Sightsong

自縄自縛日記

鬼海弘雄『東京ポートレイト』

2011-08-14 23:08:32 | 関東

東京都写真美術館で、鬼海弘雄の写真展『東京ポートレイト』を観る。午前中グータラにしていたところ、14時からトークショーがあると知り、慌てて出かけたのだ。間に合った。私にとっては非常に気になる写真家のひとりである。


写真集とチラシに署名をいただいた

この写真群は、浅草の人びとに対峙し続けた『PERSONA』と、東京(および川崎などの周辺)の街を撮った『東京迷路』『東京夢譚』のシリーズから選ばれたものだ。街の写真も何か特徴や機能を簡単に説明できるようなものではなく、その意味で、やはりそれぞれ違う顔のポートレートなのである。

相変わらず、モノクロプリントのトーンをどんなミクロな場所にも見出すことができる。言葉では言い尽くせない、吐きそうなほどの感覚である。これらを次々に目の当たりにできるのは、やはり特別な体験と言わなければならない。そして、鬼海写真になのか、それとも「人間」になのか、底知れぬユーモアや生命力のようなものがある。

鬼海さんの解説付きで、1時間ほどぞろぞろと会場を歩く。もともとマグロ漁船など職を転々としていて、ある時写真をはじめ、哲学者の故・福田定良氏にポンと30万円を出してもらってハッセルブラッド500C/Mを買ったという伝説的な話。ハッセルのレンズは高いため、標準レンズだけを使うということを逆に強みとして使い、10冊ほどの作品をこのカメラとレンズの組み合わせで出したという話。そしてこれらの極めて独特な作品群の背後にある写真哲学。

被写体となった浅草の人々は、あまりにも自己が溢れており、つまらぬ意味での「真っ当」ではない。ホームレスも多い。鬼海さんは、声をかけて対峙するとき、何か上から見るとか決めつけるとかしてしまうと、そこで想像力は全停止するのだという。そうではなく、皆がナザレのイエスであるかのように向かわなければならぬのだ、と。「写真はコピーではない」と繰り返す氏の写真哲学には、人間との<際>の切実性のようなものがある。

街のポートレートについては、あえて人間を排除し、普遍性を意識しているという。話を聴いている間、横目でストゥーパの写真をどこかで見たなと気にしていると、「吉展ちゃん事件」で遺体が遺棄された場所だと説明してくれた。そうだった、一度足を運んだことがある、荒川区南千住の円通寺だった。シンクロにより記憶の引き出しが開けられるのは奇妙な感覚だ。

写真集『東京ポートレイト』(クレヴィス、2011年)とチラシに署名を頂くとき、デジカメについて訊いてみた。一度、『写真家たちの日本紀行』というキヤノンがスポンサーのテレビ番組で、鬼海さんがキヤノンのデジタル一眼レフを使っているのを観て、仰天していたのだ。曰く、いやキヤノンに1台もらったんだけど、便利すぎてつまらない、と。ヤッパリね。

●参照
鬼海弘雄『しあわせ インド大地の子どもたち』
鬼海弘雄『東京夢譚』


重慶大爆撃訴訟 広島―重慶を結ぶ集い

2011-08-14 09:10:09 | 中国・台湾

広島では、「広島―重慶を結ぶ集い」にも参加した(2011/8/6)。直前の「被爆66周年 8・6 ヒロシマのつどい」(>> リンク)でも被害を訴えていた簡全碧さんたちが、ここでは、詳細な資料をもとに説明を行った。

重慶大爆撃は、1938年から1944年にかけて、旧日本軍が200回以上にわたり中国・重慶市に空爆を行ったものであり、時に隣接する四川省の成都、楽山、自貢も攻撃対象となっている。死者は万単位に及んだ。ゲルニカ空爆(1937年)、東京大空襲(1944-45年)、広島・長崎への原爆投下(1945年)などと同様に、民間人を対象とした無差別虐殺事件である。

東京地裁への謝罪と賠償を求めての訴訟は、2006年以降4次にわたって行われている(原告は重慶市住民を中心に延べ188名)。

簡全碧さんは1939年の爆撃当時1歳で家を破壊され、翌1940年の爆撃では爆弾の破片が突き刺さり重傷を負っている。そのとき簡さんをかばって覆いかぶさってきた祖母が死亡したのだという。簡さんは、腹部に残る傷がまだ痛むのだと4センチの傷痕を見せ、その後の苦しい生活、精神的な傷について語った。


