Sightsong

自縄自縛日記

横井一江『アヴァンギャルド・ジャズ ヨーロッパ・フリーの軌跡』

2011-05-28 23:39:35 | アヴァンギャルド・ジャズ

ジャズ評論家・横井一江さんによる『アヴァンギャルド・ジャズ ヨーロッパ・フリーの軌跡』(未知谷、2011年)を読む。表紙のミシャ・メンゲルベルグの横顔が何とも良い。撮影は1992年というから、当然まだフィルムである。以前ご本人に訊ねたところ、もうデジタル一眼レフを使っているが、撮れすぎてしまうのだ、とのこと。

それにしても類書がないだけに面白い。教科書的なものではなく著者の同時代史でもあるように読める。その中に、自分も足を運んだライヴ、駆けつけられなかった来日公演などが登場して動悸動悸する。

構造的に商業化された音楽ではないから、ベースとなるのは人と人とのつながりである。ウィレム・ブロイカーペーター・ブロッツマンハン・ベニンクに紹介。アマチュア時代のジョン・マクラフリンまたはエヴァン・パーカーデレク・ベイリーをベニンクに紹介(複数の証言が矛盾)。ペーター・コヴァルトがブロッツマンを、ブロッツマンがベニンクやブロイカーやメンゲルベルグやアレックス・フォン・シュリッペンバッハをパーカーに紹介。パーカーがケニー・ホイーラーをシュリッペンバッハやブロッツマンに紹介、というように。そうか、旅人コヴァルトが最初の糊でもあったのか。コヴァルトはサインホ・ナムチラックをヨーロッパで紹介もしている。

日本に比べ欧州の文化活動に対する助成は手厚い、とはよく聴く話でもあるが、そのあたりの実情も興味深い。ICPオーケストラも、ウィレム・ブロイカー・コレクティーフも、来日には自国政府の助成制度を何とか利用できたからであったという。アヴァンギャルド・ジャズという、個々の個性を聴かせてナンボの音楽の制約は、常にオカネである。

本書では、欧州各国の状況について、各論としてまとめている。ヨーロッパはひとつの家でもあり、そうでもない。個人の声、地域主義である。特に、フランスでは地域での草の根的な動きが多いという文脈の中に、現代の旅人ミッシェル・ドネダを位置づけていることは面白かった。さらに時間軸でのゆらぎとしてジョン・ブッチャーを取りあげ、ソロ奏者としての声ではなく場の音を構築しようとしているのだという分析には納得させられる。

フリージャズ、アヴァンギャルド・ジャズを捉えた本としては、清水俊彦『ジャズ転生』『ジャズ・オルタナティヴ』『ジャズ・アヴァンギャルド』、副島輝人『現代ジャズの潮流』『日本フリージャズ史』などと並ぶものではないか。生き方=ジャズ、を感じるためにもお薦めである。

●参照
ヨーロッパ・ジャズの矜持『Play Your Own Thing』
ハン・ベニンク『Hazentijd』
イレーネ・シュヴァイツァーの映像
ペーター・コヴァルトのソロ、デュオ
アレクサンダー・フォン・シュリッペンバッハ『ライヴ・イン・ベルリン』
シュリッペンバッハ・トリオの新作、『黄金はあなたが見つけるところだ』
ペーター・ブロッツマン
アクセル・ドゥナー + 今井和雄 + 井野信義 + 田中徳崇 『rostbeständige Zeit』
『失望』の新作
リー・コニッツ+ルディ・マハール『俳句』
ウィレム・ブロイカーの『Misery』と未発表音源集
ウィレム・ブロイカーが亡くなったので、デレク・ベイリー『Playing for Friends on 5th Street』を観る
ウィレム・ブロイカーとレオ・キュイパースとのデュオ『・・・スーパースターズ』
ジャズ的写真集(5) ギィ・ル・ケレック『carnet de routes』
デレク・ベイリーvs.サンプリング音源
田中泯+デレク・ベイリー『Mountain Stage』
トニー・ウィリアムス+デレク・ベイリー+ビル・ラズウェル『アルカーナ』
デレク・ベイリー『Standards』
ジョン・ブッチャー+大友良英、2010年2月、マドリッド
ジョン・ブッチャー『THE GEOMETRY OF SENTIMENT』
マッツ・グスタフソンのエリントン集
大友良英+尾関幹人+マッツ・グスタフソン 『ENSEMBLES 09 休符だらけの音楽装置展 「with records」』
サインホ・ナムチラックの映像
TriO+サインホ・ナムチラック『Forgotton Streets of St. Petersburg』
姜泰煥+サインホ・ナムチラック『Live』
ネッド・ローゼンバーグ+サインホ・ナムチラック『Amulet』
テレビ版『クライマーズ・ハイ』(大友良英+サインホ)
サインホ・ナムチラック『TERRA』
ミッシェル・ドネダと齋藤徹、ペンタックス43mm


