横田庄一郎『チェロと宮沢賢治 ゴーシュ余聞』(岩波現代文庫、原著1998年)を読む。
宮沢賢治の童話は魅力に満ちていて、また、底知れぬわけのわからなさもある。読んでいる間に想像力を飛翔させるというよりも、いつの間にか脳のある部分にそれらの断片が貼りついていて、思いがけず奇妙な情景が浮かんでくる力を持った作品が多い。「わびさび」とは対極にある世界だとはよく言ったものだ。
「セロひきのゴーシュ」もそのような童話である。町の映画館でチェロ(セロ)を弾く係のゴーシュは、頑張っているのにどうも腕前がいまひとつで、楽長にいじめられては悔し涙を流している。そんなゴーシュが住む水車小屋に、三毛猫や、かっこうや、狸や、野ねずみがやってきては、かれのチェロにああだこうだとけちをつける。動物たちをあしらい、あるいは納得しながら練習していたゴーシュは、いつの間にか腕をあげていた。
シンプルに、素人の観点を取り入れてこその音楽だとか、多様なものを包み込んでこそ音楽が豊かになるのだとかいった解釈も可能である。またそれ以上に、ひとつひとつの表現がなんともいえず楽しく、読んでいると酩酊しそうになる。
「「えいこんなばかなことしていたらおれは鳥になってしまうんじゃないか。」
とゴーシュはいきなりピタリとセロをやめました。
するとかっこうはどしんと頭をたたかれたようにふらふらっとしてそれからまたさっきのように、「かっこう かっこう かっこう かっかっ かっ かっ か。」と言ってやめました。」
『チェロと宮沢賢治』を読むと、「セロひきのゴーシュ」は、賢治の深いチェロ愛があったから生まれた作品だということがわかる。賢治はかなり上等なチェロを手に入れて、当時少なかった独習本で練習したり、東京に出て行って教わろうとした。それは大変な熱意だったのだが、腕前のほうは、最初のゴーシュと同じようにいまひとつであったようだ。しかし、その一方で、音楽への愛情と、音楽からインスピレーションを得て言葉を紡ぎだす能力とがあった。レコードコンサートをやりながら、その場で想像したものを滔々と話したりもしている。農民の中にあろうとしながらそれが叶わなかったことの疎外感や絶望も含め、そのようであったから、賢治の作品が残されている。
賢治が使ったチェロは補修・整備され、花巻市の宮沢賢治記念館にある。ヨーヨー・マも弾いたのだという。いつか実際に観てみたい。
●参照
ジョバンニは、「もう咽喉いっぱい泣き出しました」
6輌編成で彼岸と此岸とを行き来する銀河鉄道 畑山博『「銀河鉄道の夜」探検ブック』
小森陽一『ことばの力 平和の力』
吉本隆明のざっくり感