Sightsong

自縄自縛日記

見上げてごらん夜の星を

2011-07-16 12:40:35 | アヴァンギャルド・ジャズ

永六輔+いずみたく+阪本九による「見上げてごらん夜の星を」は、日本ポピュラー音楽屈指の名曲だと思っている。「上を向いて歩こう」や「明日があるさ」より好きな歌だ。これだって上を向いて涙がこぼれないようにしなければならない歌である。そうか、九ちゃんが御巣鷹山で亡くなったのは43歳だったのか。

渋谷毅森山威男のデュオ・アルバム『しーそー』(ONOFF、2001年)で、この曲を演奏している。ずっと聴き続けている。確かに「渋谷毅時間」というものがあって、円を描き、循環し、儚く絶妙な和音を積みかさねていくピアノは他では聴けない。曲想のため森山威男のドラムスは大人しいが、それでもとても良い。

最近発見したのが、坂田明『ひまわり』(がんばらない、2006年)でのサックス・カルテットによる演奏だ。フェビアン・レザ・パネのピアノは上のデュオを聴いた後ではソフトに感じられる。何といっても坂田明のアルトサックスは肩の力が抜けているのか入っているのか微妙なところに浮かんでいて、透明だったり濁っていたり、これがまた良いのだ。

「見上げてごらん夜の星を」、森山威男のグループや大友良英GROUND ZERO(新宿ピットインで聴いた翌日、耳鳴りで人と話ができなかった)などいろいろな演奏があるはずだが、他にも聴きたいところだ。乞推薦。

●参照
渋谷毅オーケストラ@新宿ピットイン
渋谷毅のソロピアノ2枚
カーラ・ブレイ+スティーヴ・スワロウ『DUETS』、渋谷毅オーケストラ
浅川マキ+渋谷毅『ちょっと長い関係のブルース』
横山秀夫『クライマーズ・ハイ』と原田眞人『クライマーズ・ハイ』
テレビドラマ版『クライマーズ・ハイ』


開沼博『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』

2011-07-16 08:43:46 | 東北・中部

開沼博『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』(青土社、2011年)を読む。

オビの豪華な名前(実は著者の指導教官)のためもあってか、ずいぶん売れている。もともと修士論文として書かれたものであり、学生ならではの気負った発言にかなり苛々させられる(私の苦手とするもののひとつは「謙虚でない学生」である)。学者以外を愚民かなにかだと思っているのかな。

それはそれとして、本書は面白い。

著者がこれまでの原発をめぐる言説の皮相な構図として考えるのは、「抑圧」と「変革」への帰結だ(もちろん、これは米軍基地についても言うことができる)。そこには、経済社会の発展のために仕方がなかった、現地もオカネをもらって栄えていた、といった物言いに含まれる歴史修正主義も見え隠れするのだ、と指摘している。

ここで著者は、保苅実(※本書では苅の字を刈と間違えている)のいう「ラディカル・オーラル・ヒストリー」(>> リンク)における、中央的視点から外れる人々の「経験」を重視し、そこから別の構造を浮かび上がらせている。つまり、中央からの「切り離し」作用こそが、原子力ムラの秩序維持に重要な役割を果たしてきた、ということである。そして興味深いことに、原子力ムラに存在する「反対派」も、「変わり者」として秩序維持に貢献してきたのだ、という指摘もある。

この「原子力ムラの側での自己再生産」、あるいは「原子力の自らの抱擁」は、その姿を変え続けているという。戦後から佐藤栄佐久県政初期までは中央から「地方」という媒介者がムラへの流れを作っていたが、佐藤栄佐久県政の後期から「地方」が媒介者たりえなくなり、その結果、中央とムラとが「地方」を介さずに共鳴しあうようになったのだ、と。「内への植民地化」から「自動化・自発化された植民地化」への変化である。

「・・・少なくとも原子力政策についての「改善への期待」を地方が失うなかで、中央-ムラ関係は直結し、メディエーターとしての「地方」の役割は消滅したと言うことができるだろう。それは、「中央の都合より地方自治が重視されなければならない」という憲法や地方自治法の理念に反す形で、地方やムラが中央との間で純粋な主従関係、支配-服従の関係に至ったと見ることもできるだろう。」

さてこれを米軍基地に置き換えてみるとどうなのか。「基地の町の側での自己再生産」、「基地の自らの抱擁」という言葉をもって論を如何に進めることができるか、考えてみる余地が大きそうだ。既存の「受益-受苦」関係を壊すと基地の町はより大きな苦しみの体系に組み込まれるか、これはそうではあるまい。

しかし、本書でいう「中央というpositionalityへの無自覚」や、「媒介者を用いた下位集団の切り離し・固定化・隠蔽」については、当然ながら、重要な視点である。

●参照
○支配のためでない、パラレルな歴史観 保苅実『ラディカル・オーラル・ヒストリー』 >> リンク
○『大江健三郎 大石又七 核をめぐる対話』、新藤兼人『第五福竜丸』 >> リンク
○『科学』と『現代思想』の原発特集 >> リンク
○黒木和雄『原子力戦争』 >> リンク
○『これでいいのか福島原発事故報道』 >> リンク
○有馬哲夫『原発・正力・CIA』 >> リンク
○山口県の原発 >> リンク
○使用済み核燃料 >> リンク
○『核分裂過程』、六ヶ所村関連の講演(菊川慶子、鎌田慧、鎌仲ひとみ) >> リンク
○『原発ゴミは「負の遺産」―最終処分場のゆくえ3』 >> リンク
○東北・関東大地震 福島原子力の情報源 >> リンク
○東北・関東大地震 福島原子力の情報源(2) >> リンク
○石橋克彦『原発震災―破滅を避けるために』 >> リンク
○長島と祝島 >> リンク
○既視感のある暴力 山口県、上関町 >> リンク
○眼を向けると待ち構えている写真集 『中電さん、さようなら―山口県祝島 原発とたたかう島人の記録』 >> リンク


大田昌秀講演会「戦争体験から沖縄のいま・未来を語る」

2011-07-14 02:00:00 | 沖縄

大田昌秀講演会「戦争体験から沖縄のいま・未来を語る」(2011/7/10)に参加した。言うまでもなく元沖縄県知事・参議院議員にして反軍反基地の人であり、いまなお精力的な活動を続けている。

