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自縄自縛日記

屋嘉比収『沖縄戦、米軍占領史を学びなおす』

2016-04-10 09:12:10 | 沖縄

屋嘉比収『沖縄戦、米軍占領史を学びなおす 記憶をいかに継承するか』(世織書房、2009年)を読む。

屋嘉比氏(故人)は、季刊『けーし風』の編集委員でもあった。いま定期的にその読者会に出て勉強していると、そこで共有してきた視線や言説の多くが、まさに本書において思考されていることがわかる。鹿野政直『沖縄の戦後思想を考える』においては、屋嘉比氏の活動を「沖縄戦の思想化」として分類している。偉大なリアルタイムの思考者であったのだなと思う。

このことは、もちろん、氏の思考過程が古びて手垢がついたものになったということを意味するものではない。むしろ逆で、読んでいると、そのように考えるのかと、のけぞってしまうことが少なくない。ぜひ多くの人に読んで欲しい本である。

当事者性とはなにか。沖縄戦の体験者たちは、その体験の実相に対する誤った改竄圧力があるたびに、その記憶を呼び起こし、発信しはじめ、共有を続けてきた(「軍隊は住民を守らない」も、「命どぅ宝」も)。国家が選別し与える歴史とは異なり、大衆の歴史は、そのような形で形成されてきた。たとえば、「集団自決」に関し、ことを「軍命」の有無のみによって判断しようとする策動は、後者に対する攻撃であった。

それでは、沖縄戦の体験者が次第に少なくなる中で、戦後世代はいかに当事者性をとらえ、記憶を共有していくべきか。著者はここで「分有」ということばを用いる。当事者の体験や記憶は、そのすべてが特異点であり独立である。中には、国家の物語に回収されてしまうものも少なくない(住民にとって強制死に他ならぬものを、「崇高に生命を国家に捧げた」ことにされてしまうなど)。非体験者は、ここで多くの体験を「分有」することによって、実相とはかけ離れた記憶の継承に陥らぬようにしなければならない。

その複眼的な視野には、時間や地域の境界線を超えることも含まれる。沖縄戦を、「日本」の中で、また戦前・戦中・戦後という分類で捉えることを前提としてはならないということだ。著者は、沖縄戦を、戦後の東アジアにおける冷戦体制化における熱戦の起点としても捉えようとする(1945年の沖縄戦、1947年の台湾二・二八事件、1948年の済州島四・三事件、1950年からの朝鮮戦争、・・・)。そしてまた、沖縄戦とそのあと、「戦場」と「占領」と「復興」とが混在し、同時進行していたという指摘がある。このことは、沖縄現代史と現代そのものにおいて非常に大事な視点であるように思える。それがいまもすべて沖縄に存在し、進行しているのだから。

「戦場、占領、復興として時系列に単線的にとらえる視角は占領者の視線であって、むしろ沖縄のような地上戦の地や被占領地では、戦場/占領/復興が重層的に混在し同時並行的に進展していたととらえる被支配者や被占領者の視点が重要だと言うことである。そのことは、前述したように戦後東アジアの国々の関係でも、「戦場」「占領」「復興」の関係が、相互連関して重層的に複合し同時並行的に展開していることと重なり合っている。さらに、それは本文でふれたように、沖縄の女性たちにとって、沖縄戦の戦闘がようやく終わってもアメリカ軍占領下にまた”新たな戦争”が始まった、という証言とも符合するものである。そのことは韓国の女性たちにとっても同様であり、帝国日本の植民地主義が終わった後も、戦後の済州島四・三事件、朝鮮戦争と続く”新たな戦争”によって、女性たちに対するアメリカ軍の軍事占領下での性暴力が多発した事実がそのことを如実に示している。」

●参照
屋嘉比収『<近代沖縄>の知識人 島袋全発の軌跡』(2010年)
鹿野政直『沖縄の戦後思想を考える』(2011年)


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