Sightsong

自縄自縛日記

山西省太原の晋祠

2009-10-11 06:49:28 | 中国・台湾

晋祠は唐代の政治家とその母が祀られた場所である。宿泊したホテルから近く、夕方空いた時間に歩いて訪れた。広い敷地の大部分は後年作られたもので、親子連れなど観光客が多い。ちょうど菊祭りを開いていた。

 

太原は石炭と鉄が有名であり、武器や道具だけでなく、鐘、像などの製鋳技術にも優れていたことが、窪田蔵郎『シルクロード鉄物語』(1995年、雄山閣)を読むとよくわかる。この本にも紹介されている4体の鉄人像を見ることができた。宋代から後年の作まで混じっている。どれがどれだか覚えていないが、確かに、「同時に鋳造したものといってもおかしくないほどのできばえ」だった。腹に浮き出るように陽鋳された銘文は、千年も人の手によって撫でられた結果、つるつるになっている。


鉄人のどれか(笑)

ここにも千年前、宋代の柏の大樹が何本も生きている。中でも目玉は、三千年前、周代の柏である。斜めに傾いていて金属で支えられており、また、部分的に枯死した箇所が補修してある。しかし、こんなものが生き残っていること自体が驚きなのだ。


聖母殿


聖母殿


聖母殿


樹齢千年、宋代の柏


樹齢三千年、周代の柏

※写真はすべてPentax LX、M28mmF2.0、フジPRO400による。

●山西省
平遥
玄中寺再訪 Pentax M28mmF2.0
浄土教のルーツ・玄中寺 Pentax M50mmF1.4
天寧寺
山西省のツインタワーと崇善寺、柳の綿 
太原市内、純陽宮
池谷薫『蟻の兵隊』
黒酢
白酒と刀削麺


横山秀夫『クライマーズ・ハイ』と原田眞人『クライマーズ・ハイ』

2009-10-10 17:52:09 | 思想・文学

流行から随分遅れて、横山秀夫『クライマーズ・ハイ』(2003年、文春文庫)を読む。1985年8月、御巣鷹山に日航機が墜落する。小説は、群馬県の地方紙による取材を描いており、これは作者の横山秀夫の実体験を基にしている。

それまで群馬で事件といえば、「大久保連赤」(大久保事件と連合赤軍あさま山荘事件)であったという。それらを手柄話のようにしていた古参記者たちには、 突然の日航機墜落により、嫉妬にも似た気分が生まれた。そして中曽根による靖国参拝が大きなニュースとなっており、福田・中曽根の勢力争い(新聞社の中にも「福中」のつばぜり合いがあったという)とも絡めて描かれる。

すべて24年前の古い話である。私は中学生だった。坂本九が亡くなったことに衝撃を受けた記憶がある。小説の中に、《農大二、宇部商に惜敗》という記事が登場してハッとする。桑田・清原を擁するPL学園と宇部商とが決勝で対決した夏でもあった。

迫真感があり1日で読んでしまった。ただ、喧嘩早く、体育会のような新聞記者たちの描写にはうんざりさせられる。個性的な記者たちを描くものなら、丸谷才一『女ざかり』(1993年)の方が遥かに大人だ。

ついでに、録画しておいた映画、原田眞人『クライマーズ・ハイ』(2008年)を観る。この長いディテール小説をよくまとめたものだ、というのが第一印象。堤真一も田口トモロヲも山崎努も、良い俳優である。しかし、無理に複数のエピソードを詰め込んでいるため、小声でごにょごにょと言う大事な部分がわかりにくい(映画だけを観るひとには尚更だろう)。大勢の命と1人の命を比較するため、初めて御巣鷹山で死体を見てショックを受ける若い記者を交通事故死させることにも納得できない。横山秀夫の小説では、この経験から良い記者に育っていくことが語られているし、無理に死なせてしまっては哀れではないか。

●参照
山際淳司『ルーキー』 宇部商の選手たちはいま


中国プロパガンダ映画(3) 『大閲兵』

2009-10-10 07:29:11 | 中国・台湾

もともと10月初旬に予定していた中国行きを9月末にずらしたのは、建国60周年の「国慶節」と毎年の「中秋節」が重なっていて仕事にならないからである。ツアーが組めないためか国際線はがらがらだったが、中国の国内線は、旧正月前ほどではないとしても、とても混んでいた。

北京経由は諦めて上海経由を選んだのだが、上海でも「国慶節」入りの前日は午後から交通規制を行っていた。日本に帰ることができなくなると困るので、相当早めに浦東空港に入った。余裕がなくて、とても魯迅の故居や内山書店跡を訪れることなどできず、書店を覗くのが関の山。また中国の旧作DVD(300円程度)をいくつか入手した。『大閲兵』もそのひとつだ。

