Sightsong

自縄自縛日記

山本義隆『福島の原発事故をめぐって』

2011-08-28 10:03:35 | 環境・自然

山本義隆『福島の原発事故をめぐって いくつか学び考えたこと』(みすず書房、2011年)を読む。大学アカデミズムの世界を去ってのち、社会批判は科学史を通じてのみ発信してきた山本氏だが、ここにきて、福島原発事故をテーマにした書を出した。私も驚き発売を心待ちにしていた。

もともと薄い雑誌『みすず』に寄稿する予定であった、短いものである。それだけに、全て極めて真っ当で正鵠を射ており、かつ、原子力を科学技術の原理と歴史のなかに位置づけてみせるのは著者ならではだ。怒りをもって山本氏が前面に出てきた理由は何か、おそらくは声をあげずにはいられなかったのだろう。読んでいると泣きそうにさえなってくる。千円と廉価な小冊子、あらゆる人に読んでほしい。

こんなことが書かれている。

○「原子力の平和利用」を錦の御旗にした日本への原子力導入は、当初から、核兵器技術の保有を視野に入れたパワー・ポリティクスそのものであった。メディアも科学者もそのことに対してあまりにも鈍感であった。
○原子力の経済的収益性技術的安全性よりも、外交・安全保障政策こそが重視され、前者の実状は国家主導のもと全体主義的に隠蔽された。そして異を唱える声は、それが現場からのものであっても、徹底的に排除された
○原子力技術は他の技術と異なり、有害物質をその発生源で技術的に無害化することも、現実的なタイムスケールで保管しておくことも不可能である。そのような未熟な技術を試行錯誤しながら使い続けることは犯罪である。
○原発の要素技術については「技術神話」が成り立つかもしれないが、誰一人として全体を把握していない原発という巨大システムについては、それは成立しない。
○国策としての巨大科学技術推進が原子力ファシズムを生み、暴走に至った。原子力技術は人間の手によって制御できないものであることを認識しなければならない。
○日本は大気圏で原爆実験を行った米国や旧ソ連とならんで、放射性物質の大量放出の当事国になってしまった。こうなった上は、世界での教訓の共有、事故の経過と責任をすべて明らかにし、そのうえで脱原発・脱原爆のモデルを世界に示すべきだ。

「・・・現在生じている事態は、単なる技術的な欠陥や組織的な不備に起因し、それゆえそのレベルの手直しで解決可能な瑕疵によりものと見るべきではない。(略) むしろ本質的な問題は、政権党(自民党)の有力政治家とエリート官僚のイニシアティブにより、札束の力で地元の反対を押しつぶし地域社会の共同性を破壊してまで、遮二無二原発建設を推進してきたこと自体にある」

●参照(山本義隆)
山本義隆『熱学思想の史的展開 1』
山本義隆『熱学思想の史的展開 2』
山本義隆『熱学思想の史的展開 3』
山本義隆『知性の叛乱』

●参照(原子力)
『これでいいのか福島原発事故報道』
有馬哲夫『原発・正力・CIA』
『大江健三郎 大石又七 核をめぐる対話』、新藤兼人『第五福竜丸』
原科幸彦『環境アセスメントとは何か』
『科学』と『現代思想』の原発特集
『核分裂過程』、六ヶ所村関連の講演(菊川慶子、鎌田慧、鎌仲ひとみ)
『原発ゴミは「負の遺産」―最終処分場のゆくえ3』
使用済み核燃料
石橋克彦『原発震災―破滅を避けるために』


高柳昌行1982年のギターソロ『Lonely Woman』、『ソロ』

2011-08-28 00:15:41 | アヴァンギャルド・ジャズ

高柳昌行についてはさほど熱心なファンでもないのだが、今年、『ソロ』(JINYADISC、1982年)が発掘公表されたというので入手した。1982年12月、横浜エアジンでのライヴ録音であり、実は、同年8月にスタジオ録音されたギターソロ、『Lonely Woman』(VIVID SOUND、1982年)の4ヶ月後にあたる。

演奏曲はほとんど共通しているが、聴き比べてみると随分異なる。12月のエアジンでの演奏前にも、「今日はレコーディングした8月から4ヶ月経つのでレコードとは中身が全然違うわけです。だからレコードを買って聴いていらっしゃる方はあまりに違うので驚かれると思います」との挨拶をしている。もっとも、稀代の即興演奏家・高柳のことゆえ当然かもしれない。

オーネット・コールマンの「Lonely Woman」では、12月版ではなかなかテーマメロディーが現れず、リー・コニッツ『Motion』と同様に、即興演奏があるところまで行きついてしまった感がある。そのコニッツの「Kary's Trance」では、8月版が恐る恐る(と言って悪ければ、慎重に)抽象的な構造物を組み上げる緊張感を持つのに比べ、12月版ではより手慣れた感じで、構造物の裾野を拡げてみせている。チャーリー・ヘイデンの「Song for Che」でも、そしてコニッツの師匠格にあたるレニー・トリスターノの「Lennie's Pennies」でも、12月版は8月版よりも太く迫力のある音で攻めている。

ソロに先立つ3年前、『Cool Jojo』(TBM、1979年)においても「Lennie's Pennies」が演奏されている。そこでは、ギター+ピアノトリオという編成のこともあって、随分とスインギーだ。逆に高柳のソロの特色が浮き出てくる。

ノイジーなバンドの高柳音楽では意識しないが、高柳のギターはグラント・グリーンにも共通する、太くホーンのような音を持つ。別に初期の『銀巴里セッション』(1963年)における「グリーンスリーブス」演奏が異色なわけではない。それが、牛刀を使うように、ある種の覚悟を持って一音一音を繰り出していくことによって、さらなる迫力を生んでいる。たまのエフェクトや和音には、それだけに、安堵させられる。

『ソロ』には、特典CDとして『中途半端が何かを狂わす』と題された1989年12月の高柳のスピーチ録音が付けられていた。聴客の無理解に苛立ちを隠さない、怒気を孕んだ肉声である。妥協を許さないといえば聞こえはいいが、気難しい人だったのだろうか。渋谷毅オーケストラが、その誕生においては高柳オーケストラであったことはよく知られている。彼が急逝せず音楽活動を続けていたなら、このオーケストラはどのように発展したのだろう。

●参照
翠川敬基『完全版・緑色革命』