岡田英弘『世界史の誕生 モンゴルの発展と伝統』(ちくま文庫、原著1992年)を読む。
独特な歴史観につらぬかれた本である。従来の歴史というものは、ヨーロッパ史、中国史、日本史のように別々に形作られてきた。しかし、それらは世界全体をカバーしているわけでは勿論なく、そのために交流史や地域史が存在したのだとは言え、「横串」的な歴史が存在しなかったのだとする。その横串こそが、本書においては、遊牧民であり、トルコである。
たしかに、文字通りの世界帝国を築いたモンゴルが、中国の王朝のひとつとして扱われるのは、極めてアンバランスである。インドやイランやロシアまでもが、モンゴルの継承国家であるとする視点には、納得できるところがある。また、流通や経済のシステムをつくりだした功績についても、その通りだろう。(このあたりは、杉山正明『クビライの挑戦 モンゴルによる世界史の大転回』に詳しい。)
しかし、返す刀で、中国を貶める言説は、かなり強引な「ためにする議論」そのものだ。たしかに隋も唐も遊牧騎馬民族・鮮卑の王朝であり、元も清も中国人による王朝ではない。だがそのことは、著者のいうように、「被支配階級」たる中国に歪みが生まれたという文脈で捉えるべきことではないだろう。
著者の言うように、このことが「中国人は武力では「夷狄」に劣るが、文化では「夷狄」に勝るのだと主張したがるようになった」=「中華思想」であるとか、「支配階級のほうが被支配階級よりも高い生活水準を享受し、従って文化の程度も高いことは当たり前」であるとか主張するに至っては、ほとんど理解不能である。ましてや、ロシアや中国は大陸国家であり、また社会主義が崩壊したから、「資本主義はまず成功しないであろうし、経済成長で先進国に追い付くこともまず期待できない」とまで書いている。独自史観の限界である。
思想は本来、敗北者のものである(白川静『孔子伝』)。勿論、これだってひとつの言い方に過ぎない。