Sightsong

自縄自縛日記

宮森小学校ジェット機墜落事件のドキュメンタリー

2011-07-01 00:51:36 | 沖縄

駒込の「琉球センター・どぅたっち」に足を運んだ。6月30日は、沖縄県石川市(現・うるま市)の宮森小学校に米空軍のジェット機F100が墜落し、児童11人とその周辺の住民6人を殺した事件(1959年)から52年目にあたる。その日に上映するテレビドキュメンタリーを観るためである。

①ニュースステーション(テレビ朝日)(1999年:40年目)

久米宏が40年前の事件を紹介する。米軍はこれを「不測の事故」だと断じ、1959年の米空軍年次報告書には、「石川の悲劇」というタイトルで、事故原因を台南エアーアメリカの整備技術・品質管理が劣っているためだと書かれている。しかし実際には、不測の事故などではなく、単なる空軍の単純ミスであった。墜落前にパラシュートで脱出した操縦兵ジョン・シュミットを含め、誰も罰せられることはなかった。そして沖縄の立法院も、米国の気分を害しないように振る舞っていた。

②『幼い命を守りたい 宮森小・米軍機墜落から51年』(NHK沖縄「きんくる」)(2010年:51年目)

事件当時の教師が、最近、証言集『沖縄の空の下で①』をまとめた。事件後、この教師は、殺された児童の親に「君は生きているじゃないか」と、胸倉の肉までも掴まれている(番組の司会者が、「誰も悪くないのに。本当の敵は・・・」と発言した。ヤマトゥのテレビではありえないことだ)。自らを責める教師が、何人もいる。

ある犠牲者の父が、「基地がある限りこの危険はやまない」と言う。ゲストとして出演した新崎盛暉氏は、当時「島ぐるみ闘争」が軍用地料引き上げなどでおさまってきていたときこの事件があり、皆が現実に引き戻されたのだとした上で、やはり、「このような事件は今後もいつ起きるかわからないし、いつも軍優先で処理される」と言った。

③『忘れたい 忘れてほしくない』(琉球朝日放送)(50年目:2009年)

犠牲者の父は、大火傷を負って亡くなった息子を、さらに火葬にすることなどできなかったのだと回想する。そのため、骨壷は通常より大きい。

また、重傷を負いながら生き残った人たちがいる。頭蓋骨にヒビが入り、転んだら割れてしまうから激しい運動ができなかったのだという。それでも、23歳に亡くなるまで、陸上に打ち込んだ者もいた。彼はケロイドのため発汗ができず、本来は運動してはならなかった。そして事件から亡くなるまで17年経っていたため、犠牲者には入っていない。

当時の石川市長は、事件から3か月後、米軍に感謝状を贈っている。そうしなければ賠償が不利になってしまうとの想いがあった。加害者の顔色を伺う逆転の構図がそこにはあった。そして、綺麗事を最初は述べたブース高等弁務官は賠償をなかなか認めず(特に人身)、要求の10分の1にまで抑え込まれてしまう。

事件後、「Okinawa Catastrophe」と題された「ワシントン・ポスト」紙の記事では、社会党(現・社民党)が政治問題として利用するのではないかと危惧していた。しかしそれは杞憂であった。岸政権の日本政府は住民よりも日米関係を重視した

事件後50年間で、米軍機の墜落は43件、部品落下を含めると487件にものぼる。事件直後、児童の親たちさえ米軍は排除したという。そして2004年の沖縄国際大学ヘリ墜落事件のときには、そのような権利がないはずの米軍が日本の警察も学生も入れることはなかった。2008年の名護市での米軍セスナ機墜落事件(小学校からすぐ近く)の際には、米軍が残骸を持ち去ったため調査さえできなかった。まさに宮森小学校の事件は現在の問題に他ならない。

この2009年、事件当時に小学生だった宮森小学校の校長が、宮森「630館」をオープンさせている。そこに展示された息子の写真をハンカチで拭い、泣きながら写真に頭をつける母親の姿があった。

●参照 沖縄のドキュメンタリー
森口豁『ひめゆり戦史』、『空白の戦史』
森口カフェ 沖縄の十八歳
『沖縄・43年目のクラス会』、『OKINAWA 1948-49』、『南北の塔 沖縄のアイヌ兵士』
『“集団自決”62年目の証言~沖縄からの報告~』、『沖縄 よみがえる戦場 ~読谷村民2500人が語る地上戦~』
『兵士たちの戦争』、『未決・沖縄戦』、『証言 集団自決』
『ひめゆり』 「人」という単位