今回の閲兵とパレードでは、大陸間弾道ミサイルや偵察機など軍事力の増強がメディアを賑している。勿論「中国脅威論」の文脈に乗っているのは言うまでもない。

しかし、『大閲兵』を観ると、それが繰り返しに過ぎないのだと強く印象付けられる。1949年に北部で共産党が国民党に勝ち北京入りした直後、同年10月の毛沢東による建国のスピーチ、1959年の建国10周年記念パレード、1984年の建国35周年記念パレードが、ここには収められている。

1959年のフィルムには、毛沢東が中心であるのは勿論だが、朱徳も大きくフィーチャーされている。周恩来が出るのは当然として、劉少奇がわずかしか紹介されないのは、文革での失脚が影響しているのだろうか。郭沫若の姿も見られる。

1959年からはカラーフィルムとなる。そして1984年においては、鄧小平が主役である。趙紫陽が少しだけ登場する(今年英語版と中国語版で発行された彼の手記を早く読みたいところだ)。なぜかサマランチがいる。

鄧小平は、経済成長の目標や、香港・マカオ・台湾のステイタスについて語る。オープンカーから半身を出して閲兵する姿は、テレビで最近見た胡錦濤の姿とまったく同様だ。フィルムは、文字通り一糸乱れぬパレードを延々と続ける。ざっざっざっざっという足音とともに流される影像を見つめていると朦朧としてきた。

こちらにとっての国慶節は、記念して売り出されていた大きな月餅くらいだ。いつも空港に置いてある月餅は、ことごとく貧弱で高く、買う気がしないのだ。コーヒー、緑豆、海苔などそれぞれ変わった餡が詰められていた。家族でひとつずつ切り分けて食べた。

●中国プロパガンダ映画
『白毛女』
『三八線上』


山西省・天寧寺

2009-10-10 06:22:43 | 中国・台湾

中国山西省の天寧寺玄中寺の近くにある。黄土ばかりが見える土地だが、このあたりは打って変わって森林となっているのが不思議である。樹齢が千年近い柏の樹が何本もある。それらはことごとく捩れており、風水の力だと説明された。


800年以上前の手すり


孔子


※写真はすべてPentax LX、M28mmF2.0、フジPRO400による。

●山西省
太原市内、純陽宮
平遥
池谷薫『蟻の兵隊』
黒酢
白酒と刀削麺

●中国の仏教寺院
玄中寺再訪 Pentax M28mmF2.0(山西省)
浄土教のルーツ・玄中寺 Pentax M50mmF1.4(山西省)
山西省のツインタワーと崇善寺、柳の綿(山西省)
チベット仏教寺院、雍和宮(北京)
道元が修行した天童寺(浙江省)
阿育王寺(アショーカ王寺)(浙江省)


玄中寺再訪 Pentax M28mmF2.0

2009-10-09 01:18:10 | 中国・台湾

先週、中国山西省に足を運んだ。成り行きで、玄中寺に連行された。昨年の春に訪れて以来だ。玄中寺は日本の浄土宗のルーツである。

山西省の道端では、あちこちで袋詰めしたナツメを売っていた。街中でもないところでこんなにお互いに近くにいたって売れないのではないかと思ったが、実際のところはわからない。玄中寺の境内でも、窓際でナツメを干していた。また、山椒の実がなっていて、言われるままに咬んでみると、凄い芳香が広がり、しばらくは唇が痺れていた。


ナツメ


山椒

ある拝殿の中には、最近描かれたという観音の壁画があった。罪を犯した衆生が念仏を唱え救われている絵が多い。その中に周恩来がいて吃驚する。どうも寺の修復に力を貸したらしい。拝殿の外には、「千手観音」と名付けられた大木がある。


周恩来


千手観音と呼ばれる樹

「七佛殿」も見事だが、「千佛閣」には眼を奪われる。背後の無数の木彫りは、もちろん、一体ごとにまとう雰囲気が違っている。


七佛殿


千佛閣


千佛閣

外では、占い師が人を集めていた。昔、教師だったという老人だった。

※写真はすべてPentax LX、M28mmF2.0、フジPRO400による。

●参照
浄土教のルーツ・玄中寺 Pentax M50mmF1.4


蔡玉龍の新作「气?/The Activity of Vitality」

2009-10-08 00:37:25 | 中国・台湾

今年の7月に訪れた上海で知ったアーティスト、蔡玉龍(ツァイ・ユーロン)から新作展「气?/The Activity of Vitality」の案内が届いた。このブログの記事も読んでいただいたようだ(中国語に訳したのかな)。

