西荻窪のtoki/GALLERY分室に足を運び、久しぶりに、ジョナス・メカスのフィルムを観る。
■ 『富士山への道すがら、わたしが見たものは……』(1996年)
1991年、メカスは日本を旅した。そのときにボレックスにより撮られたフッテージによる作品である。嬉しいことに16ミリでの上映。
聞き覚えのないドラマーによるガジェットのような音の中、セリフ無しで、旅の視線が映し出される。浅草、新宿(ニコンサロンからの眺望だろうか)、名古屋、帯広、長浜ラーメンの屋台、丸の内、靖国神社、富士山。ソ連が崩壊の直前に侵攻したリトアニアの様子を報じるテレビ。吉増剛造氏、木下哲夫氏。
この激しいフリッカーに人々は魅せられ、おそらくは死と生とを見出している。わたしもこのフィルムが完成した1996年に、六本木シネ・ヴィヴァンにおいて、『リトアニアの旅の追憶』の洗礼を受け、メカスのことが頭から離れなくなった。小さいギャラリーに集まった若い20人ほどの人たちにとってはどうなのだろう。
ところで、映像の中で誰かが使っていたライカ・ミニルックスが欲しくなってしまったりして。
■ 小口詩子『メカス1991年夏 NY、帯広、山形、リトアニア』(1994年)
同じときに、メカスとかれを受け入れた人たちを記録した映像。これはDVDによる上映だった。
ボレックスを勝手知ったる道具として、ときには玩具のように扱うメカスの姿。帯広、丸の内、山の上ホテル、神保町(メカスがペンを物色するのは、あの文具屋かな)、どこかの河原での芋煮、神田藪蕎麦、秋葉原、吉増氏、木下氏、鈴木志郎康氏、アイヌのムックリ、靖国神社、リトアニア語を話す村田郁夫氏。『リトアニアへの旅の追憶』における、古いブルックリンを撮ったフッテージ。『楽園のこちらがわ』のラスト、雪が降るフッテージ。メカスの著作『I Had Nowhere to Go』(『メカスの難民日記』)。
まるでメカスを偶像かペットであるかのように扱う様には違和感を覚える。それはそれとして、フリッカーはなくとも、やはりメカスの存在自体が、存在のフリッカーを起こさせる。吉増剛造氏が、メカスに「なぜあなたの作品は揺れ動く(shaky)のか」と尋ねたところ、答えは「私の人生がshakyだから」であったという。吉増氏は、そのあとも、「shakyな人」と呟いていた。印象的な表現だった。
●参照
ジョナス・メカス(1) 『歩みつつ垣間見た美しい時の数々』
ジョナス・メカス(2) 『ウォルデン』と『サーカス・ノート』、書肆吉成の『アフンルパル通信』
ジョナス・メカス(3) 『I Had Nowhere to Go』その1
ジョナス・メカス(4) 『樹々の大砲』
ジョナス・メカス(5) 『営倉』
ジョナス・メカス(6) 『スリープレス・ナイツ・ストーリーズ 眠れぬ夜の物語』、写真展@ときの忘れもの
ジョナス・メカス(7) 『「いまだ失われざる楽園」、あるいは「ウーナ3歳の年」』
ジョナス・メカス(8) 『ファクトリーの時代』
アンディ・ウォーホルのファクトリー跡
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