主催者側を代表して、杉並区議の新城せつこ氏とけしば誠一氏が挨拶をした。

また、ひめゆり学徒と同等の戦争体験をされた上江田千代氏も立った。上江田氏は先月腰痛で入院をされていたとき、大田氏から、「戦争を生きた者はいかなる困難にもくじけない」とのメッセージを貰い、ことばの深さを感じたのだと言った。

講演会の最後には保坂展人・世田谷区長も駆けつけた。


新城せつこ氏とけしば誠一氏


上江田千代氏、保坂展人氏

以下、大田氏の講演要旨。

○かつてイタリアの社会運動家ダニーロ・ドルチと『世界』で対談した際、「日米政府の壁は厚く壊せないが、壁の向こうに友達をたくさん作れば、壁を無化できる」と言われたことがある。しばらくしてベルリンの壁が壊され、ドルチの先見性を感じた。沖縄の外で頻繁に沖縄の実情を話し続けているのはそのためでもある。
○沖縄人は基地のため、自分たちの意思に反して、米軍の戦争における加害者であり続けている。
○「平和の礎」には、強制連行されてきていたために亡くなった朝鮮人たちの名前も刻んでいる。その際には、創氏改名の前の名前に戻す作業が大変だった。しかし、いまだに、「それによってことが済んだと思うな」と飛びかからんばかりだった女性や、会っていてもそっぽを向いて顔をそむける女性たちがいた。戦争被害とはこのようなものだ。
○沖縄戦が1945年4月1日に始まった(沖縄本島に米軍上陸)とするのは間違いである。3月26日には慶良間諸島に上陸し、それにより多くの住民が「集団自決」によって命を落としている。このことにより、「集団自決」が沖縄戦の歴史から消えてしまう。なお3月23日の空襲をもって沖縄戦のはじまりだと見なす意見もあるが、沖縄戦の特徴は日本で唯一の地上戦だったことにあり、やはり3月26日とすべきだ。
○沖縄戦が1945年6月23日に終わったとするのも間違いである。八原博通高級参謀が、「読売新聞」に、牛島中将らがその日に自決したと書いたことがその発端だが、米国で調べると、本当は6月22日であった。八原参謀は牛島自決前に壕を出ており、確認していない。また、牛島中将が切腹後、副官が介錯したこととされているが、米国に残された写真で確認しても、切腹した様子はなく、首もつながっている。実際には青酸カリを使ったという衛兵の記録のほうが信用性が高い。「武士道」を良しとする美的感覚があるためだ。
○実際には牛島中将自決後にも戦争は続き、例えば、40名の犠牲者中20名の住民が日本軍に殺された「久米島事件」も起きている。つまり6月23日は誤りであるばかりでなく、そのように定めることで、多くの犠牲者が歴史からもれてしまう。
○沖縄の施政権返還に大きな役割を果たした若泉敬(政治学者)は、結果的に基地が減らないという責任を感じ、大田氏宛てに遺書を送った。そこには、「武士道に則って自裁する」とあった。(その時には自殺を思いとどまったが、後日、青酸カリでの服毒自殺をしている。)
○沖縄戦に従軍記者として参加したハンセン・ボールドウィンは、「沖縄戦は醜さの極致だ」「かくも残酷な死闘をしたことはかつてなかったし、これからもあるまい」と言っている。沖縄戦は、生きるために戦う者=米軍と、死ぬために戦う者=日本軍とに分けられた。
石井虎雄陸軍大佐は、沖縄連隊区司令官として「沖縄防衛対策」をまとめ(1934年)、東京に電報で送っている。その重要な点は4点ある。①戒厳令を敷き、民間人の権限を軍隊に委ねよ。②島々を大海軍で対処しなければ、日本がやられる。③沖縄はもともと琉球王国であり、天皇のために命を捧げるようなことはしないため、寝返らないよう日頃から監視する必要がある。④沖縄の生活必需品の8割は県外から調達しており、敵が来る前に自滅するだろう。
首里城の地下30-35mに地下壕があり、守備軍司令部が置かれた。多い時には3000名ほどの軍人がいた。そこから、米軍上陸後に大政翼賛会の国頭支部(名護市)に届けられた命令文書には、住民の標準語以外の使用を禁止することや、沖縄語を使う者をスパイと見なすことが書かれていた。
○沖縄県知事は那覇空襲時には普天間の自然壕に逃げて閉じ籠った。そのため、県職員は決裁をもらうために毎回那覇から12kmを歩く破目になった。その後知事は理屈をつけて東京に出て、神奈川に転居してしまった。このように県の上の人間はほとんど本土に逃げた。そのことをまとめた『消えた沖縄県』という本がある。
○ジャーナリスト長谷川如是閑による「戦争絶滅受合法案」という案があった。これは、政治家が宣戦布告をしたら自ら一兵士として10時間以内に戦線に送り込まれ、またその妻たちも10時間以内に戦場に看護婦として送り込まれる義務があるとするものだ。こうすれば戦争は起こらないだろう。実際に、米軍上陸後にはそのような者たちはまったく現場を視察しなくなった。
○沖縄戦では13-19歳の若者が法律のないまま戦争に送りだされた。これも沖縄戦の特徴である。法律となったのは、16歳以上の男性、17歳以上の女性を戦場に送りだすことができる「義勇兵役法」(6月23日その日に公布)であった。
○首里城地下の本部には「情報部」が設置され(1945年1月)、33名の「国士隊」が任命された。彼らは校長、議員、医者など普段多くの人と接する者たちで、反戦・厭戦の人びとを密告し、処罰させる役割を担っていた。彼らが十分に活動せず敗戦したのが不幸中の幸いだった。
陸軍中野学校の卒業生11名が「残地諜報員」として任命され、島々で住民を監視・情報部に密告して殺させた。例えば大本営から派遣された「山下」(偽名)は、軍隊の食糧が不足するため、食糧豊富な波照間島の住民を西表島に強制的に移し(日本刀で脅した)、その結果、多くの住民がマラリアで亡くなった。これは、その後「星になった子どもたち」という歌になった。
○現在那覇新都心の「シュガーローフ」での激戦により、ごく短い間に1800人もの米兵が精神異常をきたした。沖縄住民はそうではなかった。ジェームズ・クラーク・マロニー(精神科医)は『The Lesson of Okinawa』という本において、沖縄には個室がなく緊密な人同士の感覚があるために戦争でも精神異常を引き起こさなかったのだと結論付けている。その一方で、「子どものときに戦争体験をしたら、大人になって精神異常をきたすだろう」とも指摘しており、実際にその通りになった。いまも沖縄戦は続いている。
辺野古では老人たちが生活を犠牲にし、朝から晩までの座り込みを15年くらいも続けている。二度と戦争を起こしてはならないという強い気持ちによるものだ。感動してしまう。
○辺野古はもともと貧しい地域で、海での漁でオカネを稼ぎ、子どもを学校に行かせていた。もし大浦湾を基地建設によって失うと、戦争のときに生きていけない。
○地政学的に沖縄に基地を置くべきとの説明は全くのウソであり、反証は多い。米軍基地の存在が国益となるなら、本土で基地を引き受ければよい。こんな主権国家はあり得ない。
ライシャワー元駐日大使は(後で開示された文書でわかったことだが)、嘉手納以南は人口稠密地域であり、日本復帰して沖縄人の権利意識が高まったら困る、何とかその後も嘉手納基地を維持したい、と考えていた。ライシャワーはCIAからの72万ドルを用いて立法院(のちの沖縄県議会)における基地反対議員を懐柔し、また、屋良朝苗が行政主席・知事となった際には日本政府からの88万ドルを用いて基地反対の候補を潰した。屋良朝苗は、高等弁務官と何度も会い、もし当選しても反米運動をやらないとの言質を取られていた。ライシャワーはゼネストもオカネを使って潰した。
稲嶺知事が大田知事を破って当選したときも、官房機密費3億円(あるいは10億円)が使われた(鈴木宗男による)。
グアムのアンダーセン基地嘉手納基地の13倍の面積を持ち、ガラ空きである。普天間だって全て移すことができる。辺野古は運用40年、耐用200年と言われている。そのような新基地を作らせてはならない。
○おそらく嘉手納統合は無理だろう。マケインら米上院議員はそのことを知らない。
○仮に普天間が固定されまた事故があったら、住民はコザ暴動のように怒りを爆発させるだろう。そうしたら、自衛隊は米軍を護るため、住民に銃を向けるだろう。最悪の事態は避けなければならない。
○今では沖縄の基地収入は6%程度に過ぎず、返還された基地跡地ではことごとく雇用人数も経済効果も激増している。また、観光産業が沖縄のひとつの目玉であり、大浦湾であればエコツーリズムも良いだろう。
○政治家は誰も自分の利益や選挙区のことしか考えておらず、多数決による差別的構造が温存される結果となっている。本土で1人でも多くが理解することが唯一の道である。
○沖縄独立論がまた力を付けてきている。