チラシが添付されていたが、これがまた底知れないアウラをまとっている。何しろ作品を直に観たいところだが、先週上海に行ったばかりであり、多分今回は体験できない。残念至極!! 誰か10月17日から11月17日までに上海を訪れる人がいたら、ぜひ莫干山路・M50のギャラリー「TSAIYUlONG ART SPACE」に足を運んで、感想を聴かせて欲しい。

The Activity of Vitality”<o:p></o:p>

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Preface<o:p></o:p>

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Regarding Mr. Tsai Yulong’s art creation (no matter drawings or calligraphy), what you will finally discover is his inspiring capacity, which could touch our modern people very much. We can always find some natural images and totems from its abstract expression.The refreshing color & Ink often burst out a different sense of beauty which only comes out by accident; the ink sticks & lines are haphazard, but smart & distinct.The variation of shade gives the whole picture such a spacious view, but never lose its inimitable mystery.<o:p></o:p>

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It seems that he puts his whole romantic soul in his creative process.The ink color brings us such a grand view that as if we are in the lofty mountains & seas of clouds by enjoying his works.<o:p></o:p>

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The thick ink & the orderly weighted lines show the flourish of life as well as the charming of nature.<o:p></o:p>

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Mr.Tsai was once laughed at himself as his lonely journey to the Palace of Fine Art.He is such an ego & non-mainstream artist.From my personal opinion,as art,the less utilitarian it concerns the more freedom it will gain,so as artist.<o:p></o:p>

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The Neo-Confucianism considered “qi” (Vitality) as the base of universe, “the activity of vitality” which is another meaning of “the activity of universe”. It's just Tsai’s initial creating point: plain, nature, but diligent.<o:p></o:p>

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Title: “The Activity of Vitality”<o:p></o:p>

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Time: October 17?November 17,2009<o:p></o:p>

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Venue: No.99, Moganshan Rd, Shanghai<o:p></o:p>

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TSAIYUlONG ART SPACE<o:p></o:p>

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No.99 Moganshan Rd,Shanghai   <o:p></o:p>

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www.long123456789.com<o:p></o:p>

T:021-33530089

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蔡玉龍さん PENTAX MX、77mmF1.8 Limited、Tri-X (+2)、イルフォードMG IV RC、2号


山本義隆『熱学思想の史的展開 2』

2009-10-06 23:59:59 | 思想・文学

山本義隆『熱学思想の史的展開』全3巻(ちくま学芸文庫)の第2巻は、熱量保存則、<熱素>なる概念の支配、さらにカルノー、マイヤー、ジュールといった孤立の天才たちによる熱と仕事との互換性の証明にまで話を進めている。

熱力学の第1法則においては、熱が力学的な仕事を生み、かつその逆もまた成立する。化学を学んだ現在の人間にとって当然の考え方である。しかしこれは、19世紀の絶えざる思考と実験によって、そして突然変異的に登場する天才たちの跳躍によって踏み固められたパラダイムであった。このパラダイムが曲者であることが、本書を読むうちに実感できる。逆に言えば、現代のパラダイムのみを所与のものとして学習することがいかに薄いものか。例えば、19世紀の大きな成果のひとつであるカルノー・サイクルを、普段思考の中に置かなくなった理系人間が思い出そうとしても困難であることが挙げられる(私だけではない)。

科学の進歩史観はその薄っぺらさと重なる。なぜ現在正しいとされる考え方が正しく、過去なぜ誤っていたのかを追体験しなければ、私たちにとって科学など共有する財産とはなるまい。著者は次のように喝破している。

「・・・科学の事実は事実それ自体で意味を持ち、そのような事実の発見とそれについての客観的知識の蓄積とともに、科学は、個々のゆらぎはつきものとはいえ、全体とすれば必ず真理―唯一の真理―に漸近してゆくはずであるという、進歩史観に発するものであろう。のみならずそのようなアプローチは、歴史記述に教育的効用を求める立場によってさらに助長されてきた。
 実際には、個々の事実はそれを超える理論的枠組に相対的にのみ意味を持ち、それゆえ、事実の発見には、なにがしかの理論的立場を必要とする。また後に新しいパラダイムが受容されたときには、同一の事実がそれまでとは異なる意味を帯びるようになるのだ。進歩史観の誤りの根拠は、この点を理解していないことにあろう。」

19世紀の熱学の深化には、蒸気機関などの産業技術の必要性が大きく貢献した。必要だから科学が進歩したというのではない。技術の試行錯誤とそこからの発想のアナロジイにより、基礎科学が刻み込まれていったということである。実際に、ワットは測定器具などを製作し大学などに納める業者であった。

