Sightsong

自縄自縛日記

ゲルハルト・リヒター、サイ・トゥオンブリー、マニット・スリワニチプーンなど

2011-05-23 11:37:00 | アート・映画

初台から六本木に移転したワコウ・ワークス・オブ・アートに足を運んだ。ワコウ恒例のゲルハルト・リヒター新作展、これは観ないわけにはいかない。

作品群『アブダラ』は、ガラスの裏側にラッカーで彩色したものだ。相変わらず、観た途端に眼が貼り付き、動悸を覚える。溶剤で溶かして流し込んだ痕跡なのか、デカルコマニーとも違う。中には、リヒター独自の「横塗り」を発見した作品もあり嬉しい。これを何と表現すべきか、生命というには有機的な原初からかけ離れすぎている。アートによってのみアートを語るとしか言いようがない。

ワコウでは、同時にサイ・トゥオンブリーの作品群『チューリップ』を展示している。近寄った結果のアウトフォーカスのチューリップ。抽象表現主義の画家だったはずのトゥオンブリーがこのように変貌していたとは知らなかった。しかし、何の感慨も覚えない。

ついでに、同じビルの中に入っている(やはり渋谷から移転したばかりの)Zen Foto Galleryで、『Nirvana』と題された二人展を覗く。ティム・ポーターはバンコクにある医療機関で、ホルマリン漬けされた奇形嬰児の写真を記録している。複雑な思いを観る者に抱かせる、しかし、何だというのか。これを作品化するほどお前は強靭で達観しているというのか。これは置いておいて、もうひとつのシリーズ、マニット・スリワニチプーンの『Masters』という写真群は良かった。バンコクの仏具店、その奥に、過去の伝説的な仏教僧たちのレプリカが置いてあり、この写真家は驚愕したという。そして、仏教や即物化に焦点を合わせずに距離感を保つためか、アウトフォーカスでの写真を撮っている。

オオタファインアーツでは、バングラデシュのアーティスト、フィロズ・マハムドの個展を開いている。ムガル帝国時代のイギリス東インド会社との争いを描いた作品群は模式的であまり感じるところがなかったが、インスタレーションは面白かった。何機もの戦闘機が吊り下げてあり、表面には小豆、レンズ豆、緑豆、粟などがびっちり色分けして貼り付けてある。メッセージは単純だ、しかし、やはり現代美術のひとつの大きな要素は軽い思いつきと哄笑にある。


東松照明『新宿騒乱』

2011-05-23 00:47:18 | 写真

六本木のタカ・イシイギャラリーで、東松照明の個展を開いていた。小さいヴィンテージ7点と、最近得意のデジタル出力による大判2点。ほとんどが1968年の新宿騒乱、それから新宿の麿赤児を捉えている。政治の季節、東松曰く「見ることと選ぶことに終始するのが写真家である」とは言え、衒学的な感覚とドライな距離間にどうも馴染めない今日この頃だ。

同じ作品を含め、もっと多くの銀塩プリント写真群が、白金高輪駅近くのMisa Shin Gallery『新宿騒乱』と題されて展示されている。このあたりは昔からネジなど金属製品の町工場、卸問屋が多く、ギャラリーも古い鉄工場を改造して使われている(場所がわからず迷った)。

土方巽中平卓馬、麿赤児、新宿騒乱、新宿のエロス。有名な波照間島の写真もある。不思議なことに、タカ・イシイでは違和感しか覚えなかった写真群が迫ってくる。場所のせいか、プリントのせいか、セレクションの効果か。

おそらくは、禿頭の麿赤児が女性と抱き合っている写真が、こちらでは銀塩、タカ・イシイではデジタルという違いが観る者に影響を及ぼしているに違いないと思った。ドライな東松写真がさらにデジタルによりドライ化したら、もう隠しているものがないじゃないか。

●参照
東松照明『南島ハテルマ』
東松照明『長崎曼荼羅』
「岡本太郎・東松照明 まなざしの向こう側」(沖縄県立博物館・美術館)
平敷兼七、東松照明+比嘉康雄、大友真志
仲里効『フォトネシア』
沖縄・プリズム1872-2008
豊里友行『沖縄1999-2010』、比嘉康雄、東松照明
比嘉豊光『赤いゴーヤー』