終わった後に、阿佐ヶ谷の「ぐるくん」にて、大田氏を囲む。稀有な機会だった。


大田氏、後ろには上江田氏

●参照
大田昌秀『こんな沖縄に誰がした 普天間移設問題―最善・最短の解決策』


グラウベル・ローシャ『アントニオ・ダス・モルテス』

2011-07-13 23:18:59 | 中南米

渋谷で若松孝二の映画を観るつもりが、急に気が変わって、グラウベル・ローシャ『アントニオ・ダス・モルテス』(1969年)を観る。ユーロスペースは今ではシネマヴェーラと同じビルにあるのだ。(昔の閑散とした方面を歩く方がストレスがたまらなかった。)

生きるために相手を必要とする殺し屋アントニオ。義賊と決闘して倒すが、歌い踊り狂う民衆たちや聖女に囲まれ、かたや町の権力者たる大地主や倦世感を剥き出しにしたその妻を目の当たりにし、アントニオは滑稽なほどの勢いで改心する。地主の雇った殺し屋との対決、活劇的な勝利。

文字通り狂乱の時空間が凄まじい。アナーキーによってアナーキーを超え、そしてアナーキーと静寂という矛盾する域に至る。ハズレ者アントニオは再びハズレ者へと回帰し、どこかへと歩いていく。そこには無間地獄が見える。

当時ATGによって配給された作品であり、機関誌『アートシアター』に、山田宏一がこのように書いている。

「『アントニオ・ダス・モルテス』には無限の解釈が可能であり、あらゆるアプローチが許されてはいるが、同時に、なにを言っても見当はずれになるだろう、といった暴力性がある。」

●参照(ATG)
実相寺昭雄『無常』
黒木和雄『原子力戦争』
若松孝二『天使の恍惚』
大森一樹『風の歌を聴け』
淺井愼平『キッドナップ・ブルース』
大島渚『夏の妹』
大島渚『少年』


齋藤惣菜店のコロッケと伊坂幸太郎のサイン

2011-07-12 01:26:14 | 東北・中部

所用で仙台に足を運んだ。ちょっと空いた時間に、仙台朝市齋藤惣菜店(>> リンク)で、「じゃがじゃがコロッケ」と「トマトクリームコロッケ」を1個ずつ買う。前に妙齢の女性たちが5人くらい並んでいて、「お兄さんいい?さきに買ってもいい?」と連発するが、この場合、「駄目です。ぼくが先に買います」という答えは当然ながらあり得ない。

帰りの新幹線でひとりパックを開けてむしゃむしゃ食う。あまり人に見られたくない姿ではある。それにしても、こういった店で買うコロッケは何でこんなに旨いんだろう。

仙台駅前では、いつも『THE BIG ISSUE』を売っている人がいる。ジョージ・クルーニーが表紙の最新号を読もうかと思ったが、その横に、売り手によるらしきマジックペンの字で「伊坂幸太郎のインタビュー」と書かれた紙が貼ってあるバックナンバーがあって、それを買った。売り手のお兄さんは、「伊坂幸太郎がお好きでしたら、これを見せましょう。非売品です」と、本人サイン入りのその号を自慢した。伊坂幸太郎も仙台で『THE BIG ISSUE』を買っているのだった。

