楠元香代子『スリランカ巨大仏の不思議 誰が・いつ・何のために』(法蔵館、2004年)を読む。著者は彫刻家であり、その視線を、古のスリランカの仏像に注いでいる。このようなバイアスは大歓迎だ。
ここに紹介されている遺跡群を歩いてからもう15年が経つが、日差しとともに強烈な印象を刻みつけられたものらしく、読むと思いだして愉しい。
スリランカは上座部仏教の国である。それでも、大乗仏教の力は時に大きかったようで、アヌラーダプラのアバヤギリ大仏塔は大乗仏教の総本山だったという。そうか、いい加減にしか覚えていなかった。
ところで、仏歯寺のあるキャンディで、湖畔の小さな寺をうろうろしていたときのこと。中から怪しい使用人が出てきた。案内してやるというので着いていくと、「あなたは幸運だ。滅多にお目にかかることができない僧がこれから来る。会わせてやる」。袈裟を着た僧に会うや、そのオヤジは地面をごろごろ凄い勢いで這いつくばって僧に祈りをささげている。「ほら、あなたも祈りなさい。気持ちだけでも何か捧げなさい。何か持っていないか。カネでも良い。ごくわずかでも気持ちだから問題ない。」 よくわからずお布施を差し出すと、「これだけか!少ないだろ!」
騙されたような気がして(騙されたのだが)、複雑な気持ちでいると、オヤジの横を女学生たちが通り過ぎた。「君はスリランカの女性をどう思うか。」「いやまあ、綺麗ですね。」「本当にそう思うか(※怖いくらい顔を近づける)。君の宿は女性を呼べるところか(※斡旋しようとしていた)。」
憤懣やる方なく、翌日別の寺をうろうろすると、(当然)別のオヤジが出てきて、まったく同じセリフで同じ展開。学習したので、余裕を持って、ええ加減にせい、何人の観光客を騙したのか、と、つい怒ってしまったとさ。
この話が上座部仏教の構造と何か関係しているのかどうかわからない。しかし、少なくともどの国でも美談だけで語るのはつまらないということははっきりしている。
閑話休題。この本には他にもいろいろな発見がある。西と東がかちあってガンダーラ美術として仏像が生まれる前に、スリランカで仏像がつくられていてもおかしくないという意見。ポロンナルワのガル・ヴィハーラにある涅槃像には、廃したはずの大乗仏教の影響がみられること。ガル・ヴィハーラの座像の顔が丸いのは、満月のイメージに違いないという意見。スリランカの立像の右手はほとんど側面を向けているということ。仏像の頭頂部には、大乗仏教では肉髻(にっけい)という盛り上がりがあるのに対し、上座部仏教ではシラスパタという炎状の飾りがあるという違い。仏像の顔は、いつの間にか自民族の顔になってしまうという観察。
アウカナ仏の写真を見ると、あった筈の古い石造りの屋根が見当たらない。どうしたのだろう。
スリランカの仏教遺跡をまた訪ね歩きたいが、たぶん、実際にその場にいたら、暑くて、本書のようにはしっかりと観察できない。ガル・ヴィハーラの横で買ったコーラが熱かった(!)ことをよく覚えている。
アウカナ仏(1996年) Pentax ME-Super、FA28mmF2.8、Provia100、DP
ガル・ヴィハーラ、ポロンナルワ(1996年) Pentax ME Super、FA28mmF2.8、Provia100、DP
●参照 スリランカ
○川島耕司『スリランカと民族』
○特別展・スリランカ
○スリランカの映像(1) スリランカの自爆テロ
○スリランカの映像(2) リゾートの島へ
○スリランカの映像(3) テレビ番組いくつか
○スリランカの映像(4) 木下恵介『スリランカの愛と別れ』
○スリランカの映像(5) プラサンナ・ヴィターナゲー『満月の日の死』
○スリランカの映像(6) コンラッド・ルークス『チャパクァ』
○スリランカの映像(7) 『インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説』、『シーギリヤのカッサパ』
○スリランカの重力
○スリランカの歌手、Milton Mallawarachchi ・・・ ミルトン・マルラウアーラッチ?