Sightsong

自縄自縛日記

ジョナス・メカス(9) 『富士山への道すがら、わたしが見たものは……』、小口詩子『メカス1991年夏』

2015-12-27 19:45:08 | 小型映画

西荻窪のtoki/GALLERY分室に足を運び、久しぶりに、ジョナス・メカスのフィルムを観る。

『富士山への道すがら、わたしが見たものは……』(1996年)

1991年、メカスは日本を旅した。そのときにボレックスにより撮られたフッテージによる作品である。嬉しいことに16ミリでの上映。

聞き覚えのないドラマーによるガジェットのような音の中、セリフ無しで、旅の視線が映し出される。浅草、新宿(ニコンサロンからの眺望だろうか)、名古屋、帯広、長浜ラーメンの屋台、丸の内、靖国神社、富士山。ソ連が崩壊の直前に侵攻したリトアニアの様子を報じるテレビ。吉増剛造氏、木下哲夫氏。

この激しいフリッカーに人々は魅せられ、おそらくは死と生とを見出している。わたしもこのフィルムが完成した1996年に、六本木シネ・ヴィヴァンにおいて、『リトアニアの旅の追憶』の洗礼を受け、メカスのことが頭から離れなくなった。小さいギャラリーに集まった若い20人ほどの人たちにとってはどうなのだろう。

ところで、映像の中で誰かが使っていたライカ・ミニルックスが欲しくなってしまったりして。

小口詩子『メカス1991年夏 NY、帯広、山形、リトアニア』(1994年)

同じときに、メカスとかれを受け入れた人たちを記録した映像。これはDVDによる上映だった。

ボレックスを勝手知ったる道具として、ときには玩具のように扱うメカスの姿。帯広、丸の内、山の上ホテル、神保町(メカスがペンを物色するのは、あの文具屋かな)、どこかの河原での芋煮、神田藪蕎麦、秋葉原、吉増氏、木下氏、鈴木志郎康氏、アイヌのムックリ、靖国神社、リトアニア語を話す村田郁夫氏。『リトアニアへの旅の追憶』における、古いブルックリンを撮ったフッテージ。『楽園のこちらがわ』のラスト、雪が降るフッテージ。メカスの著作『I Had Nowhere to Go』(『メカスの難民日記』)。

まるでメカスを偶像かペットであるかのように扱う様には違和感を覚える。それはそれとして、フリッカーはなくとも、やはりメカスの存在自体が、存在のフリッカーを起こさせる。吉増剛造氏が、メカスに「なぜあなたの作品は揺れ動く(shaky)のか」と尋ねたところ、答えは「私の人生がshakyだから」であったという。吉増氏は、そのあとも、「shakyな人」と呟いていた。印象的な表現だった。

●参照
ジョナス・メカス(1) 『歩みつつ垣間見た美しい時の数々』
ジョナス・メカス(2) 『ウォルデン』と『サーカス・ノート』、書肆吉成の『アフンルパル通信』
ジョナス・メカス(3) 『I Had Nowhere to Go』その1
ジョナス・メカス(4) 『樹々の大砲』
ジョナス・メカス(5) 『営倉』
ジョナス・メカス(6) 『スリープレス・ナイツ・ストーリーズ 眠れぬ夜の物語』、写真展@ときの忘れもの
ジョナス・メカス(7) 『「いまだ失われざる楽園」、あるいは「ウーナ3歳の年」』
ジョナス・メカス(8) 『ファクトリーの時代』
アンディ・ウォーホルのファクトリー跡
チャールズ・ヘンリー・フォード『Johnny Minotaur』をアンソロジー・フィルム・アーカイヴズで観る
ジョルジュ・メリエスの短編集とアンソロジー・フィルム・アーカイヴズの知的スノッブ
鈴木志郎康『結局、極私的ラディカリズムなんだ』


今井和雄 デレク・ベイリーを語る@sound cafe dzumi

2015-12-27 09:57:08 | アヴァンギャルド・ジャズ

吉祥寺のsound cafe dzumiが年末で店をたたんでしまう、しかも最後のイベントは「今井和雄 デレク・ベイリーを語る」だということで、足を運んだ(2015/12/26)。

狭い空間に30人くらいがぎゅうぎゅうに詰め合うように座った。これほど集まったのは、大友良英のライヴ(開店時)、バール・フィリップスのライヴ以来だとのことだった。

今井さんはたくさんのCDと試奏用のギターを持って現れ、音源を再生したり、デレク・ベイリーの奏法を弾いてみたりしながら、ベイリーの音楽について語った。横に座った店主の泉さんが、ときどきツッコミを入れる。場は大変盛り上がり、1時間延長して終わった。

テーマは、主に、アントン・ウェーベルンの12音技法がデレク・ベイリーに与えた影響、時代的な背景、そして、それを即興演奏に反映することを可能としたベイリーの確かな演奏の技量。

◆◆◆

曰く。

あるとき、今井さんはデレク・ベイリーが書いたスコアを入手した。それはのちに、ベイリーの『Pieces for Guiter 1966-67』のジャケット裏にも印刷されたものであり、ウェーベルンの12音技法からの影響が如実に表れたものだった。1オクターブ内の12音階による調性から逸脱すべく、12の音符を平等に扱い、さらにそこから複数の音列を作成し、組み合わせる技法である。

もとより、ベイリーはジャズやブルースが好きでなかったのだろう。ギャビン・ブライヤーズ、トニー・オクスレーと組んだ「Joseph Holbrooke」によるシングルカット盤『Joseph Holbrooke in rehearsal 1965』が残っているが、演奏している曲はなぜかジョン・コルトレーンの「Miles' Mode」。かれはアメリカのフリージャズとは異なる世界へと進んで行く。

