Sightsong

自縄自縛日記

キース・ジャレット『Solo Performance New York '75』

2017-01-01 18:43:57 | アヴァンギャルド・ジャズ

キース・ジャレット『Solo Performance New York '75』(Hi Hat、1975年)を聴く。

Keith Jarrett (p)

『Koln Concert』の演奏が1975年1月24日、『The Bremen Concert』が2月2日、そして本盤が2月13日。つまりドイツのケルンとブレーメンで1月から2月に演奏し、アメリカに戻ってからまた本盤の演奏を行ったことになる。

録音はあまり良くないが、それはさほどの問題にはならない。最初は、単一音の繰り返しと展開から如何に花開かせるかを模索しているようであり、やがて、確かにケルンでの演奏に共通する雰囲気の旋律を繰り出してくる。これは歓びに満ちていて、文字通り美しい。

面白いことに、ブレーメンでの演奏にあり、また同時期のアメリカン・カルテットの曲に強く漂っていたような、フォーク感も漲っている。指は絢爛に速く動き、同時に、レイ・ブライアントのソロピアノ『Alone at Monteaux』におけるブルースさえも想起させることだ。ブライアントの演奏は1972年、時代の力もあったのだろうか。

これがケルンのかわりに世に出て称賛されていても、おかしくはなかったほどの内容。

●キース・ジャレット
キース・ジャレット『North Sea Standards』(1985年)
キース・ジャレット『Standards Live』(1985年)
ピーター・ブルック『注目すべき人々との出会い』、クリストのドキュ、キース・ジャレットのグルジェフ集 (1980年)
キース・ジャレット『Staircase』、『Concerts』(1976、81年)
キース・ジャレットのインパルス盤(1975-76年)
キース・ジャレット『Arbour Zena』(1975年)
キース・ジャレット『The Bremen Concert』(1975年)
70年代のキース・ジャレットの映像(1972、76年)
キース・ジャレット+チャーリー・ヘイデン+ポール・モチアン『Hamburg '72』(1972年)
キース・ジャレット『Facing You』(1971年)


ザ・コンバージェンス・カルテット『Slow and Steady』

2017-01-01 10:26:52 | アヴァンギャルド・ジャズ

ザ・コンバージェンス・カルテット『Slow and Steady』(No Business Records、2011年)を聴く。

The Convergence Quartet:
Taylor Ho Bynum (cor)
Alexander Hawkins (p)
Dominic Lash (b)
Harris Eisenstadt (ds) 

ハナから向こう受けを狙ったものではなく、キャッチ―なプレイや曲などはない。それでも、どの断面も愉快である。

もちろん典型的なジャズ・フォーマットなのだけれど、曲のなかの構成やメンバーの協調(グループ名からいえば収束も離散もある)のあり方は、典型的なものよりもはるかに自由である。かといって、ピーター・エヴァンスがやってきたような過激な破壊と再構築ではない。このあたりが、テイラー・ホー・バイナムの微妙なポジションであり、面白さではないか。

ハリス・アイゼンシュタットのドラムスは爆発的な音を立てるでもなく、繊細だ。バイナムのコルネットは全体のバランスを視て動いているようでもあり、各瞬間に分裂しているようでもある。そして各人が近寄ってユニゾンでプレイしたり、離れて違う種を仕掛けたりする。リズムもかなり自由度を高くして随時変更されている。

●テイラー・ホー・バイナム
『Illegal Crowns』(2014年)
アンソニー・ブラクストン『Ao Vivo Jazz Na Fabrica』(2014年)
Book of Three 『Continuum (2012)』(2012年)
アンソニー・ブラクストンとテイラー・ホー・バイナムのデュオの映像『Duo (Amherst) 2010』(2010年)
アンソニー・ブラクストン『Trio (Victoriaville) 2007』、『Quartet (Mestre) 2008』(2007、08年)

●ハリス・アイゼンスタット
ハリス・アイゼンスタット『Old Growth Forest』(2015年)
ハリス・アイゼンスタット『Canada Day IV』(2015年)
ネイト・ウーリー『(Dance to) The Early Music』(2015年)
ネイト・ウーリー『(Put Your) Hands Together』(2011年)


アンドリュー・カルプ『ダーク・ドゥルーズ』

2017-01-01 02:20:57 | 思想・文学

アンドリュー・カルプ『ダーク・ドゥルーズ』(河出書房新社、原著2016年)を読む。

「ダーク・ドゥルーズ」とは、闇の力を呼び起こすジル・ドゥルーズの別キャラ名。ドゥルーズの思想は、リゾームであれ逃走線であれ、明るみの下で、繋がりを求める前向きで自己主体的なものであった。しかし、それは、情報化時代において力を失っている。どっちつかずの、論理と理屈を理解することに注力する者ばかりだ。そうではなく、闇の力と憎しみの力をもって、繋がりの理屈を理解する前に、これではいけない箇所を突破すべし。

―――まあ、ざっくりと言えばそんなところだろう。ああ、バカバカしい。ドゥルーズの思想はそんな明るく、既存の論理回路=コードをもって良しとするものではなく、むしろ正反対である。

もっとも、著者はそんなことくらい解ったうえで、爆弾としてこの本を世に問うたのかもしれないが、いかにも軽薄だ。既存のプログラムをまったく認めず、とにかく閉塞化して突破口を見出せないこの社会に対して、破壊的・破滅的な「地殻変動」を煽るだけの言説であり、「戦争が起きてくれればいいのに」という叫びと何が違うというのか。

著者は、「国家、国民、あるいは人種をフィクションであると非難しても、そしてそれらに対する歴史的、科学的正当化がどれほど真実に反していたとしても、それらの権力を駆逐することはほとんどできない」とする(117頁)。それは真っ当な指摘であるとしても、そのひとつの事例として挙げられるものが、「地球温暖化の真実について民衆に長々と熱弁をふるう気候学者の多くは、政策の変化を促すことはしない」だそうである(118頁)。著者はなにか政策のひとつでも知っているのだろうか。抽象論ばかりを叫び、具体的な動きについてまったく視ようとしない不誠実さがここにある。現実論を放棄した処方箋を説いたナオミ・クライン『This Changes Everything』とはまた別の意味で、救いようがない。

●ジル・ドゥルーズ
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症』
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー』(上)
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー』(中)
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー』(下)
ジル・ドゥルーズ『フーコー』
ジル・ドゥルーズ+クレール・パルネ『ディアローグ』
ジル・ドゥルーズ『スピノザ』