『重力ピエロ』において、ローランド・カークのサックスを主人公の父が聴かせる場面がある。そして弟は言う。「本当に深刻なことは、陽気に伝えるべきなんだよ

インタビュー記事でも、伊坂幸太郎のこのような言葉がある。

「以前、作家の井上ひさしさんにこう言われたことがあるんです。『人間って生きているだけでつらいことや悲しいことは経験できる。だから、人間が無理してでもつくらないといけないのは、笑いなんだよ』って」

●参照
伊坂幸太郎『ゴールデンスランバー』と中村義洋『ゴールデンスランバー』
伊坂幸太郎『重力ピエロ』と森淳一『重力ピエロ』


コーエン兄弟『バーバー』

2011-07-10 10:54:38 | 北米

ジョエル・コーエン&イーサン・コーエン『バーバー』(2001年)を観る。妻役のフランシス・マクドーマンドが相変わらずいい感じ。この人はいろいろできるんだな。

舞台は戦後まもなくの米国。ちょうどロズウェル事件の頃と重なっており、落ち着いたサスペンスに突然のけぞってしまうような要素を挟みこむのがコーエン兄弟である。人間とはヘンな行動に出てしまう救いようのない生き物、それを描くのが巧い。カラーフィルムで撮影されてモノクロ変換されたもので、カラー版DVDも存在するらしい。これは観たい。

●参照
コーエン兄弟『トゥルー・グリット』、『バーン・アフター・リーディング』


大田昌秀『こんな沖縄に誰がした 普天間移設問題―最善・最短の解決策』

2011-07-09 13:10:27 | 沖縄

大田昌秀『こんな沖縄に誰がした 普天間移設問題―最善・最短の解決策』(同時代社、2010年)を読む。明日、大田氏の講演を聴きに行く予定なので、その予習でもある。

本書の構成は大きく2つに分けられる。前半は、琉球・沖縄が置かれた<構造的差別>の歴史、後半は、普天間・辺野古など基地についての論考である。

明治政府の琉球藩(および琉球処分後の沖縄県)に対処する方針を示した文書を読むと、確かに、ヤマトゥの一部ではなく植民地としか見なさない視線、また、琉球・沖縄の政府もそれに追従して住民に背を向ける姿、すなわち現在との相似形を見てとることができる。そして、沖縄の処遇は敗戦後米国によって一方的に定められたのではなく、天皇や外務官僚など日本政府も一体となっての合作であったことも。

1970年代に明るみに出たにも関わらず、いまだ沖縄以外では健忘されている「天皇メッセージ」。昭和天皇は、米国が沖縄の軍事占領を継続し、それを日本に主権を残したままでの長期租借という擬制に基づく形にするよう、米国に伝えた。ヤマトゥを護るために、沖縄を差し出したのであり、それは戦時の本土防衛のための捨て石と同じ構造であった。また、日本国憲法第九条の成立過程については非常に多くの議論があると思うが、ここでは、天皇制存続のための引き換え条件であったという論を展開している。この過程を経て、既存の政治体制を間接的に利用した米国の占領が完成した。

「もし、日本本土が沖縄と同じように直接軍政下におかれていたのなら、あるいは、戦後沖縄の苦難にみちたいびつな歩みについても、また現在に至るまで安保体制の負担を一方的に押しつけられている不当さについても、わが身のこととしてもっと身近に感得しえたかもしれない。だが、そうではなく日本本土が間接占領下にあったことから、占領軍の施策・言動にたいする人びとの評価も、直接占領下の沖縄とは、あらゆる意味で大きな開きがあったことは、否めない。」

本書後半の、辺野古での新基地建設(あるいは、ここでも、移転という擬装)に関する検証は素晴らしい。1960年代から辺野古は狙われており、大浦湾の軍港化もその目的のひとつだとかねてから言われているが、ここでは、多くの米国・米軍資料をもとに、論破不可能なほどにそれを確かめている。そして、普天間をはじめ多くの米軍基地を単純撤去するチャンスは幾度となくあったにも関わらず、1995年の米兵少女暴行事件に端を発した基地縮小を新基地建設とのパッケージにすり替えてしまった橋本政権、米国にすり寄った小泉政権をはじめ、外交の失敗が問題を拡大し続けていることをも示している。

さらに興味深いのは、新基地建設によって利益を得るはずの事業者がからみあった利権構造である。例えば、埋め立てに関して海砂業者が控えているのだろうということは頭にあったが、本部半島の琉球石灰岩もそこに噛んでいたとは気がつかなかった。


琉球セメントの採掘する石灰岩、2007年末 Leica M4、Carl Zeiss Biogon ZM 35mmF2、Tri-X、イルフォードマルチグレードIV(光沢)、2号フィルタ

●参照
二度目の辺野古
高江・辺野古訪問記(2) 辺野古、ジュゴンの見える丘
名古屋COP10&アブダビ・ジュゴン国際会議報告会
ジュゴンの棲む辺野古に基地がつくられる 環境アセスへの意見(4)
『世界』の「普天間移設問題の真実」特集
○シンポジウム 普天間―いま日本の選択を考える(1)(2)(3)(4)(5)(6
屋良朝博『砂上の同盟 米軍再編が明かすウソ』
渡辺豪『「アメとムチ」の構図』
押しつけられた常識を覆す


『東京のコリアン・タウン 枝川物語』

2011-07-09 08:42:20 | 韓国・朝鮮

枝川に焼肉を食いに行こうと思い続けているうちに時間が経ってしまった。興味があったので、江東・在日朝鮮人の歴史を記録する会『東京のコリアン・タウン 枝川物語』(樹花舎、増補新版2004年)を読む。大阪の鶴橋(猪飼野)済州島四・三事件(1948年)と切り離せないように、枝川の成り立ちは東京都(東京市)の差別的政策に因っている。

1910年、韓国併合。1919年、三・一独立運動。1923年、関東大震災。このとき東京府に居住するコリアン5500人のうち1300人が数日間で虐殺された。そして1941年、東京市により枝川に朝鮮人集合住宅が建設され、江東区内のコリアンが強制的に1ヵ所に押し込められた。枝川の敷地の一角には「隣保館」が建ち、そこでは同化・皇民化教育の強制がなされていた。当時の枝川は劣悪な環境の埋立地であったという。このように、一貫して排外的、蔑視的、監視的な政策が取られてきた歴史がある。