ベイリーの技法は、無調や12音技法など調性からの逸脱に加え、ギターならではの特徴を活かしたものだった。隣同士の半音を多用し音を混ぜ、音楽の中心がわからなくなること。1オクターブ跳躍するメジャー7th。弦に触れながら弾くハーモニクス。これらによる跳躍の幅の広さ。「ジム・ホールが好きだ」というかれは、紛れもないギタリストであった(なお、ベイリーも、やはりホールを愛好した高柳昌行も、ホールも、ほぼ同世代である)。

調性とはロマンティックな世界でもあり、そこからの逸脱は、自ら規制を課して、その中で如何に即興を多様化するかというものであった。1960年代という時代には、多くの音楽家たちがそれを実践した。

●ジミー・ジュフリー『Free Fall』(1962年)。その前年からポール・ブレイを入れたトリオを組んだ。
●ガンサー・シュラー(ジョン・ルイス『Jazz Abstractions』(1961年)、エリック・ドルフィー『Vintage Dolphy』(1962-63年))。シュラーは12音技法をジャズに取り入れようとした。コードについてまるで理解していなかったオーネット・コールマンは、シュラーのもとに8か月通った。
●アルバート・アイラー『In Greenwich Village』(1967年)における「For John Coltrane」。背後の響きはまさにこのような雰囲気。アイラーの吹き方も、ペーター・ブロッツマンなどその後のヨーロッパ的な吹き方。管楽器により「ブヒッ」と吹くことで、技法的な跳躍とは異なる形で調性感から逸脱したのだった。
●『John Cage & David Tudor』(1965年)。
●MEV (Musica Elettronica Viva)(1966年~)。
●AMM『AMM Music 1966』(1966年)。今井さんは師匠の高柳昌行に貸したことがあるのだという。
●Nuova Consonanza。エンニオ・モリコーネも、映画音楽に進む前に所属し、作曲やトランペット演奏も行っていた。
●Terry Riley『In C』(1964年)。34のパターンに分け、各演奏者は次のパターンに移ってもよいという即興演奏。
●小杉武久。

高柳昌行は、日本にあってやはりフリージャズからのアプローチを取っていたものの、独自の即興に対するコンセプトを持っていた。氏は今井さんを含む弟子に基本的な技術のみを教え、音楽は自分で獲得するものだというスタンスであった。技術がなければ即興音楽も実現しにくい。日本において即興演奏といえば、規制のない思い付きのように捉えられるが、今井さんは、それは違うという。ベイリーもその地平に立っていた。

◆◆◆

残念ながら、sound cafe dzumiもこれで見納めだ。

●参照
今井和雄、2009年5月、入谷
齋藤徹+今井和雄『ORBIT ZERO』(2009年)
バール・フィリップス@歌舞伎町ナルシス(2012年)(今井和雄とのデュオ盤)
デレク・ベイリー晩年のソロ映像『Live at G's Club』、『All Thumbs』
ウィレム・ブロイカーが亡くなったので、デレク・ベイリー『Playing for Friends on 5th Street』を観る
犬童一心『メゾン・ド・ヒミコ』、田中泯+デレク・ベイリー『Mountain Stage』
デレク・ベイリー『New Sights, Old Sounds』、『Aida』
デレク・ベイリー+ジョン・ブッチャー+ジノ・ロベール『Scrutables』
デレク・ベイリーvs.サンプリング音源
デレク・ベイリーの『Standards』
『Improvised Music New York 1981』
1988年、ベルリンのセシル・テイラー
ペーター・コヴァルトのソロ、デュオ
ジャズ的写真集(6) 五海裕治『自由の意思』
トニー・ウィリアムスのメモ


汪暉『世界史の中の東アジア』

2015-12-27 01:00:14 | 中国・台湾

テヘランに居る間に、汪暉『世界史の中の東アジア 台湾・朝鮮・日本』(青土社、2015年)を読んだ。(何しろ酒を飲まず、ネットも規制されていてあまりつながらず、ホテルが市街から離れていて渋滞がひどいとなれば、読書くらいしかすることがないのだ。)

本書は、『世界史のなかの中国』(2011年)の続編的な本である。前作では、ファジーに周辺を支配する中国の<天下>概念を用いて、中国による琉球やチベットの支配をずいぶんと肯定的に説いていて、驚かされたものだった。

そして本書で依拠するものは、毛沢東理論など、中国という国家を形成した精神のようなものである。しかしそれは、無批判なプロパガンダではない。むしろ、国家のあるべきかたちを不断に問い直してきたはずの理論、精神、政党が、国家そのものと化してしまったことに対する根本的な批判である。

政党の国家化という<脱政治化>、あるいは政治の劣化を認めたとして、次に来るべき<ポスト政党政治>とは何か。つまり政治を取り戻すためには何が注目されるべきか。ここで著者は、かつての社会主義のように階級を敢えてつくりだすことを<ポスト政党政治>だとはしない。そうではなく、政治の中において自主性を取り戻すこと、内部の関係を改造し続けることを説く。すなわちターゲットとなるべきものは資本主義の矛盾なのであって、キーワードとしては、環境、発展モデル、民族、文化的多様性などが挙げられている。大きな括りではあるが、確かに真っ当な視線である。

本書には、朝鮮戦争(1950年~)を中国史の中に位置づけ、国とアメリカとの代理戦争という観点でみた場合の論考や、台湾の「ひまわり運動」(2014年)を見る場合に、中国というアイデンティティ、新冷戦や新自由主義への加担などを可視化しなければならないという論考も含まれている。

●参照
汪暉『世界史のなかの中国』
汪暉『世界史のなかの中国』(2)