オクタビオ・パス『鷲か太陽か?』

2011-05-28 13:49:02 | 中南米

オクタビオ・パス『鷲か太陽か?』(書肆山田、原著1951年)を再読する。メキシコ出身のパスがパリに滞在していたときに公表された散文詩である。

頁を凝視して言葉のイメージを増幅させながら、気が付くと、他のことを考えてしまっている。詩なんてものは、心にでかい余裕があるとき、あるいは、どうしようもなく言葉を渇望しているときにしか読むことができない。特に「鷲か太陽か?」の連作はメキシコのぎらぎらした暗喩に溢れたシリーズであり、ニュートリノのように眼も脳も心も通過していく。ときどき何かが反応する程度だ。いま読むべき本ではなかったか。

それでも、より散文に近い「動く砂」のシリーズにおける言葉の凝縮感は吐きそうなほど凄まじい。青い目玉を抉り集め続ける男の物語「青い花束」、海の波に恋をして一緒に暮らす男の物語「波との生活」、どうしようもない死への転落と渇望を描いた「正体不明の二人への手紙」など、何度も何度も読んでしまう魅力がある。凝縮感ということでいえば、以前に魯迅『影の告別』を読んでいて、パスのこれらを思い出した記憶がある。

「おれのきらいなものが天国にあれば、行くのがいやだ。おれのきらいなものが地獄にあれば、行くのがいやだ。おれのきらいなものが君たちの未来の黄金世界にあれば、行くのがいやだ。 だが、君こそおれのきらいなものだ。 友よ、おれは君についていくのがいやだ。とどまることが。 おれはいやだ。 ああ、ああ、おれはいやだ。無にさまようほうがよい。」(魯迅『野草』所収、『影の告別』)

私のパス作品との出会いは、『ラテンアメリカ五人集』(集英社文庫、1995年)に収録された「青い目の花束」、「見知らぬふたりへの手紙」、「」だった。前の2つは題名こそ若干違うものの、同じ野谷文昭の名訳である。「正体不明の二人への手紙」=「見知らぬふたりへの手紙」については、そのときの鮮烈な印象とのずれがあって、2冊を比べてみたところ、原文が異なるようだ。『鷲と太陽』に収録されたそれは、1998年にメキシコで再刊されたものを底本としている。何度も自作に手を加え続けたパスのことだから(井伏鱒二もそうだったか?)、そういった事情によるのかもしれない。好みは『ラテンアメリカ五人集』収録のほうだ。

だからこそ、きみは死だと私は言ったのだ。きみは私とともに誕生し、やがてほかの身体に棲むために私から去っていった、あの死というものに違いない。」(『ラテンアメリカ五人集』所収、「正体不明の二人への手紙」)

だが、ことによると、それらすべては、古くからの死の呼び名なのかも知れない。その死は僕とともに生まれ、他の身体に棲むために僕から去っていったのだ。」(『鷲か太陽か?』所収、「見知らぬふたりへの手紙」)

「鷲か太陽か?」の連作の一篇はマリオ・バルガス=リョサに捧げられている。この悦びの表現は良い。

だが、自由な人間の自由な讃歌よ、涙でできた頑丈なピラミッドよ、不眠の天辺に刻まれた炎よ、お前は憤怒の頂上で輝きそして歌え、僕のために、僕たちのために。音楽の松の木、光の柱、炎のポプラ、水の迸りよ。水だ、ついに水が出た、人間のための人間の言葉が!」(「未来の讃歌―マリオ・バルガス=リョサに」)

●参照
ハヌマーン(1) スリランカの重力(オクタビオ・パス『大いなる文法学者の猿』)