日本の敗戦後は、韓国への帰国や1959年からの「北朝鮮帰国事業」などにより急減することはあっても、枝川はずっとコリアンタウンであり続けている。皇民化教育を行っていた「隣保館」が現在では「東京朝鮮第二初級学校」となっているのは皮肉なことに違いない。2003年に石原知事の東京都がその土地明け渡しと地代の支払いを求めるという、歴史的文脈を無視した提訴をしているが、2007年には和解に至っている。

このような弾圧政策は石原都政ではじまったわけではない。そのあたりの実態が、本書に多く収められた聞き書きにある。

1949年、深川事件(成田事件)。捜査のために集落に入った警官が被疑者を至近距離から撃った。住民が怒り、それに対し警官600人が集落を包囲、6人を逮捕。
1952年、メーデー参加の容疑者捜査という名目で警官1000人が集落を包囲、21人を逮捕。

行政の差別政策であるだけでなく、メディアも「事件」や「集落」をセンセーショナルに書き立て、差別感情を煽っていた。程度はともかく、その構造は現在につながっている。参政権の問題もその文脈で考えるべきだろう。

ところで、興味深い話があった。唐辛子豊臣秀吉の侵略戦争とともに朝鮮半島に伝わったとされている(>> リンク)。一方、チェサ(朝鮮の祭祀)の儀礼準則ができたときには唐辛子伝来前であり、当然キムチもなかった。そんなわけで、キムチを供えては駄目だとする家もあったそうである。

●参照
赤坂コリアンタウンの兄夫食堂(赤坂)
林海象『大阪ラブ&ソウル』(鶴橋)
『済州島四・三事件 記憶と真実』、『悲劇の島チェジュ』(鶴橋)
梁石日『魂の流れゆく果て』(鶴橋)
鶴橋でホルモン(鶴橋)
野村進『コリアン世界の旅』
朴三石『海外コリアン』、カザフのコリアンに関するドキュメンタリー ラウレンティー・ソン『フルンゼ実験農場』『コレサラム』
『世界』の「韓国併合100年」特集
尹健次『思想体験の交錯』
尹健次『思想体験の交錯』特集(2008年12月号)
金石範『新編「在日」の思想』
李恢成『沈黙と海―北であれ南であれわが祖国Ⅰ―』
李恢成『円の中の子供―北であれ南であれわが祖国Ⅱ―』
李恢成『伽�塩子のために』
李恢成『流域へ』
朴重鎬『にっぽん村のヨプチョン』
高崎宗司『検証 日朝検証』 猿芝居の防衛、政府の御用広報機関となったメディア
菊池嘉晃『北朝鮮帰国事業』、50年近く前のピースの空箱と色褪せた写真
宮里一夫『沖縄「韓国レポート」』(唐辛子伝来)
朴寿南『アリランのうた』『ぬちがふう』
『弁護士 布施辰治』
布施柑治『ある弁護士の生涯―布施辰治―』


「らーめん西や」とレニー・ニーハウス

2011-07-07 23:55:49 | 北海道

札幌に所用で足を運んで、記者のJOE_asさんを待つ合間に、クラフトショップを覗いた。いろいろ150円の缶バッジがあって、その中に、クリント・イーストウッドの映画音楽で知られるレニー・ニーハウスのバッジもあった。別に札幌とは関係ないが、これを自分への札幌土産とする。村上春樹のいう「小確幸」か。

夜の帰り便までの間に、書肆吉成で古本でも漁ろうかと思っていたのだが、てんやわんやでそんな時間はとてもない。結局、面倒くさくていつも立ち寄る駅ビル10Fの「札幌ら~めん共和国」で、「らーめん西や」に入り、半ラーメンとカニ丼を食べる。欲張らない、これでよし。

●参照
札幌「五丈原」
札幌「雪あかり」、「えぞっ子」
デュッセルドルフ「匠」(西山製麺)


赤坂コリアンタウンの兄夫食堂

2011-07-06 23:25:25 | 韓国・朝鮮

所用で赤坂に出かけたので、コリアンタウンで評判のいい「兄夫(ヒョンブ)食堂」でランチを食べた。随分前に夜中の12時から朝まで呑んで以来のコリアンタウン、徘徊するだけで楽しい。

ランチセットは、大量のキムチ、ナムル、ご飯、骨付きカルビ、半冷麺。本当に旨く大満足。夜来たらまた嬉しいだろうね。

●参照
鶴橋でホルモン


『大江健三郎 大石又七 核をめぐる対話』、新藤兼人『第五福竜丸』

2011-07-05 06:20:35 | 環境・自然

『大江健三郎 大石又七 核をめぐる対話』(NHK・ETV特集、2011/7/3 >> リンク)を観る。

大石又七氏は漁船・第五福竜丸の乗組員であった1954年3月1日、マーシャル諸島のビキニ環礁近くで米国により秘密裡に行われた水爆「ブラボー」の実験に遭遇する。乗組員たちが浴びた放射線量は2000~3000ミリシーベルトと致死量の半分に達しており、既に乗組員23人中14人が亡くなっている(その多くが癌)。大江健三郎は大石氏より1歳年下、大学入学時に駒場の立て看で同世代の若者が被曝したことを知ったという。

1953年8月12日、ソ連の水爆実験が米国にショックを与える。
1953年12月8日、アイゼンハワー米大統領が国連で演説。核兵器のIEAによる平和的管理を謳う。
1954年3月1日、米国による秘密裡での水爆ブラボー実験、マーシャル諸島の住民と第五福竜丸が被曝。
1954年9月24日、乗組員最初の犠牲者(久保山氏)。同じ日、「読売新聞」は、原子力平和利用の記事を掲載。

米国の矛盾する行動は非難を浴び、日本では、1955年に「第一回原水爆禁止世界大会」(原水禁)が開かれている。冷戦下にあって、米国は日本の共産主義化を恐れた。国家安全保障委員会(NSC)の当時の報告書には、「核兵器に対する日本人の過剰な反応によって核実験の続行が困難になり、原子力平和利用計画にも支障をきたす」とあり、「日本に対する心理戦略計画」を検討すべきであると書かれていた。

