手元に安部公房の写真集がある。『Kobo Abe as Photographer』(Wildenstein Tokyo、1996年)、1993年に安部公房が亡くなったあとに開かれた写真展のカタログである。中学生のころから熱心な安部ファンであった私は、シンポジウムにも足を運んだのだったが、この写真展のことは知らなかった。それだけに、何年か前、古本屋でカタログを見つけたときは嬉しかった。
『箱男』での孔から覗いたような写真や『方舟さくら丸』での立体写真など、安部公房の作品には写真がときどき挿入されていた。メカ好きの安部はカメラ好きでも知られており、ミノルタCLEやコンタックスRTSを愛用していたはずだ。ただ、その写真群は作家の余技の域にあるものではなく、あきらかに作家活動の一部をなしていた。
改めて凝視すると、さまざまな印象が浮上してくる。小さいもの・ディテールに注がれた偏愛。ミクロへの視線、すなわち、「劣化」への期待。ミクロへの偏執と、ミクロが立ちはだかることによって先に進めないという病根。「悪意」の存在。悪意の存在は、あざといまでの意味付与の反映でもあったと感じる。意味は自分で感知しろと放置したつもりのインテリ・安部公房、しかし、ことばを込めずにはいられなかったということだ。
娘・安部ねりによる評伝が公表されているが、まだ手に取っていない。