積読だった、ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症』(上下、河出文庫、原著1972年)をようやく読む。
洗練された『千のプラトー』(1980年)と比べるとまだ粗削りな印象があるが、その分、世界を語りつくそうとするかのようなエネルギーを感じる書である。わたしのような者にはとても受け止めきれないから、これまでのように、音楽を聴くように、ドゥルーズ=ガタリの語りに身をゆだねる。そのような怠惰な付き合い方でも、かれらのヴィジョンを、文字通りイメージとして思い描くことができる。
家族や父母子といった言説は権力を伴うコードである。それはいつでも、少なくない者が、世界への拭い去ることができない違和感としてよく知っていることだ。フロイト流の精神分析によるエディプス神話も、さらにはエスや超自我といった構造も、コードへの愚鈍な固執の象徴なのである。すなわち、構造があってそれによる結果を語るのではなく、コードを形成しながらそのコードについて語る愚鈍さの飽くなき再放送。「それはあなたの父に対する深層心理ですね」「はっそうだった、私には父がいて、私は深層心理を抱いているのだった」というわけだ。
このヴィジョンからは、コードを逸脱し逃走線を描き続けるように、分裂症的に、あらゆるものに触手をのばし生産を行うことができる資本主義こそが、最強の社会システムなのだった。さらには、すでにこの時代において、新自由主義のからくりを見破るような記述もあることには驚かされてしまった。
●参照
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー』(上)
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー』(中)
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー』(下)
ジル・ドゥルーズ『フーコー』
ジル・ドゥルーズ+クレール・パルネ『ディアローグ』
フェリックス・ガタリ『三つのエコロジー』
廣瀬純『アントニオ・ネグリ 革命の哲学』
廣瀬純トークショー「革命と現代思想」
平井玄『彗星的思考』