鈴木志郎康の16ミリによる小品、『隠喩の手』(1990年)を観る。
タイトル画面。「暗喩の手」、「隠喩の手」。「暗」、「隠」。「ア・イ」。「ア・イ・ウ・エ・オ」。ごちゃごちゃした仕事机、キース・ジャレットのアメリカン・カルテットがBGMに流れる。ドアの覗き穴から外を視たのだろう、円周魚眼のように住宅と空が見える。彼の写真集『眉宇の半球』にも共通する、自らを閉じ込めるのか、世界を自らに閉じ込めるのか、回帰的世界である。
そして彼は自らの手を凝視する。手は不思議なものだ、しかし手を見てはいけない、と。それはそうだ。誰だって自分の手を見れば見るほど、この奇妙な生命体が何やらわからなくなってくる。そしてすべての手は異なっている。ちょうど、三木富雄が耳に憑りつかれて、巨大な耳を作り続けたように。
原稿用紙に詩を書きつける手仕事。コダクローム40の箱を開け、ダブル8のカメラに装填する手仕事。スムーズにはできない小さなもの、息遣いまで収録されている。そして現像されたフィルムは、片側のパーフォレーションにかなりの面積を占有され、冗談のように小さな画面が残っている。
8ミリでも、ここがダブル8とスーパー8/シングル8との大きな違いだ。スーパー8/シングル8はもともと片側にパーフォレーションがあり、片道通行である。画面面積もダブル8よりやや広い。ダブル8は16ミリ幅があり、半分ずつ往復撮影して現像時に半分に切断される。いかにも効率が悪いが、変ったカメラが多く、いつかは使ってみたいと思い続けていた。そのうちに、スーパー8ともどもコダクロームが消滅してしまった。
この映画は16ミリのボレックス(ジョナス・メカス!)で撮られているが、鈴木志郎康の作品を観るたびに、8ミリという小型世界への愛情を見せつけられる。そのたびに思い出すのは8ミリに向けられた吉増剛造の言葉。
「脈動を感じます。それはたぶん8ミリのもっているにごり、にじみから来るのでしょう」(『8ミリ映画制作マニュアル2001』、ムエン通信)
●参照
○鈴木志郎康『日没の印象』