面白い話がある。18世紀に木炭にかわりコークスを用いた銑鉄精錬(現在の高炉)の技法が発明されたが、その完成がワットによる蒸気機関の改良と同時期であった。この方法は大量の石炭供給と強力な送風装置を必要としたが、その2つの問題を解決したのがワット機関であった。こうして英国における鉄の生産は、蒸気機関に支えられた、という。

19世紀なかばになり、<熱素>という物質のような概念―これは非常に優れた概念であり固いパラダイムを形成していた―が切り崩され、熱と仕事とが等価であるということ、ひいてはエネルギーという概念にまで突き進んでいく様子の描写はスリリングそのものだ。それでも、その時代の英国において、「ジュール主義者」であることは「いかがわしい」ことでもあったという。カルノーですら、何十年もまったく相手にされることがなかった。勿論、因襲や偏見から来るものではない。ひとの思考とパラダイム転換がいかに難しいものかを示すものだ。

そして、現在であっても、当然ながら、ひと個体の脳には<試行錯誤の経験>が蓄積されているわけではない。だからこそ、高校や大学の科学教育(化学だけでなく、物理でも地学でも)において、科学史を真っ当に位置づけるべきだと思うのである。

●参照
山本義隆『熱学思想の史的展開 1』


リー・コニッツ+ルディ・マハール『俳句』

2009-10-06 01:33:44 | アヴァンギャルド・ジャズ

なかなか忙しくて、ルディ・マハール、アクセル・ドゥナーらによるグループ「失望」の新作も、ルディ・マハールと高瀬アキによるデュオの新作も、レコード店に物色に行くことがままならなくて聴いていない。取りあえず棚にあるマハールの変な録音を改めて聴いてみる。リー・コニッツ、ルディ・マハールらによる『俳句』(NABEL、1995年)である。

リー・コニッツには『SATORI』という作品もあったが、日本の精神にそんなに興味があるのだろうか。実際に、ここでは何度か俳句らしきものが朗読され、その一句はコニッツが詠ったものだ(日本語に翻訳され、ヨシダ・サユミなる女性が朗読する)。

若い頃の切れそうなインプロヴィゼーションだけがコニッツではない。この時点で、既にコニッツの音はエアを含み、速くはないがふくよかな味のあるものとなっている。また、フリー精神も旺盛なのであり、ジョン・ゾーン、バール・フィリップス、モリ・イクエと共演したステージ(法政大学、1996年頃?)では変な音を出しまくっていた。

このCDもそんなコニッツの広さがそのまま出ているようだ。本当のところは、ベルリン・コンテンポラリー・ジャズ・オーケストラでの演奏(1996年)で吃驚させられたルディ・マハールのバスクラが聴きたいから入手したのだったが、コニッツの妙な大きさに比べるとマハールはさほど目立っていない。

ただ、広いのはいいとして、ユルくて緊張感が希薄なセッションであり、帰宅して本を読みながら聴いていていると眠たくなってしまった。まあそれも良い音楽だからである。

●参照
『失望』の新作(今の新作の前)
リー・コニッツ『無伴奏ライヴ・イン・ヨコハマ』
リー・コニッツ『モーション』


劉博智『南国細節』、蕭雲集『温州的活路』、呉正中『家在青島』

2009-10-04 00:22:56 | 中国・台湾

上海の書店でいろいろ物色していると、上海錦綉文章出版社が「中国人的生活系列」というシリーズとして出した3冊の写真集を見つけた。以前に、素晴らしい「紙上記録片系列」シリーズの6冊の写真集を出していた出版社であり、今回は版形が大きくなり厚さも増しているにも関わらず、値段は同じ32元(400円程度)である。紙質はやはり雑誌のようなものだが、不思議と印刷が良く、白黒のトーンが出ている。

■ 劉博智『南国細節』

9割以上が白黒であり、そのほとんどが広州で70年代末から80年代初頭に撮られている。家庭の壁や生活用具をじっと見つめている。記念写真、周恩来や毛沢東のポスター、神様の置物、机上のペンや手紙、食器棚、水筒、甕、梯子。次々に観ていると、家庭の中に腰掛けて淡々としている心地になってくる。

スクエアフォーマットの作品が多いが、何かの二眼レフによるものだろうか。この写真家は香港生まれ、若い頃に米国に渡って写真を学び、現在も米国の大学で教えている。従って、おそらくは、中国でも数多く作られた二眼レフではなく、ローライか日本製の何かだろう。視線も、異邦人のそれだということになる。確かに、ディテールをフィルムと印画紙に一様に落とし込むやり方は、懐かしさからきたものではないように思える。また、後年のパノラマ写真(首振り式の)さえも視線はまったく広角的ではなく、凝視型なのが印象に残る。ドライで静かにあたたかく、良い写真集である。

