Sightsong

自縄自縛日記

チャーリー・ヘイデン+ヤン・ガルバレク+エグベルト・ジスモンチ『Magico』、『Carta De Amor』

2016-07-31 10:58:04 | アヴァンギャルド・ジャズ

チャーリー・ヘイデン、ヤン・ガルバレク、エグベルト・ジスモンチの3人によるグループ「Magico」。2012年に発掘された『Carta De Amor』(ECM、1981年)を飛行機のプログラムで聴いてため息をついていたものの、ちゃんとしたオーディオで再生していなかった。先日、caruaru44さんと渋谷の「串カツでんがな」で話をしていて思い出した。

Charlie Haden (b)
Jan Garbarek (ts, ss)
Egberto Gismonti (g, p)

『Magico』(ECM、1979年)での「Silence」や「Palhaco」、『Carta De Amor』での「La Pasionaria」や、やはり「Palhaco」など、ヘイデンの名曲の数々に胸が一杯になってしまう(本当)。「Palhaco」を比べても、どちらかと言えば演奏があとの後者において信頼感と成熟が増しているように感じるのだがどうだろう。この間に記録された同一メンバーによる『Folk Songs』(ECM、1979年)はどのような雰囲気なのだろう。

ガルバレクのサックスは、テナーでもソプラノでも、井戸できりきりに冷えた天然水のようで、たいへんな透徹感がある。また、ジスモンチの循環しながら物語を紡いでゆく素晴らしさといったらない。そしてヘイデンは、その残響で3人をつないでいるようだ。それにしても、大きな歓びを描き出す、凄いトリオだったのだな。

ところでガルバレクは健在なのだろうか。ヒリヤード・アンサンブルと共演した『Officium』(ECM、1993年)発表後の来日公演(東京芸術劇場)を観たっきりで、それは照明のひどさもあって最悪の印象しか残っていないのだが、そんなくだらないことでこの個性的なプレイヤーをあまり聴いていないのは勿体ないことだった。

●エグベルト・ジスモンチ
エグベルト・ジスモンチ@練馬文化センター(2016年)

●チャーリー・ヘイデン
アルド・ロマーノ『Complete Communion to Don Cherry』とドン・チェリーの2枚(1965、88、2010年)
パット・メセニーとチャーリー・ヘイデンのデュオの映像『Montreal 2005』(2005年)
チャーリー・ヘイデンとアントニオ・フォルチオーネとのデュオ(2006年)
アリス・コルトレーン『Translinear Light』(2000、04年)
Naimレーベルのチャーリー・ヘイデンとピアニストとのデュオ(1998、2003年)
ギャビン・ブライヤーズ『哲学への決別』(1996年)
チャーリー・ヘイデン+ジム・ホール(1990年)
ポール・ブレイ+チャーリー・ヘイデン+ポール・モチアン『Memoirs』(1990年)
ゴンサロ・ルバルカバ+チャーリー・ヘイデン+ポール・モチアン(1990年)
ジェリ・アレン+チャーリー・ヘイデン+ポール・モチアン『Segments』(1989年)
シャーリー・クラーク『Ornette: Made in America』 再見(1985年)
富樫雅彦『セッション・イン・パリ VOL. 1 / 2』(1979年)
70年代のキース・ジャレットの映像(1972、76年)
キース・ジャレットのインパルス盤(1975-76年)
キース・ジャレット『Arbour Zena』(1975年)
アリス・コルトレーン『Universal Consciousness』、『Lord of Lords』(1971、72年)
キース・ジャレット+チャーリー・ヘイデン+ポール・モチアン『Hamburg '72』(1972年)
オーネット・コールマン『Ornette at 12』(1968年)
オーネット・コールマンの最初期ライヴ(1958年)
スペイン市民戦争がいまにつながる

●ヤン・ガルバレク
ヨーロッパ・ジャズの矜持『Play Your Own Thing』(2007年)
マイケル・マン『インサイダー』(1999年)
70年代のキース・ジャレットの映像(1972、76年)
キース・ジャレット『Arbour Zena』(1975年)


J・M・クッツェー『イエスの幼子時代』

2016-07-31 09:10:18 | 中東・アフリカ

J・M・クッツェー『イエスの幼子時代』(早川書房、原著2013年)を読む。

2013年に読んだ原著の内容を確認するための再読である。もっとも、訳者の鴻巣友季子氏があとがきで触れているように、スペイン語を母語としない登場人物たちがスペイン語で語り、その想定のもとにクッツェーが英語で物語を語っているのであるから、日本語による本書は異本のひとつだと言えなくもない。

あらすじはここに書いた通りだが(J・M・クッツェー『The Childhood of Jesus』)、受けた印象は少し違う。以前は、イエスを巡る物語をもとにした寓話なのだが、哲学的対話はいかにも浅く、突拍子もない展開によってのみ読ませる小説なのかととらえていた。ところが、再読によって別の印象が強くなってきた。すなわち、深みのない考察も、脈絡のない展開も、クッツェーの意図したものではないかというわけである。

人間的な欲を恥のようにとらえ、善意が支配しているが、よりよいヴィジョンを夢想もしない管理社会。そこに突破者として現れた少年の物語に、ハナから論理的な積み上げがあろうわけもないのだ。

突破者としての歩みと集団化をはじめた登場人物たちが、このあとどのように規範に背き、社会を揺るがしていくのか。本書の続編『The Schooldays of Jesus(イエスの学校時代)』が2016年秋に出されるのだという。確かにこの物語は、本書だけで終わるべきものではなかった。

●参照
J・M・クッツェー『The Childhood of Jesus』(2013年)
ポール・オースター+J・M・クッツェー『Here and Now: Letters (2008-2011)』(2013年)