そのとき、世論工作のパイプとして登場したのが正力松太郎(当時、読売新聞社主)であった。正力は財界に働きかけ、原子力平和利用のキャンペーンを打ち続けた(>> リンク)。当時の「読売新聞」には、「原子炉に危険なし―安くつく発電のコスト」、「野獣も飼ならせば家畜」という文字が躍っている。

1955年1月4日、日米合意文書に調印し、事件を政治決着、米国を免責。「問題ない」ゆえに乗組員を全員退院させる。
1955年4月28日、原子力平和利用懇談会発足。
1955年11月~、全国で「原子力平和利用博覧会」開催。正力や中曽根康弘の顔が見える。
1957年8月20日、東海村・原研の実験炉が臨界に達する。燃料は米国の濃縮ウランだった。
1965年、第9回原水禁世界大会。すべて反対すべきとする社会党(当時)と、社会主義国の核を擁護する日本共産党とが対立し、分裂に至る。
1967年、夢の島に放置されていた第五福竜丸が発見される。
1975年、米国のマーシャル諸島住民に対する影響調査の報告書。白血病は「放射能と関係があるかもしれないし、ないかもしれない」と記述。実際には、流産や異常出産、甲状腺障害が相次いでいた。
1986年、マーシャル諸島が米国より独立。平和ミュージアム設立。

大江健三郎は、ヒロシマナガサキからビキニを経てフクシマに至る歴史、それと並行するこのような欺瞞の歴史を述べ、「それは今も続いている」と目を見開いた。そして、責任を取るべき側が安全な場所に居り、逆にそれを追い詰めないという構造を「日本人のあいまいさ」であると表現する。しかしそれは早晩行き詰ってしまうものであり、なぜフクシマが起きたのか、みんながわかるようにつきつめて調査し、報道すべきだと言う。

大江は言う。「deter」という英語には、相手を暴力により脅かすという意味が込められている。しかし、「抑止力」という言葉には、まるで弱い者のための力であるかのような平和的なイメージが糊塗されているのだ、と。

続けて、録画しておいた、新藤兼人『第五福竜丸』(1959年)を観る。

映画は、1954年1月、第五福竜丸が焼津の漁港を出港する場面からはじまる。林光の明るい音楽、皆が笑顔で見送る。漁場に向かうまでの船上では、気の良い乗組員たちが口笛を吹き、軽口を叩き、時には喧嘩しながら、共同作業を行う。今見るとそらぞらしく、まるで社会主義のプロパガンダ映画である。デビュー間もない井川比佐志のベタな演技にも、場にそぐわない宇野重吉(最初に亡くなる久保山氏の役)の顔にも違和感を覚える。

水爆実験の場面は迫真性がある。白い光を全員が呆然と見つめ、西から太陽が昇った、いやピカドンじゃねえか、と騒ぐ乗組員たち。ほどなくして轟音が届き、真っ白い粉が降り注ぐ。彼らにはそれが何であるか判らないが、砕かれた珊瑚礁の「死の灰」であった。焼津に戻ったときには顔が真っ黒になっていた。そして被曝と判明するや東大附属病院と東京第一病院に入院する。

映画の出来は贔屓目に見ても良くない。最後には、久保山氏(宇野重吉)の死に際して、大臣や米大使代理のスピーチを入れ、追悼文、合掌、鳩と続く。もちろん歴史的な価値は大きい。

●参照
○『科学』と『現代思想』の原発特集 >> リンク
○黒木和雄『原子力戦争』 >> リンク
○『これでいいのか福島原発事故報道』 >> リンク
○有馬哲夫『原発・正力・CIA』 >> リンク
○原科幸彦『環境アセスメントとは何か』 >> リンク
○山口県の原発 >> リンク
○使用済み核燃料 >> リンク
○『核分裂過程』、六ヶ所村関連の講演(菊川慶子、鎌田慧、鎌仲ひとみ) >> リンク
○『原発ゴミは「負の遺産」―最終処分場のゆくえ3』 >> リンク
○東北・関東大地震 福島原子力の情報源 >> リンク
○東北・関東大地震 福島原子力の情報源(2) >> リンク
○石橋克彦『原発震災―破滅を避けるために』 >> リンク
○長島と祝島 >> リンク
○既視感のある暴力 山口県、上関町 >> リンク
○眼を向けると待ち構えている写真集 『中電さん、さようなら―山口県祝島 原発とたたかう島人の記録』 >> リンク


『科学』と『現代思想』の原発特集

2011-07-03 14:30:10 | 環境・自然

『科学』2011年7月号(岩波書店)が、「原発のなくし方」特集を組んでいる。当然ながら、興味深い記事が多い。特に、圧力容器がくたびれて脆くなっているとの指摘は恐ろしい。

飯田哲也(環境エネルギー政策研究所) 原発が今後縮小していくことが「現実」である。夏の電力ピークは既存設備で対応できる。化石燃料への依存は「地獄への道」である(セキュリティ、温暖化、コスト増)。再生可能エネルギーへの戦略的シフトしか道はない。
井野博満(東大) 日本の原発は老朽化が進んでいる。それらの圧力容器は中性子照射により脆化が進んでおり、それは想定外のレベルにさえ達している。圧力容器が割れてしまったら大変なことになる。
勝田忠広(明大) 各原発での使用済み核燃料の貯蔵は満杯に近付いている。日本では貯蔵プールでの貯蔵の安全性について、原発本体よりも軽視されてきた。貯蔵プールにおける水中での貯蔵(湿式)ではなく、キャスク(コンクリートや金属容器)やサイロによる乾式貯蔵も可能である。六ヶ所村でも2012年から貯蔵が開始される。これにしても安全な解ではない。 >> リンク
原科幸彦(東工大) 日本の環境アセス法制化が遅れてきた理由は、発電所対象化に対する電力業界の反発にあった。簡易アセスメントや戦略的環境アセスメント(SEA)の整備が進んでいたなら、福島のように危険な場所に立地することが回避できた。>> リンク
樫本喜一(大阪府立大) 伊方、京大原子炉実験所は中央構造線の真上という危険な場所にある。日本において、リスクは危険な場所に集まる構造にある。

