『沖縄・辺野古”この海と生きる”』
○豊里友行『沖縄1999-2010』、比嘉康雄、東松照明
○豊里友行『彫刻家 金城実の世界』、『ちゃーすが!? 沖縄』
○豊里友行『沖縄1999-2010 改訂増版』
●プロヴォーク
○高梨豊『光のフィールドノート』
○森山大道「NAGISA」、沢渡朔「Cigar - 三國連太郎」、「カメラとデザイン」、丸尾末広
○森山大道「Light & Shadow 光と影」
○森山大道「レトロスペクティヴ1965-2005」、「ハワイ」
○森山大道「SOLITUDE DE L'OEIL 眼の孤独」