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自縄自縛日記

岡田英弘『世界史の誕生 モンゴルの発展と伝統』

2014-01-26 22:42:56 | 北アジア・中央アジア

岡田英弘『世界史の誕生 モンゴルの発展と伝統』(ちくま文庫、原著1992年)を読む。

独特な歴史観につらぬかれた本である。従来の歴史というものは、ヨーロッパ史、中国史、日本史のように別々に形作られてきた。しかし、それらは世界全体をカバーしているわけでは勿論なく、そのために交流史や地域史が存在したのだとは言え、「横串」的な歴史が存在しなかったのだとする。その横串こそが、本書においては、遊牧民であり、トルコである。

たしかに、文字通りの世界帝国を築いたモンゴルが、中国の王朝のひとつとして扱われるのは、極めてアンバランスである。インドやイランやロシアまでもが、モンゴルの継承国家であるとする視点には、納得できるところがある。また、流通や経済のシステムをつくりだした功績についても、その通りだろう。(このあたりは、杉山正明『クビライの挑戦 モンゴルによる世界史の大転回』に詳しい。)

しかし、返す刀で、中国を貶める言説は、かなり強引な「ためにする議論」そのものだ。たしかに隋も唐も遊牧騎馬民族・鮮卑の王朝であり、元も清も中国人による王朝ではない。だがそのことは、著者のいうように、「被支配階級」たる中国に歪みが生まれたという文脈で捉えるべきことではないだろう。

著者の言うように、このことが「中国人は武力では「夷狄」に劣るが、文化では「夷狄」に勝るのだと主張したがるようになった」=「中華思想」であるとか、「支配階級のほうが被支配階級よりも高い生活水準を享受し、従って文化の程度も高いことは当たり前」であるとか主張するに至っては、ほとんど理解不能である。ましてや、ロシアや中国は大陸国家であり、また社会主義が崩壊したから、「資本主義はまず成功しないであろうし、経済成長で先進国に追い付くこともまず期待できない」とまで書いている。独自史観の限界である。

思想は本来、敗北者のものである(白川静『孔子伝』)。勿論、これだってひとつの言い方に過ぎない。


廣瀬純トークショー「革命と現代思想」

2014-01-26 10:03:28 | 思想・文学

廣瀬純氏によるトークショーを聴くため、御茶ノ水の「ESPACE BIBLIO」に足を運んだ。氏は『アントニオ・ネグリ 革命の哲学』を出したばかりであり、トークショーも、ネグリとフランス思想家たちとの比較、さらにマキャヴェッリ思想への視線が主題とされた。

要旨は以下のようなもの。(※当方の解釈による文章)