先日記者のDさんと呑んだ際に、東琢磨さんの最近の活動を訊いたところ、これに書いていたといって『現代思想』2011年5月号を貸してくれた。震災発生後まもなくして組まれた特集号である。

梅林宏道(ピースデポ) 超高度科学技術社会においては、一次情報を権力機構がまず受け取り、一般市民にはそれによる評価や判断、行動指針のみが示される。一般市民も、解釈を付与されないデータを与えられると怒りはじめる。その結果、権力機構が与えるのは、どこにでも行きつける「あみだくじ」になってしまう。この背景には、原子力の「平和利用」が軍事利用の一部であったこと、日米安保と日米原子力協力とが二頭馬車であったことが挙げられる。構造を変えるためには、非政府組織(NGO)を豊富にするしかない。
自衛隊の復興利用というもっともらしい説明にも注意すべき。

「国家権力が脱軍備することに比例して、権力機構の社会化が普遍化していくであろう。福島原発事態のような危機において、軍事力はまったく不必要である。空母ではなく移動型海上防災基地が必要なのであり、戦車や攻撃ヘリコプターではなく土木用重機や捜索救助のための緊急派遣救難隊が必要なのである。」

柄谷行人 阪神大震災以降、回復の名のもとに新自由主義化が進んだ。今回、低成長社会を受け入れ、新たな経済と市民社会の形成が掲げられるべきだろう。

森達也 「がんばれ」や「強い国ニッポン」のメディアでの連呼は、日本に内在する集団化への希求が顕れたものであって、それが都知事選での石原知事の圧勝ともつながっている。「ニッポン」には、在日外国人の被災という視点が含まれていない。今回、原発の是非を二者択一的に迫るような言説が多くなってきているが、これも集団化促進の際に発現しやすくなるものであって、実際にはもっとたくさんの選択肢がある。それは敵/味方、正義/悪の二者択一をもって悪政を進めたブッシュ政権とも共通する。「強い国」よりダウンサイジングのほうがしっくりくる。

吉岡斉 日本には本格的な原発解体・撤去の経験がない(原研の試験炉やプロセス途上の日本原電の東海一号機を除く)。これまでの廃炉コストの見積もりは過小評価であって、「クリーン」な廃炉でも100万kW級で1000億円はかかるだろう。さらに福島のような「ダーティ」なケースでは、解体・撤去だけで数兆円以上、さらには他のコスト(医療支援、生活支援、代替発電所建設、電力不足による経済的損失、土地利用の限定による経済的損失)を含めれば数十兆円にものぼるだろう。仮に50兆円だとすれば、従来原子力の発電コストだと喧伝されてきた5.9円/kWhを上回る6.7円/kWhが加算され、コストは倍以上となる。

飯田哲也(環境エネルギー政策研究所) 北欧やカリフォルニア州では、「反原発の大衆化」が政治的に利用され、社会制度の中に組み込まれてきた。それはドイツにおいて緑の党やエコ研究所という形となった。一方日本では、「反原発」は異端であり続け、政治的な稚拙さを置いておいても、本質的には、水俣病のように、「大衆的な異議申し立てを徹底的に無視し、却下し、異端視する政治文化」があったためである。
原子力をめぐっては、思考停止や知の空洞化が進み、そのため、軽い言説や無責任な御用学者の言説が流布している。

東琢磨 今私たちにできることは、「倫理的・美的に自粛を拒否すること」であり、「言語的にドグマを監視し見抜くこと」である。それは「下からの生政治」の展開につながるものだ。

矢部史郎 「私的領域に関するイデオロギー」を怒りをもって見直し、「生産領域に関するイデオロギー」を断罪せよ。

●参照
○黒木和雄『原子力戦争』 >> リンク
○『これでいいのか福島原発事故報道』 >> リンク
○有馬哲夫『原発・正力・CIA』 >> リンク
○原科幸彦『環境アセスメントとは何か』 >> リンク
○山口県の原発 >> リンク
○使用済み核燃料 >> リンク
○『核分裂過程』、六ヶ所村関連の講演(菊川慶子、鎌田慧、鎌仲ひとみ) >> リンク
○『原発ゴミは「負の遺産」―最終処分場のゆくえ3』 >> リンク
○東北・関東大地震 福島原子力の情報源 >> リンク
○東北・関東大地震 福島原子力の情報源(2) >> リンク
○石橋克彦『原発震災―破滅を避けるために』 >> リンク
○長島と祝島 >> リンク
○既視感のある暴力 山口県、上関町 >> リンク
○眼を向けると待ち構えている写真集 『中電さん、さようなら―山口県祝島 原発とたたかう島人の記録』 >> リンク


実相寺昭雄『無常』

2011-07-03 12:37:58 | 関西

実相寺昭雄『無常』(1970年)を観る。随分久しぶりだが、改めて、実相寺とは偉大なるスタイリストであったのだと強く思う。『怪奇大作戦』『ウルトラマン』といったテレビシリーズでも、映画でもそうだった。晩年の『姑獲鳥の夏』(2005年)においてなお、マガマガしいまでの癖と毒を発散していた。


『アートシアター ATG映画の全貌』(夏書館、1986年)より

何の救いもない酷い物語であり、地獄極楽や悪に関する演説などはすべて実相寺の独特な撮影世界を引き立たせるために奉仕する。超広角レンズと魚眼レンズによる奥への/からの動き、下からのアングル、傾いた地平、逆光、ハイキー、画面半分での視線をそらした顔のクローズアップ。それはあまりにもわかりやすく、だからこそフォロワーが出てこない。

舞台は琵琶湖近くの旧家と京都である。丹波篠山を舞台にした『哥』といい、『怪奇大作戦』での「京都買います」「呪いの壷」での京都といい、なぜ江戸っ子の実相寺がこのあたりにこだわったのだろう。そういえば、悲惨な死に方をする書生を演じた花ノ本寿は、「呪いの壷」において自滅する男の役でもあり、毒粉を自ら浴びて黒目の色が変わる場面は忘れられない(『無常』での旧家と同じ日野という名前だった)。


ウルトラマンマックスとメトロン星人(『ウルトラマンマックス』、「狙われない街」の再現)
『ウルトラマン展』(2006年、川崎市民ミュージアム)より
Pentax SP500、EBC Fujinon 50mmF1.4、Velvia100