ワールド・サキソフォン・カルテット『Yes We Can』

2011-05-28 12:18:32 | アヴァンギャルド・ジャズ

ワールド・サキソフォン・カルテット(WSQ)の新作、『Yes We Can』(jazzwerkstatt、2009年録音)を聴く。2009年3月のライヴ録音であるから、1月のオバマ政権誕生直後のうねりの中で演奏されたものだ。議会に押され、勢いが削がれ続けているが、「Yes we can」は歴史的な名言だった。ここでも、表題作の他、「ニジェール川」、「自由への長い道」など黒人の歴史を多くテーマにしており、WSQの心意気を感じることができる。

実はWSQの新譜を買うのは10年ぶりくらいで、いつの間にか、悪童ジェームス・カーターがメンバーに加わっていた。従って、グループ結成時からのオリジナル・メンバーは、ハミエット・ブリューイットデイヴィッド・マレイのみということになる。この盤では、他にアルトサックスのキッド・ジョーダンが参加している。

1曲目「Hattie Wall」では、ブリューイットのバリトンに続き、マレイの癖だらけのテナーが入ってくる。全員でのフラジオという血管が切れそうな瞬間が良い。2曲目「The River Niger」はジョーダンの曲であり、彼の無伴奏アルトソロが聴きどころなのだが、どうしてもマレイが美味しいところを取っていってしまっている。3曲目「Yes We Can」は哀しくアイロニカルな曲想であり、全員がブリューイットに寄り添っていく。そんな中でカーターのソプラノソロ、循環呼吸もあり見せ場が多い。しかし、(他の曲でもそうなのだが、)このメンバーの中でカーターがまったく浮上してこないのが驚きなのだ。恐らくカーターのリーダー作であったなら、このソロでも最高だなと感じたかもしれない。

何年だったか、故ジョン・ヒックスがカーターを引き連れて来日したことがあった。カーターは得意の派手なスーツを着こなし、悪乗りして自分だけが目立ちまくり、ヒックスにステージ上で諌められていた。それは観客にとっては、演奏に勢いが出るものであれば、面白いサプライズに過ぎない。それでも、引き立て役がいなければカーターは存在できないのかなと思った。この盤を聴いての印象もそれだ。

4曲目「The God of Pain」ではマレイがテナーを泣くように朗々と吹き、時にエキセントリックでもある。このマレイのブルース解釈をライヴで体感したなら恐らく全員が雷に打たれたように熱狂する。次の「The Angel of Pain」では同時多発的なコール・アンド・レスポンス。そして6曲目「The Guessing Game」では、ブリューイットのクラリネットを聴くことができる。これにマレイがバスクラをあわせていき、滋味というのか、素晴らしい。7曲目「Long March to Freedom」では、不穏な雰囲気のアンサンブル、その中で交代しては高音を吹き続ける。それはアート・アンサンブル・オブ・シカゴ『苦悩の人々』のようだ。ライヴは再び「Hattie Wall」で高揚して終わる。

このように嬉しい瞬間は次々に訪れる。それでも、WSQの演奏としては突出していないに違いない。初期のBlacksaintやElektra/Nonesuchレーベルではゲストを迎えてもカルテット中心だった。1996年から最近までのJustin Timeレーベルでは、パーカッション軍団を加えたりして刺激剤が加わり、ひたすら愉しいものになった。特に、マイルス・デイヴィスに捧げられた異色作『Selim Sivad』(Justin Time、1998年)は衝撃的だった(冒頭の「Seven Steps to Heaven」には何度聴いても興奮させられる)。そこから新レーベルに移り、シンプル回帰しているという図式か。

しかし、例えば『Plays Duke Ellington』(Nonesuch、1986年)で聴けるような緊張感は、『Yes We Can』にはない。オリヴァー・レイクジュリアス・ヘンフィルという稀代のサックス奏者たちがいないから、だろうか。それとも経年疲労か。


『Selim Sivad』 マレイにサインを頂いた


『Plays Duke Ellington』

●参照
デイヴィッド・マレイのグレイトフル・デッド集
マル・ウォルドロン最後の録音 デイヴィッド・マレイとのデュオ『Silence』
マッコイ・タイナーのサックス・カルテット