フランス現代思想とは、革命についての思想であった。彼らは、革命のことを<出来事>と呼んだ。(市田良彦『革命論』でもそう使われている。)
ランシエールは、すべての者がすべてについて語るべきだとした。バディウは、革命を天から降ってくるようなものだとした。バリバールは、革命は力の錯綜によって成るものであり、バディウとは異なり、向こう側の力に頼らないのだとした。ドゥルーズは、人びと自体が革命となることを説いた。フーコーは、<自己への配慮>、すなわち、政治や倫理を同じ次元に置いて、ドゥルーズと同様に、個人の革命を考えた。デリダは、革命の先送りに革命を見た。
○彼らを比較してみると、ランシエールを除き、<情勢>のもとで思考すべきだという共通点がある。
○バディウは、現代資本主義社会は野蛮そのものであり、革命を導き出すようなものは何一つない、ゆえに、待っていることだとした。対照的に、バリバールは、<情勢>の中に力を見出しうると考えた。
○ドゥルーズの<情勢>における不可能性についての考え方も、バディウに似てはいる。しかし、彼は、革命の可能性がないこと自体を力にして、不可能性の間を縫うような形で、ひとりひとりの中での革命を行うことを考えた。
○フーコーは、内的な領域まで侵入している権力を見極めつつ、それゆえに、権力の中に、自己の自由があるのだとした。
○従って、バディウを除き、バリバール、ドゥルーズ、フーコーは、革命を導く力を<情勢>の中に見いだすことを考えていた。<情勢>をみれば革命は可能か不可能か、不可能だとすれば、可能性をつくりだすモデルが必要となる。
○ドゥルーズによる、ジョン・マッケンローについての例え話が面白い。マッケンローは、サーブをすると、リターンに備えて融通の効く場所に身を置くのではなく、ただちにネットに駆け寄っていた。それにより、自ら、ニッチもサッチもいかなくなるような状況をつくりあげていた。実は、これは客観世界の分析による行動では全くない。しかし、そうしなければ次の突破点がみえてこない。
○フーコーにとっての、権力のなかで敢えて見いだす<自由>にも、同様の意味がある。
○すなわち、ドゥルーズとフーコーに共通する考えは、<存在論>と<主体性>との連結が<革命論>だということだ。そしてこれは、彼らの先生たるアルチュセールの思想でもあった。ネグリにも共通している。
○逆に、<主体性>を見出さないランシエール、バディウ、バリバールは、彼らよりも一世代下である。これには、<1968年>の悪影響があるのではないか?
※生年 アルチュセール(1918年)、ドゥルーズ(1925年)、フーコー(1926年)、デリダ(1930年)、バディウ(1937年)、ランシエール(1940年)、バリバール(1942年)、そしてネグリ(1930年)
○一般的に、アルチュセールの思想は、前期(キリスト教的なヒューマニズム)、中期(ヒューマニズムをブルジョアのイデオロギーとして否定、<主体>なきプロセスをとらえた)、後期(理論への自己批判)と変遷している。一見、中期は<情勢>のみを見た議論でありバリバール的だが、実は、<主体性>をとらえる萌芽があった。ネグリは、中期から後期への移行は、マキャヴェッリの読解によって可能になったのではないかと見ている。
○マキャヴェッリが『君主論』を書いた16世紀は、イタリアは諸権力により分裂しており、統一など考えようもないような状況だった。まさに<アトムの雨>が降っていた。アルチュセールは、その雨の中を、右や左に移動するマキャヴェッリの姿を見たのだった。
○すなわち、『君主論』は、これからなされるべき<革命>への書=マニフェストであった。中世から近代への移行、封建権力の解体を、それがまるで存在しないうちに、事前に語るものであった。呼びかけの書という意味では、マルクス=エンゲルス『共産党宣言』とも共通するが、『共産党宣言』は、その時点で革命後の要素が存在していた。『君主論』は、その実現に向けた要素がなにひとつない時に書かれたのである。
○ネグリは(アルチュセールは)考える。<アトムの雨>あるいは惨状こそが、不可能のみで満ち満ちている<情勢>こそが、実は、<運命のもたらす好機>なのだ、と。
○<情勢>のもとで思考するのだが、<情勢>のみによって判断するのではない。また、<情勢>に向かって思考するのではない(それはユートピア論だ)。来るべき革命は、<情勢>と<主体性>との偶然の出会いからなる。しかしそれは、いつどのように来るのかわからない。開かれているわけである。
○ネグリは<マルチチュード>を説く。しかし、分散化した力が仮に国民的統一をもたらし、あらたに構成された権力を生み出すとき、<マルチチュード>は抑制され、力が奪われるのではないか、とする批判がある。このことは、フーコーやドゥルーズが、<情勢>の不可能性に対峙して、個人の革命を思考したことにも関係する。それに対し、ネグリは、頑なに<集団>を言い張っている。その理屈は不明であり、ほとんど狂気と言ってもよい。しかし、これが、ネグリにとって、マキャヴェッリを超える思考なのではないか。

 ■

世界の客観的な分析(<情勢>)は縮小均衡を受け容れることであり、そこから先に、何が待っているかわからないが(わかっていれば<情勢>分析であるから)、<主体性>を打ち出していくことが革命であるとの思考回路は、なるほど、共感できる。

しかし、確かにそれは狂気や妄想と紙一重のようにも思える。スラヴォイ・ジジェクが、饒舌に難題ばかりを語ったあとに、しかし希望は信じてフロントに身を置くことだと書いているのを読んだとき(『2011 危うく夢見た一年』『ポストモダンの共産主義―はじめは悲劇として、二度目は笑劇として』)、わたしは呆れたのだったが、実はそれに近いことを言っているのかもしれない。

また、これまで、ネグリの言う<マルチチュード>が、個人の力ではなくあくまで組織化を前提としているように思え、違和感を覚えていたのだったが、その点についての言及もあった。たんにヴィジョナリーなのか、ナイーヴなのか、狂気なのか?

●参照
廣瀬純『闘争の最小回路』
アントニオ・ネグリ『未来派左翼』(上)(2008年)
アントニオ・ネグリ『未来派左翼』(下)(2008年)
アントニオ・ネグリ講演『マルチチュードと権力 3.11以降の世界』(2013年)
ミシェル・フーコー『狂気の歴史』(1961年)
ミシェル・フーコー『知の考古学』(1969年)
ミシェル・フーコー『ピエール・リヴィエール』(1973年)
ミシェル・フーコー『監獄の誕生』(1975年)
ミシェル・フーコー『コレクション4 権力・監禁』
ミシェル・フーコー『わたしは花火師です』(1970年代)
桜井哲夫『フーコー 知と権力』
重田園江『ミシェル・フーコー』
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー』(下)(1980年)
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー』(中)(1980年)
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー』(上)(1980年)
ジル・ドゥルーズ『フーコー』(1986年)
ジル・ドゥルーズ+クレール・パルネ『ディアローグ』(1996年)
ジャック・デリダ『死を与える』(1999年)
ジャック・デリダ『アデュー エマニュエル・レヴィナスへ』(1997年)
ジャック・デリダ『言葉にのって』(1999年)