●参照(実相寺昭雄)
霞が関ビルの映像(『ウルトラマン』、「怪獣墓場」)
『時をかける少女』 → 原田知世 → 『姑獲鳥の夏』
怪獣は反体制のシンボルだった(『ウルトラマン誕生』)

●参照(ATG)
黒木和雄『原子力戦争』
若松孝二『天使の恍惚』
大森一樹『風の歌を聴け』
淺井愼平『キッドナップ・ブルース』
大島渚『夏の妹』
大島渚『少年』


コーエン兄弟『トゥルー・グリット』、『バーン・アフター・リーディング』

2011-07-02 23:23:09 | 北米

飯田橋のギンレイホールで先週観た、ジョエル・コーエン&イーサン・コーエン『トゥルー・グリット』(2010年)が面白かった。映画館でコーエン兄弟を観るのは、『ファーゴ』(1996年)以来だ。

ウェスタンもコーエン兄弟の手にかかると、これほどに小気味良く斬新なのだなと思わせてくれる。時にスクリューボール・コメディーのようであり、またビリー・ワイルダーのようでもある。というのは、俳優ひとりひとりがセリフごとにケレン味たっぷりのパフォーマンスを見せる、その切り返しがワイルダーを思わせるのだ。

また、クローズアップ(蛇に咬まれた少女を乗せて走る必死の馬の横顔など)や、奇抜な角度での撮影(馬で走りながら、既に倒した相手の姿を見るショットなど)といった撮り方が、まるで、蛭田達也『コータローまかりとおる!』のような超高水準のアクション漫画のようでもある。

老保安官を演じたジェフ・ブリッジスの、やはりケレンが凄い。自分の記憶のなかでは、『恋のゆくえ』(1989年)の色男でとどまっていた。あれから20年以上経っているのだから当然だ。

大傑作だと評価するつもりは毛頭ないが、セリフも練られた佳作であることに間違いはない。

コーエン兄弟はやっぱり素晴らしいなと思い、ついでに、録画しておいた『バーン・アフター・リーディング』(2008年)を観る。読み終わったら燃やせ、つまり、昔のスパイ番組を想起させながら、CIAや諜報活動をコケにした映画である。これもやはりアクション漫画的。ジョン・マルコヴィッチも、ジョージ・クルーニーも、ブラッド・ピットも、フランシス・マクドーマンドも、悪乗りの許可を与えられて遠慮せず暴れているような感覚である。何度か腹が痙攣しそうになった。

それにしてもマルコヴィッチ、『コン・エアー』(1997年)といい、『RED』(2010年)といい、イってしまった化け物を演じても超一流。


伊坂幸太郎『重力ピエロ』と森淳一『重力ピエロ』

2011-07-02 10:55:48 | 東北・中部

伊坂幸太郎『重力ピエロ』(新潮文庫、2003年)を読む。『ゴールデンスランバー』(2007年)でも惹きつけられた、個人の発語と物語との奇妙なずれがあって、読むのをやめられなくなる。

仙台の連続強姦犯の子として生まれた男、自分の息子として育てる父、奇人変人でないために狂言廻しの役を演じる兄という「最強の家族」の物語である。伊坂幸太郎は、職業や立場によってではなく、あくまで個性によって人物を描く。それがとても巧い。

この小説では、罪を罪とも思わない連続強姦犯を殺すことが社会の規則を破っているからといって、それに支配されることをよしとせず、叛旗を翻す。『ゴールデンスランバー』では、国家という大きな力から逃げて、生き続けることを美学として掲げた。<個>というものに対する強い信なのだろう。

小説家は、目に見えるものに全面的に左右されることにさえ、強い疑いの眼を向ける。ローランド・カークに関するエピソードである。息子が、癌で入院している父に、カークのCD『Volunteered Slavery』を聴かせる場面がある。

「「この演奏しているのが盲目だと聞いて、俺には納得が行ったよ」 父が笑った。「この楽しさはそういう人間だから出せるんだ」
「そういう人間?」
「目に見えるものが一番大事だと思っているやつに、こういうのは作れない」 父の言わんとしていることは、薄らとではあったが、分かった。この、「軽快さ」は、外見や形式から異なるところから発せられているのだろう。しかも、わざと無作法に振舞うようなみっともなさとも異なり、奇を衒ってもいない。言い訳や講釈、理屈や批評家らもっとも遠いものに感じられた。」

ところで気になったこと。ある場面で、怪談話をひとつ紹介している。深夜に車で走り抜けると、後ろから四つん這いの女性がもの凄い速さで追ってくるという怪談だ。私は高校生のときに、『ムー』を愛読していて(笑)、中でも破天荒な話が満載の「私の怪奇・ミステリー体験」という連載が好きだった。その中に、まさにその話があって、あまりのバカバカしさとおぞましさのため、いまだに覚えている。「彼のバイクの後ろに乗って夜の山道を走っていると、彼が前方に何かを見つけて急停車し、Uターンした。道路には女が立っていた。恐怖に叫びながらバイクを走らせる彼。後ろを振り向くと、待て~などと叫びながら女が四つん這いで追いかけてきた」といったものだった。そうか、あれはポピュラーな話だったのか。今まで誰に話しても「何それ?」って顔をされたけど。

ついでに、映画化された、森淳一『重力ピエロ』(2009年)を観た。「仙台シネマ認定制度」では、これが第1回認定作品、第2回が中村義洋『ゴールデンスランバー』(2010年)だという。後者と違って、仙台にさほど詳しいわけではない私には、駅くらいしかわからない。今年は何だろう。

プロットも変えてありよくまとめてはあるが、小説が発散し続けている<個>の力が希薄である。彼らは<ことば>により形成されている<個>であり、当然それぞれが唯一無二の存在であることを見せつけなければならない。ところが、父は物分かりの良い男、既に亡くなった母は綺麗で苦悩を抱える存在。みんな奇人変人だったはずで、それでこそ<個>の価値が輝いたはずだ。母の役は、鈴木京香よりも、きっと樹木希林のほうがよかった。

●参照
伊坂幸太郎『ゴールデンスランバー』と中村義洋『ゴールデンスランバー』