冨山一郎『流着の思想 「沖縄問題」の系譜学』(インパクト出版会、2013年)を読む。
名指しではないものの、おそらくは、高橋哲哉『犠牲のシステム 福島・沖縄』(>> リンク)への批判がなされている。それは、ひとつには、そのような「論」を語ることの態度の非対称性に対する苛立ちからきているのではないか。すなわち、如何に真っ当な「論」であっても、それは、当事者とは異なる言葉で、饒舌に語られる。「言葉が異なる」、「身体が異なる」のである。
饒舌に語る者は、「沖縄」という名で呼ばれる沖縄について、その名を所与のものとして語る(歴史を踏まえたものであっても)。「沖縄」という名で呼ばれる沖縄にとっては、それ以前に、名を呼ばれるという暴力的な位相がある。オマエハナニモノダという問いが、既に、法を超えた、戒厳令下におけるような、暴力を孕んでいる。オマエハナニモノダと問われた者は、強迫的な、立ち位置の不断の取得を迫られる。それはアイデンティティということばで簡単に括ることができるようなものではない。
もちろんこのことは、当事者以外は当事者にかかる問題を語る資格がないということではない(そのような対応は自壊するだろう)。しかし、本書でも、それについてのスタンスは明確でないように見える。
オマエハナニモノダという暴力に対して、本書に挙げられているように、伊波普猷は分裂した態度を示した。現在の『古琉球』(>> リンク)のヴァージョンは伊波本人により幾度もの改訂がなされたものであり、例えば、以下の言葉も現在のヴァージョンには存在しないという(冨山一郎『伊波普猷を読むということ―――『古琉球』をめぐって』、『InterCommunication』No.46, 2003 所収)。
「只今申し上げたとほり一致してゐる点を発揮させることはもとより必要なことで御座ゐますが、一致してゐない点を発揮させる事も亦必要かも知れませぬ。」
沖縄も朝鮮も、傷痕を感知しながら、戒厳令下・植民地支配下を生き延びていく。日本による朝鮮統治時代を描いた、金達寿の『玄界灘』(青木書店、原著1953年・改稿1962年)を思い出してしまう(>> リンク)。主人公は、日本では朝鮮人であることを隠し、朝鮮では日本人の経営層のもと屈辱的な態度を強いられる、という、屈折した言動を行う。彼は、釜山から下関に渡る際に、こともあろうに日本人になりすまそうと試み、特高により「化け」だと見抜かれてしまう。
暴力は、それが絶えず発生し続ける位相から見出さなければならないということか。
「社会は単純に二つに分割されておらず、また暴力は二つの世界の間においてのみ作動するのではない。こうした二分割の単純化は、暴力を前にした思考の緊縮でしかない。こうした思考の緊縮は、沖縄であれ朝鮮であれ、帝国主義に支配された諸地域を犠牲者として囲い込んでしまい、作動していく暴力(=力)に見いだすべき可能性を押し隠してしまう。思考の緊縮により、死者は再度埋葬されるのである。」
●参照
○伊波普猷『古琉球』
○伊佐眞一『伊波普猷批判序説』
○伊波普猷の『琉球人種論』、イザイホー
○村井紀『南島イデオロギーの発生』
○高橋哲哉『犠牲のシステム 福島・沖縄』、脱原発テント
○金達寿『玄界灘』