大島渚によるテレビドキュメンタリー『忘れられた皇軍』(1963年)が、「NNNドキュメント'14」の枠で再放送された。快挙といえる。
日本占領下の朝鮮あるいは日本において徴用された朝鮮人たちは、「天皇の赤子」として、日本軍の一員となった。しかし、敗戦後、戸籍によって国籍を定められた。
このことは、国家が国民をどのように支配し、あるいは排除してきたかを考える上での観点となる。(内海愛子氏、植民地文化学会・フォーラム『「在日」とは何か』 >> リンク)
そして、責任や賠償を論じる前提として<国籍>が置かれ(憲法も、審議段階で、その対象を人から国民へと変更した)、そのために、朝鮮など植民地支配下の住民、強制連行・強制徴用した住民、慰安婦など、そのカテゴリーから外れた(外された)人びとへの戦後の待遇が理不尽なものとなった。(波多野澄雄『国家と歴史』、中公新書、2011年 >> リンク)
『忘れられた皇軍』には、自らの窮状とあまりにも不公平な国家の扱いを訴える、在日コリアンの傷痍軍人たちが登場する。日本政府からは、ろくな補償を受けることができず、当時、ならば国籍主義に則り韓国政府に訴えてはどうかと言われたという。しかし、被占領下にあった国の政府がその責任を負うということは、そもそも誤りであった。
カメラは、日本の軍人として負傷し、失明し、顔に火傷の痕が残り、片手を失った人の姿に迫る。まさに、カメラも加害者だという大島渚の言葉通りに迫る。その迫力は今観ても(今観るからこそ)、凄まじいものだ。
映像は何度も問いかける。「日本人たちよ、これでいいのだろうか。わたしたちよ、これでいいのだろうか。」と。もちろん、よくはない。番組に登場した田原総一郎氏が言うように、このドキュメンタリーは、日本人の加害性という歴史と、そこから目を背ける日本人の欺瞞を突くものであった。
なお、『忘れられた皇軍』は、すぐれた番組を対象とした「ギャラクシー賞」(放送批評懇談会)の第一回を受賞している。そして2012年度の受賞作品のひとつは、琉球朝日放送・三上智恵ディレクターによる『標的の村』(>> 映画版、テレビ版)であった。50年を経てなお、大きな暴力への視線が求められているのだということができるだろうか。
●大島渚
○大島渚『青春の碑』(1964年)
○大島渚『アジアの曙』(1964-65年)
○大島渚『大東亜戦争』(1968年)
○大島渚『新宿泥棒日記』(1969年)
○大島渚『少年』(1969年)
○大島渚『夏の妹』(1972年)
○大島渚『戦場のメリークリスマス』(1983年)
●NNNドキュメント
○『ルル、ラン どこに帰ろうか タンチョウ相次ぐ衝突死』(2013年)
○『狂気の正体 連合赤軍兵士41年目の証言』(2013年)
○『活断層と原発、そして廃炉 アメリカ、ドイツ、日本の選択』(2013年)
○『沖縄からの手紙』(2012年)
○『八ッ場 長すぎる翻弄』(2012年)
○『鉄条網とアメとムチ』(2011年)、『基地の町に生きて』(2008年)
○『風の民、練塀の町』(2010年)
○『沖縄・43年目のクラス会』(2010年)
○『シリーズ・戦争の記憶(1) 証言 集団自決 語り継ぐ沖縄戦』(2008年)
○『音の記憶(2) ヤンバルの森と米軍基地』(2008年)
○『ひめゆり戦史・いま問う、国家と教育』(1979年)、『空白の戦史・沖縄住民虐殺35年』(1980年)
○『毒ガスは去ったが』(1971年)、『広場の戦争展・ある「在日沖縄人」の痛恨行脚』(1979年)
○『沖縄の十八歳』(1966年)、『一幕一場・沖縄人類館』(1978年)、『戦世の六月・「沖縄の十八歳」は今』(1983年)