■ 蕭雲集『温州的活路 温州30年変革的影像記録』

温州は上海の少し南、浙江省の都市である。80年代から現在までの温州を見つめた作品群であり、白黒もカラーもあり、フォーマットはまちまち、つまり上の『南国細節』とは異なり、ずっと生活と並行して撮り続けたものだということになる。実際に写真家は浙江省の写真協会に属している。

水辺の町のスナップが中心で、働く人、遊ぶ人、勉強する子ども、祭など、本当に多彩だ。写真を撮るという一瞬の勝負の結果だから、絶妙なものがたくさんあって嬉しい。スナップは写真家の身振りそのもの、個性がもろに出るものなのだ。自分もこんな写真を撮りたいと思わせてくれる。

■ 呉正中『家在青島』

青島は山東半島に位置する。若い写真家のようで、90年代以降の活動の記録だ。最近のファッションや広告を見つめたカラー作品と、90年代に町の風景や人びとを生活者の眼で見つめた白黒作品との2つのセンスが同居しているのが面白い。

注目すべきなのは、広角レンズの使い方の巧さだろうと思った。分岐する道や階段など別風景を左右に配し、あるいは手前の石畳と遠景とを巧く配し、またあるいはすぐ前の人に接近しつつ視野をそらすなど、視線が彷徨う。これが快感となるセンスの良さである。

他の写真家にも共通することだが、白黒作品で、覆い隠しと焼き込みが過剰で目立っている。決して稚拙ではないのだが、人物の周囲を焼き込みすぎる結果、不自然にトーンが変わり、その人がオーラをまとっているようにさえ見えてしまう。これはこれで、絵画的といえなくもない。

紙質を抑えてでも、こんな個性的な写真集を廉価で出しているのだから、この出版社には今後も注目なのだ。もっとも、日本で求めようとすると、1冊あたり、運送費とマージンとで3冊を足して2倍するくらいの売価になっているようだ。どこか価格を抑えて流通させることができれば、日本のシリアス・フォトグラフィーの受容も変わってくるのではないかと思うがどうだろうか。

●中国の写真集
陸元敏『上海人』、王福春『火車上的中国人』、陳綿『茶舗』
張祖道『江村紀事』、路濘『尋常』、解海?『希望』、姜健『档案的肖像』


大島渚『戦場のメリークリスマス』

2009-10-02 01:15:58 | アート・映画

銀座シネパトス大島渚の特集上映をやっていた。気が付いたらもう最後のプログラム、『戦場のメリークリスマス』(1983年)。オーシマファンとしては我慢できず、夜の上映を観に行った。

もちろんこれまで何度も観ているし、録画したヴィデオも大事にしまっている。しかし大画面で観る大島渚は<違う>のだ。戸田重昌の美術による貢献も大きいと思われる異空間、それは毒々しい色であり、配置である。ここに大衆演劇のような<顔>がかぶきまくる。坂本龍一の音楽は、有名なテーマ曲以外でむしろ、異空間の重力をさらに狂わせる。

誰もがたじろぐであろう、圧倒的な同性愛の映画である(誰もが、と思っていたら、そんなことを夢にも感じていない人間がいて吃驚したことがある)。戦争、軍隊、虜囚、精神性のすべてが抑圧を生み、抑圧は愛と狂を生む。そもそも精神性など狂気と表裏の関係にあるものだ。

今晩久しぶりに観て、同性愛と敢えて限定するべきではないという印象が強く残った。これは<愛>と<関係>の映画なのだ。そして<愛>と<関係>を構築する者たちを、大島渚はまるで蛆虫であるかのように描く(勿論、人間と蛆虫は同じレベルの存在であるとの視線である)。やはり猛烈にわけがわからない、もの凄い映画だ。ビートたけしがかつての捕虜、ローレンスに「メリークリスマス、Mr. ローレンス!」と呼びかけるラストシーンでは、涙腺が弛んでしまった。

帰宅してから、大島渚の研究書をあたってみたが、スザンネ・シェアマン、ルイ・ダンヴェール&シャルル・タトムJr、樋口尚文すべて不満の残る論調である。国境や歴史や異文化を構造的に語ってばかりでは、この純粋なる蛆虫どもの愛が感じられなくなってしまう。

●参照
大島渚『夏の妹』
大島渚『少年』
篠田正浩『処刑の島』(戸田重昌)