腹部の傷痕を見せる簡全碧さん

●参照(日本軍の中国における戦争犯罪)
平頂山事件とは何だったのか
『細菌戦が中国人民にもたらしたもの』(寧波での化学兵器使用)
盧溝橋・中国人民抗日戦争記念館(南京事件、化学兵器についても展示)
陸川『南京!南京!』(南京事件、ようやく今月日本公開)


アルンダティ・ロイ『帝国を壊すために』

2011-08-14 01:40:28 | 南アジア

インド人作家、アルンダティ・ロイ『帝国を壊すために―戦争と正義をめぐるエッセイ―』(岩波新書、原著2001-03年)を読む。しばらく姿を消していたが、今月復刊されるとのこと。

2001年9月11日の後、帝国=米国とそのフォロワーたちによる暴力が世界を席巻した。ロイが皮肉をもって偽善を暴こうとするのは、しかし、「9・11」後だけではない。太田昌国らによって、チリのアジェンデ民主政権がCIAの支援を受けたピノチェト将軍のクーデターによって転覆されたのも、1973年の同じ9月11日であったことが示されている。ロイはそれを含め、帝国が深く傷痕を残した事件として記憶にとどめるべき「9・11」を列挙している。

1922年9月11日、英国はバルフォア宣言(ユダヤ人のための国家建設)に基づきパレスチナに委任統治を宣言。
1973年9月11日、CIAとピノチェト将軍によるクーデター。
1990年9月11日、米国ブッシュ大統領(父)が、議会演説で、イラクに対する戦争行使決定を発表。
2001年9月11日、米国ワールド・トレード・センターに航空機が突撃。

帝国の暴力的な権力行使は歴史として刻みこまれ、繰り返される。しかし、自分たちは既に、ロイが挙げる問題群をある程度は認識している。これだって、帝国に抗した人たちの共通の記憶に違いない。

米国が、国外で軍事独裁教唆や住民大虐殺を実施してきたことも、
米国がアフガニスタンの麻薬製造の原因となり自国民を苦しめていることも、
米国がタリバンに力をつけたことも、
米国がオサマ・ビン・ラディンという存在を作りだしたことも、
米国が中東にこだわっている大きな理由は石油利権にあることも、
米国のイラク攻撃やアフガニスタン攻撃の大義に論理などなかったことも、
インドがスリランカのLTTEをサポートして事態をより悪化させたことも、
インドのヒンドゥー・ナショナリズムも、
そういったことを大メディアがサポートしてきたことも。

ロイが前提として強く念を押すのは、帝国であろうとも、政府と社会や国民とを同一視してはならないことだ。そして帝国に抗することができるのは、何かビッグ・パワーではなく、ひとりひとりの力であることを、力強くアピールしている。このあたりは、アントニオ・ネグリが<マルチチュード>を標榜しながらも、実はそれは組織化を前提としていることとは性質を異にする。

「指導者たちが市民社会を失望させてきた、それと同じくらい、市民社会も指導者たちを失望させてきたのではないだろうか。わたしたちは認めなくてはならない、自分たちの議会民主主義に危険で組織的な欠陥があるということを。」

「わたしたちの戦略、それはたんに<帝国>に立ち向かうだけでなく、それを包囲してしまうことだ。その酸素を奪うこと。恥をかかせること。馬鹿にしてやること。わたしたちの芸術、わたしたちの音楽、わたしたちの文学、わたしたちの頑固さ、わたしたちの喜び、わたしたちのすばらしさ、わたしたちのけっして諦めないしぶとさ、そして、自分自身の物語を語ることのできるわたしたちの能力でもって。わたしたちが信じるようにと洗脳されているものとは違う、わたしたち自身の物語。」

「むしろわたしたちの戦略は、<帝国>を動かす部品がどこにあるかを見きわめ、それをひとつずつ役に立たなくさせていくことにある。どんな標的も、小さすぎる、ということはない。どんな些細な勝利も、意味を持たない、ということはない。」

●参照
吉田敏浩氏の著作 『反空爆の思想』『民間人も「戦地」へ』
戦争被害と相容れない国際政治
太田昌国『暴力批判論』を読む
イラクの「石油法」
中東の今と日本 私たちに何ができるか(2010/11/23)
ソ連のアフガニスタン侵攻 30年の後(2009/6/6)
中島岳志『インドの時代』
アントニオ・ネグリ『未来派左翼』(上)
アントニオ・ネグリ『未来派左翼』(下)